攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

加賀藩 の検索結果:

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…ています。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない方も多いと思います。ぼくも今回までよく知らなかったのですが、もともとは多くのお城と同じように本丸に天守と御殿があったそうです。それが(これもあるあるですが)天守は落雷で焼失、またその後に本丸御殿も火災により焼失したため、3代・利常の代に二の丸を拡張して、メインの執政エリアとして二の丸御殿を新たに造営しました。 これが1631年(寛永8年) のことです。二条城二の丸御殿が後水…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…(宝暦4年)【舞台】加賀藩【藩主】前田吉徳、前田宗辰、前田重熙【主要人物】大槻朝元、前田直躬、青地礼幹、真如院 先代「ぜいたく大名」の財政危機を受けて立て直しに挑む 別名「大槻騒動」とも呼ばれるこの事件は、加賀藩前田家の家臣・大槻朝元(おおつきとももと)を中心に勃発したものだ。他のいくつかのお家騒動と同じように、この事件も脚色されて人形浄瑠璃や歌舞伎の演目となっている。その場合、大槻は加賀藩乗っ取りを企む奸臣として描かれることがほとんどだが、実際のところはどうだったのだろうか…

【江戸時代のお家騒動】酒井忠徳による財政改革 豪商・本間光丘の起用

…やってきた。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。 その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。さらに藩を苦しめたのは、多発する凶作だった。早魃、冷害、虫害などにより農民の生活は追い詰められ、年…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…を見てみましょう。 加賀藩(前田家) 加賀国、能登国、越中国の三令制国で二城(金沢城、小松城) 鳥取藩(池田家) 因幡国、伯耆国の二令制国で三城(鳥取城、米子城、倉吉城) 福井藩(越前松平家) 越前国に三城、のち二城(北ノ庄城(のち福井城)、丸岡城(のち丸岡藩として独立)、越前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。…

【江戸時代のお家騒動】浦野事件 加賀藩内の独立領を統合する

…(寛文7年)【舞台】加賀藩【藩主】前田綱紀【主要人物】長連頼、長元連、前田綱紀、浦野孫右衛門 加賀藩内の独立王国となっていた鹿島半郡 浦野事件は加賀藩主・前田家の家臣である長連頼・元連父子の対立が、主家をも巻き込み勢力を二分する騒動に発展したものである。加賀藩では五代藩主・前田綱紀の時に、後見人の前田利常によって改作法と呼ばれる農政改革が実施された。この改革は、検地による収益の推定、給人による直接支配の禁止、税率の決定などを含んだもので、家臣と農民を救うために実施された改革と…

初代藩主と藩祖のちがい

…」で知られる金沢藩(加賀藩)の初代藩主は誰か答えられますか?前田家は江戸時代の大名としては珍しく、265年間一度も国替えされることなく加賀藩主をつとめた大名家ですが、その初代藩主は前田利長です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。 同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長9年)まで生…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…ます。 藩庁の有無 加賀藩なら金沢城といった感じで、藩には藩庁が存在します。小藩であっても陣屋と呼ばれる城の代わりにとなる屋敷がありました。大名になるには1万石以上が必要ですが、さらに城を築くためには3万石がボーダーラインになっていたそうです。では藩には必ず城か陣屋があったのかというと、そうともかぎりません。藩内支藩といって子どもや兄弟に数字上のみ分与しているケースがあるからです。こうした藩内支藩は蔵米支給といって俸禄をもらうだけで領地を有しているわけではないので、当然のよう…

江戸時代をデータベース化する

…代の最初から最後まで加賀藩主をつとめたケースなら「1:1」ですが(しかし前田家は富山藩や大聖寺藩に分家を立てています)、明石藩の場合は小笠原家にはじまり、戸田松平家、大久保家、藤井松平家、本多家(の分家)、越前松平家(の分家)と6家が藩主をつとめています。 これも単に文字で一覧にするよりも、藩主をつとめた「期間」がわかるようにしました。江戸初期はいろんな大名家が入れ代わり立ち代わりで藩主をつとめたものの、中期以降は越前松平家(の分家の明石松平家)がずっと藩主をつとめたことが横…

1.譜代大名の定義

…なものが多い。実際、加賀藩の前田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。 江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…であった。 たとえば加賀藩・前田家は2千5百人、薩摩藩・島津家は1千2百4十人もの大行列で江戸と所領の間を移動したというから、相当の出費になったであろう。もちろん、これらは大大名の場合。より規模の小さい大名はそれなりの人数でよいことになっていた。にもかかわらず人数が少しずつ増加して財政が悪化する藩が続出し、幕府がこれをたびたび戒めている。大名たちの見栄が見え隠れするが、それで首を絞めているのだから世話はない。 金がかかって仕方がない江戸屋敷 江戸に屋敷を構えることも大名にとっ…

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