攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

佐久間象山 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…が、これはまさに師・佐久間象山が当時国防強化策として提唱していたものです。 これは余談ですが、象山は後に勝海舟あての書簡の中で、新城=のちの五稜郭の築城に関する話題の中で「今は本制の城よりも『キュストバッテレイフェルドフルシカンシング』(kust-batterijen veld verschansing、海岸砲台群・野戦防塁群)の築造こそが急務である」と記しています。 うち後者、「沿岸台場の西洋流への刷新」についての例を挙げましょう。この時刷新された台場6ヶ所のうち、白神岬台…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…池田 哲郎1959「佐久間象山と蘭学-象山蘭書志-」『福島大学学芸学部論集』第10号市川 一学1850『御城地之儀ニ付存寄申上候書付』※北海道大学附属図書館北方資料室所蔵本のデジタルアーカイブに拠った。江川 英龍『砲術門人姓名簿』国文学研究資料館 伊豆韮山江川家文書データベース公開資料江差町史編集室1979『江差町史』資料編第三巻※『松前藩御達留』について、同書所収の翻刻を基準とし、北海道大学附属図書館北方資料室デジタルアーカイブ公開の同性質資料との照合を行いつつ参照した。ま…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…、斐三郎と藤原主馬は佐久間象山塾の同期同門であり、サヴァール教本に基づく洋式軍学の素養は同じように持ち備えていたと考えられます)。五稜の稜堡の間にすべて半月堡(はんげつほ)が設けられ、さらに一部は堡障(ほうしょう)を加えさらに補強していることがわかります。 今日、五稜郭に係る解説で「日本における馬出(うまだし)」などと説明されることの多い半月堡ですが、それは本来の用途ではありません。本来半月堡は外郭に砲類を置いて運用し、敵の迎撃とともに主堡あるいはより外側の外壁(カーテンウォ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…おける洋学伝習─特に佐久間象山による洋学教育の実態および実践を把握する上で極めて貴重な「物的証拠」 世界の稜堡式築城の系譜において、「『稜堡式堡塁』と『火制を主眼とした広域陣地』を融合させた防衛構造」という、この時代(19世紀前半~半ば)特有のあり方を実践・構築した日本における唯一の例 日本陸軍史における近代的砲戦陣地構築の最初期例 などの歴史的価値を見出すことができるといえるでしょう。 次回の記事:4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…入門時点で師匠である佐久間象山が(当時の鎖国状況下の日本でも)入手可能なオランダ語文献で、かつヴォーバンの築城基礎理念について記述のある著作」が存在するか、総当たりでの調査を行いました。 その結果、上記の条件を全て満たす、戸切地陣屋設計の基礎となっている可能性が極めて高い洋式築城術教本を突き止めることが出来ました。それは、フランスのN.サヴァール(1765-1825)によって著され、オランダのF.P.G.ナニング(1798-1832)によって訳された"Beginselen d…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

佐久間象山のもとで洋式軍学を習得した藤原重太(主馬)は藩主・松前崇広により西洋流砲術師範として任命されます。開明的な藩主が英才を重要ポストに抜擢する構図は明るい未来を想像させますが、現実はそんなに甘くなくて守旧派に足を引っ張られたようです。主馬が寝る間もないほど東奔西走しているのはそんな松前藩の人材難を象徴してもいます。 前回の記事:1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)- こうして重太は象山のもと砲科運用を中心とした…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…父親に劣らず有能で、佐久間象山の門下生として最先端の学問を習得しています。この親子は知名度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。 前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょうぞう)については、数年前までは名前のみが知られる程度でしたが、戸切地陣屋研究と併行して行った調査により、その歴史的事績が徐々に明らかになってきました(特に父・正…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…た)らを当代の碩学・佐久間象山(さくま しょうざん)が当時新たに開いた洋学塾「五月塾」へと留学させます。この藤原重太が、後に名を藤原主馬(ふじわら しゅめ)と改め、日本最初の星の城・戸切地陣屋を築くこととなります。 次回の記事:1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)- 戸切地陣屋についての質問を募集中 この連載を読んで戸切地陣屋に興味を持った方も多いと思います。時田学芸員に聞いてみたいことがあれば以下のフォームから質問…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

御朱印集めの魅力について、ぽにょまる姫さんに聞いてみました

…陰の御朱印帳に師匠の佐久間象山を祀る神社の御朱印をいただいたので、象山神社の方が「これは良いめぐりあわせですね」とうれしそうにおっしゃっていました)や、福井の剣神社(織田家発祥の地)でいただいた剣神社の御朱印と北ノ庄城の柴田神社と三姉妹神社でいただいた御朱印(期せずして織田家つながりの御朱印が並びました。剣神社に行った翌日はツアー参加でした。柴田神社の次に連れて行かれたのが新田義貞公ゆかりの神社だったので順番が逆だったら、こうはならなかった)など。これらは狙ったわけではなく、…

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