攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

楠木正成 の検索結果:

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…足利尊氏や新田義貞、楠木正成といった鎌倉幕府打倒で活躍した有力武士に守護職を与える(北条氏の所領を分け与える、あるいはそもそも奪われていた所領を返すという形が多かった模様)流れがあった。背景として、北条残党の存在などで不穏な情勢を、有力武士を守護にすることでその力を借りて収めるというところがあった模様。また、数ヵ国の守護を務めたり、国守あるいは知行国主をも一緒に務めるケースが少なからずあって、のちの守護大名の萌芽がこの辺にあったと考えて良いのではないかと。 ・室町時代になると…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…、今竹中」(楠木とは楠木正成のことで南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて少数で多数を翻弄した軍師)とも讃えられた。 一般的に知られている「半兵衛」は通称で、本当の名前は重治(しげはる)という。斎藤家に仕える美濃の武士・竹中重元(しげちか)の子だ。しかし、斎藤道三をその子・義龍(よしたつ)が殺した際、重元は道三についた。これもあってか、父の死後に斎藤家に仕えるようになった彼は、義龍の急死後に斎藤家を継いだ子の龍興(たつおき)に随分冷遇されたようだ。 そこで半兵衛がやってのけたのが、少…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

… この地には、古くは楠木正成が城を築いたという伝説があり、戦国時代には木沢長政(きざわ ながまさ)という武将が大規模な城を築いたが、これは炎上している。その信貴山城を再興し、拠点としたのが松永久秀(まつなが ひさひで)である。久秀はもともと近畿に大きな勢力を誇った三好長慶(みよし ながよし)の側近であったが、彼の死後に自らが大きな力を振るうようになった。この時期、時の将軍。足利義輝を死に追い込んでいる。ところが、義輝の弟・義昭を奉じた織田信長が上洛してくるとあっさり降伏し、以…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

…兵で大軍を打ち破った楠木正成の活躍など、数々の籠城戦が現代に伝わっている。とはいえ、これはあくまで動乱の時代のための臨時の城。後述する戦国時代の城のように、ある程度恒久的に使うようにはそもそもできていなかったようだ。 そのため、室町幕府が成立して情勢が安定すると、山城の多くは破棄され、武士たちは平地や小高い丘の館を使用するようになる。しかし平和とは長く続かないもの。有力守護大名家内部の争い、幕府内部の争い、足利将軍家の争いなどが相乗した結果として応仁の乱が起き、将軍と幕府の権…

【クーデターで読み解く日本史】南北朝時代の幕開けとなった大乱――延元の乱(建武の乱)

…倉幕府打倒に活躍した楠木正成ら天皇方は、守るのに向いていない京にこもる尊氏らの軍勢を撃破、京より追い落とすのだ。 総大将である尊氏が3回も自害しようとしたというほどの劣勢の中、どうにか落ち延びた尊氏方は天皇方の追撃に晒されつつ西へ向かって敗走していく。この途中で尊氏は持明院統の光厳上皇(こうごんじょうこう)からの院宣(いんぜん=上皇・法皇の命を奉じて出す文書)を受け取って政治的正当性を獲得しており、これは厳しい情勢の中での光明となった。 尊氏が再起の地として選んだのは九州であ…

【クーデターで読み解く日本史】政権を朝廷にもたらした後醍醐天皇の執念――元弘の乱

…先の挙兵でも活躍した楠木正成(くすのき まさしげ)らが再び挙兵、さらにその翌年には天皇自身も配流先の隠岐を脱出してこの戦いに加わったのである。 もちろん幕府は再び天皇方討伐に動いたが、この頃になると幕府の足元も大いに揺らいでいた。御家人たちの幕府への不満が高まっていたのである。その背景には北条得宗家への権力集中に対する反発や、御家人たちの窮乏化があった。特に後者は深刻で、貨幣経済に適応できず多額の借金を背負って土地を手放す御家人や、分割相続(親の土地が兄弟姉妹にそれぞれ分け与…

【歴代征夷大将軍総覧】護良親王――尊氏憎しですべてを失った親王 ?~1335年

…た。これに応える形で楠木正成や赤松円心といった人々が兵を挙げている。 幕府の派遣した大軍に対して必ずしも劇的な勝利を収めたわけではないが、彼らが粘り強く戦ったからこそ幕府の崩壊は加速したのであり、また護良親王こそが全国的な規模に広がった「反幕府軍」の象徴でありリーダーであったのも間違いないだろう。 護良親王 VS 足利尊氏 このように「武」を強く意識する護良親王が激しく敵視した相手こそ、鎌倉幕府打倒に大きな功績を残すとともに、源氏の名門として鎌倉幕府消滅後の武士たちの中心に成…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府9代・守邦親王――鎌倉幕府とともにこの世を去る 1301年~1333年

…められ、河内の悪党・楠木正成の他には呼応して挙兵するものもなく、捕らえられて天皇の座を追われ、隠岐島へ配流された。これが「元弘の変」である。 絶体絶命の危機かと見えたが、実のところ戦いはここからが本番だった。配流をきっかけとして再び挙兵した楠木正成をはじめ、畿内を中心とした各地の悪党が大暴れを始めた。そうこうしているうちに有力御家人まで次々と蜂起を始め、隠岐島より舞い戻った後醍醐の下に集まった。そこで1333年(元弘3年)、幕府は源氏の名門・足利一族の足利高氏(のちの尊氏)ら…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…というともうひとつ、楠木正成が鎌倉幕府方の大軍を撃退した千早城が有名です。幕府軍100万の兵を相手に、わずか1000の手勢で守り抜いたとされますが、じっさいの兵数はよくわかりません。ただ大軍を相手にゲリラ戦で戦ったことは確かで、千早城で幕府軍を釘付けにしていたからこそ、手薄となった鎌倉を新田義貞が攻略することに成功し、鎌倉幕府は滅亡することになります。その後、千早城は楠木氏の居城となりましたが、1392年(明徳3年)正月楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ落城し、南北朝時…

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