攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加賀 の検索結果:

江戸時代をデータベース化する

…代の最初から最後まで加賀藩主をつとめたケースなら「1:1」ですが(しかし前田家は富山藩や大聖寺藩に分家を立てています)、明石藩の場合は小笠原家にはじまり、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明石松平家)がずっと藩主をつとめたことが横…

明智光秀と朝倉義景ーーあるいはあやふやな朝倉家臣伝説

…けを借りて主に隣国・加賀一向宗と戦う一方で、幕府との関係も持ち続けた。そこに京から逃れてきて味方をするよう求めたのがこの時死んだばかりの将軍・足利義輝の弟覚慶(のちの義昭)であった。義景は義昭の口添えもあって一向宗との和睦に成功するが、彼の望みである上京・出兵には色よい返事をしなかった。愛する子供を失ったばかりで気落ちしていたのだともいうが、この頃すでに名将・宗滴が死んでいたのも原因だったかもしれない。 ともあれ義景は動かず、失望した義昭は尾張の織田信長を頼って上洛、そして将…

1.譜代大名の定義

…なものが多い。実際、加賀藩の前田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。 江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…であった。 たとえば加賀藩・前田家は2千5百人、薩摩藩・島津家は1千2百4十人もの大行列で江戸と所領の間を移動したというから、相当の出費になったであろう。もちろん、これらは大大名の場合。より規模の小さい大名はそれなりの人数でよいことになっていた。にもかかわらず人数が少しずつ増加して財政が悪化する藩が続出し、幕府がこれをたびたび戒めている。大名たちの見栄が見え隠れするが、それで首を絞めているのだから世話はない。 金がかかって仕方がない江戸屋敷 江戸に屋敷を構えることも大名にとっ…

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

…(御三家、御家門)、加賀前田家。 溜の間 会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家のみ代々で、それ以外は一代かぎり。幕府の政治顧問を担う少数の有力譜代大名。 大広間 国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名。 帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。 柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。 雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…長が加わり、織田軍と加賀や越中での戦いが始まり「七尾城の戦い」が勃発します。 能登に進軍した謙信を迎え撃とうと七尾城を守る長続連は織田信長に援軍を要請するも謙信の調略により間もなく落城。援軍要請を受けていた信長は七尾城を救援する軍勢の派遣を決定し、謙信との戦いに踏み切ります。 Jokia | 城址石碑(本丸)[七尾城] 所在地 石川県七尾市古屋敷町 アクセス 車の場合、能登道路「柳田IC」から。 電車の場合、JR「七尾駅」から循環バス「まりん号」で13分で「城史資料館前」下車…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…た。石高は62万石で加賀の前田家、薩摩の島津家に次ぐ全国第3位の石高でした。 徳川幕府からは重宝され、松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称するほどでした。ここから徳川幕府参加として仙台での政宗の生き方が始まります。 仙台城と城下町を全面的に開発することにした政宗は、のべ100万人を動員する大工事を行いました。 仙台に残る多くの史跡がこの時のもので、それらを訪れることで政宗公の想いや意気込みを感じることが出来るかもしれません。 政宗は海外にも目を向け積極的に欧州、いわゆるバテ…

前田利家の赦免

…してその名を知られ、加賀百万石の礎を築いた戦国の英雄の一人である。槍を取っては大活躍し、通称の又左衛門から「槍の又左」と呼ばれた剛勇の士でもあった。 そんな彼が、実は若いころに織田氏を追放されていたことをご存知だろうか。そのまま追放されたままなら後の活躍も、加賀百万石も存在しなかったわけだが、利家は槍働きによってその窮地を自ら切り開くことに成功したのである。 そもそもなぜ追放されたのかといえば、同僚との喧嘩が原因であった。拾阿弥という男が彼の笄(髪を掻き揚げる道具)を盗み、こ…

たかまる。さんの丸岡城シンポジウム「ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎」参加レポート

…城したこと その後に加賀一向一揆に対抗するため北ノ庄城の支城として丸岡城が築城されたこと 豊原城から丸岡城に移ったことについて中井先生から、外の者が来た時にはいったん従来の城に入ってその後に新しい城を築いてそちらに移る、という織田の城づくりの特徴について挙げられ、丸岡城についても豊原城にまず柴田勝豊が入城したあとに丸岡城に移っているということがこれに一致するということを発表されていました。 その理由としては、豊原城には縄張りができないこと、そして城下町が作れないことが挙げられ…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…な目にあいかけた大名がいる。家康は加賀の大大名・前田利長と、彼と親戚関係にあった丹後の細川忠興にも謀反の疑いをかけたのだ。彼らはそれぞれ家康に人質を送って恭順したが、そうでなければ「北陸征伐」をもって関ヶ原の戦いが始まっていた可能性も十分にある。 力をブラフに使って状況を自分の有利な方向へ動かして見せた家康の知略には現代の私たちも学ぶべきだが、巻き込まれるほうとしては迷惑千万ともいえよう。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年10月31日) blog.kojodan.jp

【戦国を彩る名軍師たち】信長に気づいた軍師――朝倉宗滴

…内紛で活躍したほか、加賀・能登・越中といった一向一揆の軍勢との戦いで総大将になり、朝倉氏を滅亡の縁から救ったことでよく知られている。一向一揆との戦いにおいては特に1506年(永正3年)に九頭竜川でぶつかり合った戦いが著名で、越前における合戦として最も規模の大きいものであったという。 宗滴の活躍の場は戦場だけではなかった。古代の兵法者・孫子曰く「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」というが、彼もまた情報の重要性をよく知っていた。そのため、国内をたびたび視察しては地形を確認し…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…信を紹介したい。 (加賀本多博物館所蔵) 正信の本多一族は古くから松平氏(徳川氏)に仕えており、同族に徳川四天王のひとりである本多忠勝がいる。彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。一向一揆の重要拠点である加…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…領 新領 前田利長 加賀金沢83.5万石 119.3万石(加増) 蒲生秀行 下野宇都宮18万石 陸奥会津60万石 黒田長政 豊前中津18万石 筑前名島52.3万石 池田輝政 三河吉田15.2万石 播磨姫路52万石 加藤清正 肥後隈本25万石 51.5万石(加増) 小早川秀秋 筑前名島35.7万石 備前岡山51万石 福島正則 尾張清洲24万石 安芸広島49.8万石 細川忠興 丹後宮津17万石 豊前小倉39.9万石 浅野幸長 甲斐府中22.5万石 紀伊和歌山37.6万石 田中吉政…

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