攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

山内一豊 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…大会を主催したとか、山内一豊が相撲大会で虐殺したなど、戦国時代にはいろいろと相撲にちなんだエピソードがありますが、どうも江戸時代には藩のお抱え力士もいたそうです。そこで今回は相撲の起源(ルーツ)から、現代の大相撲につながるまでの歴史をざっくり1時間ほどで教わりました。 www.youtube.com 相撲のルーツ まず相撲の起源ですが、これは「古事記」や「日本書紀」に登場する力比べだと言われています。番組中でも出雲神話でタケミカヅチとタケミナカタが戦ったとか、野見宿禰(のみの…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…藤堂高虎、加藤喜明、山内一豊らが西上し、8月中旬には尾張に集結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…取り潰し。土佐一国は山内一豊に与えられ、長宗我部の旧臣たちは激しい弾圧に晒される。長宗我部家の存続を目指して一揆も勃発したが親直らの裏切りにより瓦解したほか、一領具足たちが催し物を理由に集められて皆殺しにされたなどという事件も起きてしまっている。この一領具足はその多くが江戸時代に「郷士」という下級武士化した。 さて、家を取り潰された盛親はその後どうなったのだろうか。彼は京へ上り、「大岩祐夢(たいがんゆうむ)」を名乗って寺子屋の教師をやっていた。そのままなら穏やかに過ごしていた…

城葱さんの「城もなか」道中記【静岡県編】

… なお「黒黄金」は、山内一豊が千代の持参金黄金十枚を使って名馬を買い、運を切り開いて掛川城主になったという故事にちなんで作られたお菓子で、縁起物としても愛されているそうです。 ・伊藤菓子舗(掛川市中町3-17)営業時間 8:00~19:00 / 水曜日定休 / 0537-22-2496 collection.kojodan.jp 掛川城への城攻め 掛川駅から徒歩で向かいました。到着したころには、天守閣への入場期限の16:30を過ぎており、中には入れなかったものの、既に夜の帳が…

戦国末期の駿府城の瓦について

… 池田輝政の吉田城や山内一豊の掛川城・堀尾吉晴の浜松城等、三河・遠江で中村一氏と同じ豊臣秀次配下の大名(関白様御家中衆)による同時期に織豊化された城郭においては、石垣の使用は城外から見える主要部のみと部分的なものである(吉田城は未完成)。また、これらの諸将は名護屋在陣・朝鮮出兵は免除されたが、大坂城普請などを担わされている。『駒井日記』文禄3年正月20日・正月23日条には大坂城普請において、中村一氏は三千人を動員することを命じられた記述がある。三の丸で新たに発掘された武家地・…

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…えば「功名が辻」では山内一豊が馬市で見つけた名馬を買うのに妻の千代がへそくりの十両を差し出して、その馬が信長の目に止まり出生したというエピソードがあります。脚本では「安土城下」の馬市となっており、この当時の一豊の年収は現代換算で約2000万円だから、十両(約100万円)の馬くらい余裕で買える。ただしその4〜5年前、長浜か岐阜あたりの設定であれば年収は400万円だからこのエピソードに真実味が出ると提案したが通らなかった。 演出家とのやり取りも多い。織田信長は比叡山をはじめあちこ…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

… 出雲松江24万石 山内一豊 遠江掛川5.1万石 土佐浦戸20.2万石 藤堂高虎 伊予板島7万石 伊予今治20万石 中村忠一 駿河府中14.5万石 伯耆米子17.5万石 京極高知 信濃飯田10万石 丹後宮津12.3万石 京極高次 近江大津6万石 若狭小浜8.5万石 仙石秀久 信濃小諸5.7万石 所領安堵 いずれにせよ、大坂城に豊臣秀頼がいる状態で、これらの豊臣恩顧の大大名たちが結託すればせっかく勝利したことも水の泡なので、相当な警戒心を持っていたと思います。 そこで家康は娘婿…

「第5回信長学フォーラム」参加レポート

…田先生が時代考証の監修をされた「功名が辻」の裏話はおもしろかったです。(山内一豊は関わってないので)原作では4行しかなかった本能寺の変で一話やるということで、脚本家の大石静さんが書いたのが、信長が火縄銃を手にして銃撃戦をやるという内容だったそうです。さすがにそんな事実はないと指摘されたそうですが、その日に本能寺に火縄銃が一丁もなかったという証拠もないのでけっきょくそのまま放送されたそうです。「功名が辻」は見てたんですけど、そのシーンはおぼえてないです。DVD買っちゃおうかな。

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