攻城団ブログ

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【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…な分析から導き出した星形本陣の幾何学的な設計構造が、当時のヨーロッパにおける稜堡式堡塁の設計の基礎となる定理と一致した時ですね。 この一致はさらに具体的なテキスト(サヴァール教本)の同定、さらには星形本陣だけでなく全体的な空間利用もこの教本に即しているのではないか……と大きく推論の可能性を伸ばしていくわけですが、何より驚きなのは、築造から約170年という年月を経て、さらにその間誰ひとりとして「(サヴァール教本における)定理」を認識せず通用に供してきたにも関わらず、そうした経年…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…ォーバン以来の稜堡式星形堡塁を備えた、文字通りの「日本最初の星の城」であったことが判明しつつあります。 これらについては、いまだ調査研究の余地があります。今後も、その真価を探るためのアプローチを続け、その成果を皆様に紹介していければ幸いです。また、これらの調査研究の中で見出した視座が、今後ほかの「日本における星形城郭」に対する、従前の先入観にとらわれない新たなアプローチのきっかけになればと願っています。 戸切地陣屋関連 参考文献リスト Decker, Karl von 183…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…せっかくの〈日本初の星形城郭〉もその真価を発揮することなく、その役割を終えることになります。 前回の記事:3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋- こうして藤原主馬の手によって、サヴァールの著した欧州の近代陸戦理論に対応した砲戦陣地を日本で初めて具現化した戸切地陣屋ですが、その真価はそれを運用する側……他の松前藩士らには伝わらなかったようです。かねてより崇広・主馬らが進めんとした西洋流砲術へ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…きましょう。 まずは星形本陣からです。サヴァール教本の全313章から「Gebastioneerde Forten(稜堡式要塞)」の設計・解説を行っている章(116・123・126・127)における模式図を戸切地陣屋本陣と見比べると、正方形とその中央等分線・対角線を基準とした対称的・幾何学的な星形構造……つまりはヴォーバン以降の稜堡式築城定理に即し、かつ先述した戸切地陣屋遺構の考古学的分析から推定した設計構造と合致することを確認しました(図25)。 図25.サヴァール教本におけ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景-

…たを描いたもの。手に星形要塞の図面が見える。着弾砲火の様子も見え、攻守両軍が激しく撃ち合っていることがわかる。 サヴァール教本が著されたのは、まさにそうした砲戦革命の真っただ中、つまりは機動性を備えた砲兵を運用する(これは守勢である自軍だけではなく攻勢である敵軍も同様である)ことが前提の陣地構築が必須となっていく時代だったのです。例えば大砲の有効射程距離で言えば、ヴォーバン時代の5~600mと比して有効射程は1000m強、さらにはそれより射程は短いものの曲射によって撃ち込まれ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…れまで、日本における星形城郭・台場(五稜郭・戸切地陣屋、あるいは四稜郭など)について、その特徴的な形状から西洋の稜堡式築城術に基づくものであるということは言われても、その原典……一体どのようなテキストの、どのような理論および技術体系に則って造られたか……についての具体を明らかにしようとするアプローチはほぼ皆無であったといえます。 この研究的欠落を埋めるべく、一昨年度(令和4年度)より、戸切地陣屋跡に現存する本陣遺構の考古学的分析(形状・寸法など物質のもつ様々な属性の分析)を元…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

…30~40m かつて星形の本陣ばかりが着目されてきた戸切地陣屋ですが、こうした資料精査により浮かび上がってきた情報をもとに、視野を星形本陣だけでなく「野崎の丘」全体に広げ、その城郭としての構造を図化したのが図12です。これを見ると、「アナタヒラの崖壁」などの周辺の地形を巧みに防衛に活かし、攻め手が進軍するためには、星形本陣からの迎撃に有利な前方の見晴らしのいい緩斜面を選ばざるをえない陣形配置となっていることがおわかりいただけるかと思います。 図12.戸切地陣屋防衛構造の想定復…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

佐久間象山のもとで洋式軍学を習得した藤原重太(主馬)は藩主・松前崇広により西洋流砲術師範として任命されます。開明的な藩主が英才を重要ポストに抜擢する構図は明るい未来を想像させますが、現実はそんなに甘くなくて守旧派に足を引っ張られたようです。主馬が寝る間もないほど東奔西走しているのはそんな松前藩の人材難を象徴してもいます。 前回の記事:1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)- こうして重太は象山のもと砲科運用を中心とした…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

藤原正蔵は間宮林蔵の蝦夷地測量に同行し、ロシア語が堪能なことから通訳をつとめるなど松前藩に重用されますが任地のエトロフで亡くなります。その子の藤原重太(主馬)も父親に劣らず有能で、佐久間象山の門下生として最先端の学問を習得しています。この親子は知名度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。 前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょう…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

まずは戸切地陣屋が築かれる前日譚として、幕末における松前藩の状況について。ぼくは松前藩が一時期、東北に移封されていたことも知らなかったのですが、蝦夷地へ復領した松前家にとって北方防衛の成否が藩の存亡に直結しており、かなり危機的な状況の中、開明的で優れた藩主が登場します。 前回の記事:はじめに 江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…て築城された日本初の星形要塞(稜堡式城郭)として大変価値の高いお城です。この連載ではまだまだ知らない人が多い、あるいは存在こそ知っていてもその真価を理解できていないぼくのような人たちに対して、戸切地陣屋の魅力やすごさを北斗市郷土資料館の時田太一郎学芸員に解説していただきます。 北海道北斗市野崎に所在する松前藩戸切地(へきりち)陣屋は、中近世ヨーロッパにおいて対銃砲戦の城郭構造として発祥・発達した稜堡式築城術を日本で初めて採用した城郭であり、1855年(安政2年)の幕府による蝦…

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