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【家康の謎】家康が関東に移ったときの江戸はどんな感じだった?

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榎本秋の家康の謎

豊臣政権による北条攻めが終わると、家康は北条氏の旧領である関東を与えられた。
こうなると、どこを徳川家の本拠地にするか、が大事になる。広大な関東を支配するために適切な場所を選ばなければ、行政に破綻をきたす恐れがあるからだ。
常識的に考えれば、候補に上がるのは小田原、あるいは鎌倉であったろう。小田原は北条五代が本拠地とした都市であり、十分に発展している。一方、鎌倉は源氏ゆかりの地であり、鎌倉時代には鎌倉幕府が、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国統治の重要拠点であり続けた場所だ。このどちらかを選ぶのが常道であろう。

ところが、家康が本拠地にしたのは武蔵国江戸であった。秀吉の命令であったとされる。
ここは草深き寒村で、たどり着いた時に家臣たちは大いに絶望したが、家康は彼らを励まして都市の拡大に務め、ついに江戸を日本一の大都市にした――というのが、いわゆる俗説における家康の江戸入りだ。
この場合、鎌倉・小田原ではなく江戸を勧めた秀吉の指示には嫌がらせ・左遷の意味が含まれていたが、家康たちは奮闘してそれを跳ね返した、という意味もあるだろう。また、江戸入りの日付は8月朔日(さくじつ=1日)で、以後この日は徳川家と江戸幕府にとって重要な日付になった、ともいう。

さて、以上の話は近年の研究では信憑性が低いと考えられていることはご存知だろうか。
家康が入った時の江戸は、じつは寒村でもなんでもなく、立派に発展した都市であったらしいのだ。そもそも江戸を開いたのは鎌倉時代、秩父平氏の江戸氏だった。江戸氏は鎌倉幕府創設にも関わった武士団とされ、鎌倉時代後期には衰退してしまったようだ。
しかし江戸は室町時代には関東の水運における重要拠点となり、また室町時代後期(戦国時代直前)には扇谷上杉氏の家宰・太田道灌(おおた どうかん)が入った。道灌は軍事拠点として江戸城を整備しただけでなく、港町としても拡大させ、いよいよ江戸は関東の交通において欠かせない場所となるに至ったのである。

つまり、江戸は家康が入る以前から、立派に徳川家の本拠地となるに相応しい場所だったのだ。
一方、小田原は水上交通の便ということを考えると江戸ほどではなかっただろうし、鎌倉は谷の中にある狭あいな場所だったので徳川家臣団を収めるほどの敷地がなかった。秀吉による指示も、そのような前提を踏まえての前向きな助言だったと考えられるわけだ。
もちろん、江戸にも問題はあった。当時の江戸はいくつもの川が流れ込む低湿地地帯であって、水害の危険は大きく、都市を広げるための敷地も多くはなかったはずだ。しかし、それは水利・土木工事によって十分解決できる問題である。そして家康は実際にそれを実行し、のちの東京へつながる大都市・江戸を作り上げたのだ。

ちなみに、家康が最初に江戸へ入ったのは8月朔日だという定説も、否定する意見が強いようだ。
家康は小田原攻めが終わった後にすぐ会津へ向かっているのだが、その途上で7月18日に江戸へ立ち寄っているようなのだ。8月朔日というのはその後、改めて江戸を本拠地にするために入った時のことなのだろう。

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