攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田利長 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…年(慶長18年)に、前田利長が1614年(慶長19年)に相次いで亡くなり、豊臣に近い大名は福島正則が残るのみとなりました。 家康は将軍になると天下普請(公儀普請ともいう)によって各地に大城郭を築いていきました。二条城、越前福井城、美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く 1600年(慶長5年)、59歳 前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ送る 五大老五奉行体制は形骸化。家康は大坂城において単独で権限をふるい、前田・増田・長束の三奉行が支える体制 4月、家康は上杉家に上洛と弁明を求める最後通告。その返事が直江状とされる @直江状は…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…形で、隣接する加賀の前田利長が家康によって謀反を疑われた際には(実際には、反対派との対決を企図した家康がきっかけのためのスケープゴートとして前田家に目をつけたのだとされる)家康に味方して先鋒に立とうとした。ところが、その後、今度は会津の上杉家が標的となり、それを契機に関ヶ原の戦いが始まった際には出陣しなかったため家康の「敵」と見なされ、その後の戦いにおいて家康側についた前田家と争ったのである。 これについては、利長から「家康の味方をしよう」と呼びかけられて長重もこれに応えたも…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…、この時期には加賀の前田利長から「10万石で仕えないか」と誘われたが断った、という逸話も残っている。関ヶ原後に他藩に仕えた大名が珍しくないのは前述したとおりだが、宗茂としてはあくまで独立大名として返り咲きたいという思いがあったのだろうか。 この浪人生活にピリオドが打たれたのは、1603年(慶長8年)あるいは1606年(慶長11年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて時の将軍・徳川秀忠に謁見したことからだった。まず5千石を受けて旗本の書院番頭となり、その後、陸奥棚倉に1万石(…

初代藩主と藩祖のちがい

…すが、その初代藩主は前田利長です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。 同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長9年)まで生きていますが、豊臣政権下の1589年(天正17年)の時点で隠居して、長政に家督を相続しています。 藩祖を辞書でひくと「藩を創設した人。藩主の先祖。」(大辞林)、…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…な目にあいかけた大名がいる。家康は加賀の大大名・前田利長と、彼と親戚関係にあった丹後の細川忠興にも謀反の疑いをかけたのだ。彼らはそれぞれ家康に人質を送って恭順したが、そうでなければ「北陸征伐」をもって関ヶ原の戦いが始まっていた可能性も十分にある。 力をブラフに使って状況を自分の有利な方向へ動かして見せた家康の知略には現代の私たちも学ぶべきだが、巻き込まれるほうとしては迷惑千万ともいえよう。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年10月31日) blog.kojodan.jp

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

… 武将 旧領 新領 前田利長 加賀金沢83.5万石 119.3万石(加増) 蒲生秀行 下野宇都宮18万石 陸奥会津60万石 黒田長政 豊前中津18万石 筑前名島52.3万石 池田輝政 三河吉田15.2万石 播磨姫路52万石 加藤清正 肥後隈本25万石 51.5万石(加増) 小早川秀秋 筑前名島35.7万石 備前岡山51万石 福島正則 尾張清洲24万石 安芸広島49.8万石 細川忠興 丹後宮津17万石 豊前小倉39.9万石 浅野幸長 甲斐府中22.5万石 紀伊和歌山37.6万石…

大津城 開城がわずかに早かった城

…千の兵を率いて東軍・前田利長に対抗するために出陣した。そうしなければ、大津城は西軍に取り囲まれてしまうので、カモフラージュである。だが、ずっと西軍の顔をするわけにもいかず、軍が美濃に戻るのを機に、大津城へ戻って籠城の準備を進めた。 高次が東軍に味方していることを察知した西軍は、高次への攻撃を決める。1万5千の兵を率いて9月13日より大津城への総攻撃を始めた。高次らは城で籠城戦をするが、西軍は大砲を使って城を攻撃。天守閣を破壊するなどして、城内の者の戦意を削ごうと企んだ。しかし…

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