攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

水攻め の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…ひとつで、石田三成の水攻めにも耐え、浮城としても有名な「忍城」。そして、築城には狐の尾曳(おびき)伝説、上杉・武田・北条の三つ巴の中で、上杉・北条の支配を受けつつ、徳川家康の関東入封とともに、徳川四天王の榊原康政が城主となった「館林城」。歴史や縁の深いお城は、その歴史的なおもしろさに加えて、頼もしい城もなかなどのお菓子により城の楽しさに気づき、広めてくれるといいなぁと願うばかりです。 さて今回は、どんな地域の、どんな特徴的な城もなかに出会うことができたのか、そして、その城もな…

「戦国合戦の基礎知識」の動画を公開しました

…ができるようになれば水攻めなどの兵糧攻めが可能になるわけですね。 【戦国合戦の基礎知識】軍師の役割 軍師というと奇襲を成功させたり、少数の兵で大軍相手に勝利するなど三国志の諸葛亮孔明のような天才軍略家をイメージしがちですが(その孔明も「三国志演義」というフィクションベースなのですが)じっさいにはいろんなタイプの軍師がいて、そのルーツとも言えるのが「軍配者(ぐんばいしゃ)」という知識人だったという話を教わりました。過去のコラムで角隈石宗(つのくませきそう)や太原雪斎(たいげんせ…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…0年)に備中高松城を水攻めにしているときのことだった。 秀吉の陣に駆け込んだ急使は明智光秀の謀反と織田信長の死……「本能寺の変」を告げる。秀吉はこの報告に激しく驚き、ただ泣くことしかできない。しかし、ここで冷静に進言した者がいる。誰あろう、官兵衛だった。 彼は「今こそ天下取りの好機ではないか」と秀吉に告げた。その言葉に我に返った秀吉はすぐに毛利家との講和の手はずを取り、のちに「中国大返し」と呼ばれる神速の速度をもって帰還する。その後の歴史の流れを見るに、まさにこの瞬間こそが織…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…官兵衛が仕掛けたのは水攻めだ。まず近くの吉野川から水を引いて城を孤立させ、その一方で大砲を散々に撃ちかけ、また兵たちに何度も関の声を上げさせる。高松城のところで触れたように水攻めは食糧を駄目にして水の補給を妨害するのでただでさえ兵の士気は落ちる。 その上、頻繁に轟音に脅かされたのでは戦にならない。結局、岩倉城は戦うことなく明け渡され、名軍師・官兵衛の名はさらに高まることになる。こうして讚岐・阿波で敗れ、またそれに前後する形で毛利軍にも伊予を落とされていたため、元親は秀吉軍に降…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…。 最後に「高松城の水攻め」だ。秀吉の中国方面攻撃、その最終局面となったのが1582年(天正10年)の備中(現在の岡山県南西部)の高松城攻めだった。秀吉はここでもまず周囲の城を切り取って高松城を孤立させ、また城主の清水宗治の元に官兵衛を派遣して裏切りを持ちかけてみたが、なかなか上手くいかない。 そこで官兵衛が提案したのが水攻めだった。というのも、この城は沼や池によって取り囲まれた平城で、城に行くためには数本の道しかなかった。これは守るのにも向いていたが、同時に周囲の川を増水さ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑥――水に沈んだ城――備中高松城

…う地形を逆手にとった水攻めによってより積極的に高松城を痛めつけたのである。いわゆる「高松の水攻め」だ。 秀吉は3キロ弱にわたる大堤防を突貫工事で築かせて近くに流れる川をせき止め、たった19日目には高松城に向けて流れ込むようにした。しかも季節はちょうど梅雨で、さらにその年は大雨であったという。あっという間に水が溜まり、高松城は水の中に孤立することとなる。急ぎ毛利氏から援軍が送られてくるも、城に近づくことができない状態で、後詰決戦に持ち込むこともできない。全くもってお手上げの状態…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…ナミックさにおいては水攻めこそが群を抜いているのは、多くの人が領いてくれるのではないか。城を落とすために莫大な土木工事を行い、ついに地形まで変えてしまうのだから、尋常ではない。しかし、その水攻めを仕掛けられながら、地形の有利さや籠城側の奮戦によって耐えてしまった城があるのをご存知だろうか。武蔵の忍城(埼玉県行田市)がそれである。 この忍城は、関東管領・山内上杉氏に仕える成田親泰が、この地域を支配した武将を攻め滅ぼして築城したのが始まりといわれている。忍城は荒川と利根川が氾濫を…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相④――戦わずに勝つための長囲と調略

