攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

岡山藩 の検索結果:

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…ょうざんきだん)備前岡山藩主・池田氏に仕えた徂徠(そらい)学派の儒学者・湯浅常山(ゆあさ じょうざん)の著作。江戸時代中期の人物。 武野燭談(ぶやしょくだん)1709年(宝永6年)に成立した歴代将軍や老中など約100名の言行録。著者は木村高敦(たかあつ)が有力とされる。 武功雑記(ぶこうざっき)肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信(まつら しげのぶ)が記した武辺咄(ぶへんばなし)を集めた書物。1696年(元禄9年)頃に成立。 徳川実紀(とくがわじっき)江戸幕府の公式史書。35年ほどか…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…の忠継(ただつぐ)が岡山藩に入り、彼が若くして死ぬと同母弟の忠雄(ただかつ)が跡を継ぎました。その後、当主の急死で後継者が幼かったことから利隆の家系と忠雄の家系はそれぞれ国替えされ、前者が岡山藩、後者が鳥取藩を代々継承することになりました。どうしてこんな複雑なことになったかといえば、忠継・忠雄兄弟の母親・督姫(利隆は別)に理由があります。彼女は家康の次女で、北条氏直の未亡人にあたる女性なのです。 つまりどういうことかといえば、伊達家が次男に家督を継がせたのも、鍋島家が長男を廃…

仇討ちの歴史について教わりました

…ばれる事件が起きた。岡山藩で同僚を殺した藩士・又五郎(またごろう)が江戸の旗本に匿われ、岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)は幕府に抗議したが受け入れられず、無念のうちに死んだ。その遺言と圧力で匿えなくなった旗本の元を又五郎が離れたところ、殺された同僚の息子・数馬(かずま)が仇討ちに挑み、成功した。この時、剣術の達人である荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の姉婿という立場で参加し、大活躍したことで有名。 浄瑠璃坂の敵討ち 江戸時代初期の「浄瑠璃坂(じょうるりざか)の敵討ち…

【殿様の左遷栄転物語】「神君の婿」 池田輝政の子供たち

…路宰相100万石」 岡山藩・鳥取藩池田家の例はちょっと変わっている。他のケースと違って徳川家ゆかりの子は家督を奪わず、新たな藩を建ててもらったのである。 池田家の発祥は諸説あるが、戦国時代においては池田恒興が織田信長の乳兄弟として、また側近として活躍したのが有名である。信長の死後は羽柴秀吉についたが徳川家康との戦いの中で息子とともに討ち死にし、生き残った次男の輝政が跡を継いだ。この輝政が徳川家康の娘。督姫を継室にもらって「神君の婿」と呼ばれたのはすでに紹介したとおりである。 …

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…の成長後に返還するという返答をした。こうして最上家は改易となり、義俊は近江1万石に移された。義忠や彼を擁立しようとした家臣らも、他家に預けられている。 ちなみに、義忠は岡山藩池田家に預けられた後に御三家の一角である水戸藩徳川家の家老になっており、「水戸黄門」のモデルとして名高い徳川光圀の養育係にまでなったという。義俊はその後、26歳の若さでこの世を去っている。跡を継いだ子の義智が旧領を取り戻そうとしたがそれもかなわず、「義康の呪いで最上家は再興できない」などと噂されたという。

【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

…柳川藩主・立花忠茂や岡山藩主・池田光政、政宗の十男の伊達宗勝(兵部)らは会議の場を設け、老中の酒井忠清を通じて綱宗や伊達家の家老(仙台藩では「奉行」という役職名だった。本書ではわかりやすく家老で通していく)に注意を促してもらうことを決定している。これは綱宗が隠居を命じられる2ヶ月ほど前のことだが、この頃からすでに綱宗を隠居させようという意見も出ていたようだ。 それが実行に移されたのは、綱宗が幕府から江戸の小石川堀の工事を命じられたのがきっかけだった。「舟が通れるようにしろ」と…

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

…、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵、とくに慶喜に拝謁して、ただちに奏請せんことを勧説する。 10月14日、大政奉還上表(15日、勅許)。 10月16日、幕府、在京十万石以上の諸藩重臣、旗本を二条城に召し、大政奉還勅許を示達する。 10月17日、幕府、在京十万石以下の諸藩重臣を二条城に召し、各藩主の早々の上京を命じる。 つまり事実としては 12日に「黒書院」で慶喜が松平容保、松平定敬らに大政奉還の意思を伝える 13日に老中・板倉勝静が「大広間」で在京…

アゲハチョウの家紋

…28万石を与えられ、岡山藩主となった(じっさいには利隆が藩主として執政したそうです)。さらに3男忠雄は淡路一国6万3千石を与えられ洲本藩主となっています。 輝政の死後は播磨の遺領は利隆が相続し、10万石分だけ弟忠継に分与されました。これにより忠継の領国は備前岡山藩38万石となったのですが、ここから備前岡山池田氏が生まれるのですが、備前岡山池田氏はまたちがう家紋なんですね。 この家紋は「備前蝶」というらしいです。 チョウチョってシンメトリーで左右対称だから、たしかに家紋としても…

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

…いてるのもあるし、「岡山藩主・池田光政が伯母である天久院のために建立した」ともありますが、どちらが正しいのでしょうか。 公式サイトでは「自らの菩提寺として建立した」とあるので、光政はあくまでもスポンサーなのかな。でも京都市が建てている、門前にある案内板には「岡山藩主池田光政兄弟が、大叔母天久院のために、寛永八年(一六三一)から同十二年(一六三五)にかけて建立した寺院」とあるんですよね。 天「球」院になったのはいつ? 珍しい球体の石垣として有名な鳥取城の「天球丸」の名前も天久院…

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