攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

一向一揆 の検索結果:

明智光秀と柴田勝家ーーあるいは一線を引かれた同僚?

……このあたりは小説的な想像がいくらでもできるし、『麒麟が来る』がどう描くのかが楽しみだ。 織田家の勢力が全国に広がる中においては北陸方面を担当し、加賀一向一揆や上杉家と戦っていた。その最中に「本能寺の変」の急報を知るも動けず、信長の仇討ちをすることはできなかった。信長死後の織田家体制においては信長の妹・お市の方を娶り、羽柴秀吉と対立する。そして秀吉の躍進を押さえようとするも叶わず、敗れて死んだ。お市の方は彼と運命を共にしたが、彼女の娘3人は生還し、その後の歴史を動かしていく。

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…山城はその後、上杉と一向一揆の争奪の的となったりします。神保家の神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した後に佐々成政が入城するなど織田家と富山城の争奪戦を繰り広げることになります。 所在地 富山県富山市本丸1-62 アクセス 車の場合、北陸自動車道「富山IC」から約15分 電車の場合、JR「富山駅」から徒歩約10分 kojodan.jp 七尾城 こうして武田信玄や北条氏康といった強敵に織田信長が加わり、織田軍と加賀や越中での戦いが始まり「七尾城の戦い」が勃発します。 …

『影武者徳川家康』歴史の裏から立ちのぼる鮮やかな伝奇

…する野武士として主に一向一揆の味方をしてあちこちで戦っていたのだが、その容姿を買われて家康に仕えるようになった。そして主君とともに挑んだ関ヶ原の戦いにおいて、あってはならない悲劇が起きた。刺客によって本物の徳川家康が死んだのだ!合戦の真っ只中で総大将が死んだなど表沙汰にできるはずもない。二郎三郎は家康に成り代わっていくさを指揮し、どうにか難局を乗り切る。 しかし、二郎三郎にとっての苦難はこれからだった。天下分け目の戦いが終わったからといって、徳川家の立場は盤石ではなかった。豊…

たかまる。さんの丸岡城シンポジウム「ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎」参加レポート

… 越前国内で起こった一向一揆対策で豊原城に柴田勝豊が入城したこと その後に加賀一向一揆に対抗するため北ノ庄城の支城として丸岡城が築城されたこと 豊原城から丸岡城に移ったことについて中井先生から、外の者が来た時にはいったん従来の城に入ってその後に新しい城を築いてそちらに移る、という織田の城づくりの特徴について挙げられ、丸岡城についても豊原城にまず柴田勝豊が入城したあとに丸岡城に移っているということがこれに一致するということを発表されていました。 その理由としては、豊原城には縄張…

【戦国合戦こぼれ話】小手森城の撫で切りが示した若武者の決意

…の比叡山焼き討ちや、一向一揆との戦いなどでは同種のやり方が見られたとされる。しかし、東北地方には鎌倉時代以来の名門が多く、先祖代々それぞれの家が深い婚姻関係を結んできた。いわば、地域全体で親戚同士のようなものだったのだ。自然、戦いはある程度の趨勢が見えたところで決着となり、どちらかがどちらかを攻め滅ぼすまで追い詰めるようなことは少ない。 にもかかわらず、政宗はそれをやった。結果、「若き伊達氏当主恐るべし」という評判が周辺を駆け巡り、国人たちは「自分たちも同じ目にあわされるので…

【戦国合戦こぼれ話】手取川の戦い―内紛を抱えた織田軍は負けるべくして負けた

…かったことだ。能登の一向一揆衆が上杉側に付いて情報を遮断したことが原因であるらしい。「これでは戦えない」と織田軍は一時撤退を選んだのだが、ときすでに遅かった。手取川を渡ろうとしたところ、七尾城を攻め落とした上杉軍に背後から襲われ、大損害を受けてしまった。上杉軍は深追いせずにさっさと引き上げたので、織田氏の北陸方面軍が壊滅することはなかったが、手痛い敗戦といえた。 この戦いの教訓は、「環境が整えられないなら無理をするな」ということ。内憂外患の状況では傷口が拡大する前に身を引けば…

【戦国を彩る名軍師たち】信長に気づいた軍師――朝倉宗滴

…・能登・越中といった一向一揆の軍勢との戦いで総大将になり、朝倉氏を滅亡の縁から救ったことでよく知られている。一向一揆との戦いにおいては特に1506年(永正3年)に九頭竜川でぶつかり合った戦いが著名で、越前における合戦として最も規模の大きいものであったという。 宗滴の活躍の場は戦場だけではなかった。古代の兵法者・孫子曰く「敵を知り、己を知れば百戦して危うからず」というが、彼もまた情報の重要性をよく知っていた。そのため、国内をたびたび視察しては地形を確認し、それどころか周辺・遠方…

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

…宗本願寺教団の門徒(一向一揆)が入洛する噂が広がると、翌年には日蓮宗の門徒集団(法華衆)は晴元とともに山科本願寺を焼き討ちし、さらに勢力を拡大しています。 1536年(天文5年)には比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れたことに端を発し、両者の対立は激化し、最終的には延暦寺が南近江の守護・六角定頼や畿内近国の大寺院を味方につけ約6万の軍勢を動員、京都の日蓮宗寺院、法華宗二十一本山を焼き払いました。これが「天文法華の乱」で、二十一本山は堺の末寺に逃れています…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。一向一揆の重要拠点である加賀にいたというから、よほど信仰心が強かったのだろうか。 その後、時期は不明だが家康のもとに戻った正信は(1570年(元亀元年)の姉川の戦いに参戦していたとも)、やがて家康第一の側近として頭角を現した。その活躍としては、家康が豊…

毎年6月2日におこなわれる阿弥陀寺の「信長忌」にいってきました

…天正2年)の伊勢長島一向一揆攻めで命を落としていますが、彼のお墓もここ阿弥陀寺にあります。 10時から法要がはじまり、ぼくら参拝者もお焼香をさせていただきました。この頃にはざっと200人以上がいたと思います。 信長の廟所は裏手にあります。 手水鉢にも「織田木瓜」の家紋が刻まれていますね。 信長の廟所、信長の墓は近くの本能寺はじめ全国にたくさんありますが、遺骨が埋葬されているとされるのはこの阿弥陀寺だけです。 左手にあるのが森蘭丸、森力丸、森坊丸、いわゆる森三兄弟のお墓です。 …

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