…だ。 もうひとつは「水攻め」である。ここまで繰り返し紹介してきたように、生活のための飲料水や防備のための水堀、交通のための川や海など、城にとって「水」は非常に重要な要素だ。それを逆利用するのがこの水攻め――具体的には土木工事で近くの川の流れを変え、堤防を築いて、城を水浸しにしてしまう戦法だ。結果、その城は孤立し、援軍が後詰決戦に挑むのも難しくなる。川に面していて窪地にある城などに、特に効果があると考えられる。しかし、これも大規模な土木工事を必要とするから、通常の兵糧攻め以上に…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…たたし、城攻めの戦略の一つである水攻めはできなかったため、攻略するのは難しかったと思われます。 まとめ 三大海城はと呼ばれているのは、高松城、今治城、宇和島城の三城です。いずれもかつて海城だった名残が残っていますので、海城巡りも楽しいかもしれませんね。ということで、三大海城のご紹介でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読むことができます。 【無料】たかまる。メルマガのご案内

一命にかけて兵を救った清水宗治

…、世に名高い「高松の水攻め」だ。近くの川をせき止めて水を引き込み、もともと低湿地にあった高松城を水浸しにしてしまったのである。これにはさすがの宗治も参ってしまう。水に浸かった場内の食料は腐り、兵士たちは疫病で弱った。毛利氏の援軍もやってきたが、周辺が湖のようになってしまったのでどうにも手出しができない。 兵糧攻め状態が続く一方、織田軍と毛利軍の間で和平交渉が進んでいた。その結果、条件として備中と伯耆の二か国について領地を分けることと、高松城の責任者である宗治が切腹することで話…

【戦国合戦こぼれ話】忍城攻防戦、甲斐姫の奮戦

…城を落とすのに使った水攻めを試みた。ちょうど梅雨時でもあったし、この作戦は成功するかと思いきや、痛い目を見たのは三成の方であった。堤防を築いて川をせき止めたはいいものの、その堤防が決壊して兵数百人が溺死。しかし忍城は周囲で一番高い場所にあったために被害を受けることはなかったのである。 面子を潰された秀吉勢は、その兵力をもってして今度は強引に城に突撃することに。集められた武将の中には真田幸村や大谷吉継など有名武将もいた。忍城に残された兵力は800人程度。秀吉勢の大軍にとても敵う…

【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(2)高松城の水攻め

…た。世に言う「高松の水攻め」である。 「赤松之城水責之図」(東京都立中央図書館蔵) 中国の覇者である毛利氏は、備前と備中の境目に7つの城を築いていた。これを「境目七城」という。その中心となったのが高松城であり、ここを攻め落とさなければ毛利領の奥深くに入ることはかなわなかった。そこで秀吉はまず、高松城以外の6城を攻め落とし、孤立させた上でいよいよ高松城攻略に取り掛かった。 高松城は平城だが盆地状の湖沼地帯に立っており、三方向は沼に囲まれ、残りの一方向には堀が掘られていた。これに…

【戦国を彩る名軍師たち】三成に過ぎたるものが二つあり――島清興

…伐の際、北条方の城に水攻めを行うも失敗、非常に攻めあぐねた)などの例を見ても、戦場の猛将ではない。 そこで彼は武勇で知られた清興に目をつけたのだが、その誘い方が凄い。なんと、三成は当時の自分の所領四万石のうち一万五千石(一説には二万とも)を割くという破格の条件を示したのである。確かに清興という名将にはそれだけの価値があった――なにしろ、のちに「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」などと謳われるような男だ――が、なかなかにできる判断ではなく、清興はこれを意気に感…

忍城 豊臣の猛攻に耐えた堅城

…め落とすため、三成は水攻めを決行する。高松城で秀吉がやってのけたように堤防を築かせた。総延長約28キロメートル程度の堤防はわずか5日で完成。城の南に作った堤防は、利根川、荒川の水を城へと運んだ。 水攻めは順調に進み、忍城は天守が湖に浮いているような状態となったため「忍の浮城」と呼ばれることもある。成田氏も手をこまねいてばかりではない。水練(水泳)に秀でた者に堤を何カ所か壊させたのだ。それに堤防工事のずさんさ、関東特有の雷雨が重なり堤防は決壊。三成側に逆流するという成果を得た。…

備中高松城 秀吉の奇策に沈んだ城

…水を城内に流すという水攻めがおこなわれたことで有名だ。 pinehouse | 西沼[備中高松城] 戦いが起きたのは1582年(天正10年)、当時の城主は清水宗治である。彼は元々、備中国賀陽郡幸山にいて、築城した久孝の娘を妻にしていた。久孝の没後、他の候補者を倒して城主となっている。その後、安芸の大名・毛利氏が備中に進出すると、その支配下に入った。 だが、この地方を狙っていたのは毛利氏だけではない。尾張の織田信長も支配下に収めようともくろんでいたのである。信長は各地の攻略を配…

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