攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

織田信長 の検索結果:

【現在1761城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 墨城印 安土城×織田信長 安土城(滋賀県近江八幡市) 安土城郭資料館 330円 印刷 A6 2020年5月2日 西尾城 御城印 通常版 西尾城(愛知県西尾市) 旧近衛邸 500円 印刷 はがき大 2020年5月1日 彦根城 入城記念符 彦根城(滋賀県彦根市) 彦根城管理事務所、開国記念館 300円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2020年5月1日 篠山城 御城印 篠山城(兵庫県丹波篠山市) 篠山城大書院 300円 印刷 A6 2020年4月 臼杵城 御城印 大友氏家紋…

【家康の謎】徳川家康はなぜ天下を取れたのか?

…言えず、嫡男の信康を織田信長の強要により殺さざるを得なくなったとされる。豊臣氏(羽柴氏)に臣従した後は、秀吉の命令で無理やり父祖の地を追われて関東へ移り住むことになった。ようやく関ヶ原の戦いで勝利して天下を取るまで、家康の生涯は我慢の連続であり、その強さこそが彼に天下を取らせた、というわけだ。 ――さて、この通説は事実だろうか。そもそも戦国乱世において、近くに「格上」がいて圧迫されなかった大名(武将)の方が希少なのではないか。織田信長にしても、家督継承直後には弟と争い、その後…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…ました。このひとりが織田信長で、信長は上覧相撲を毎年開催するほどの相撲好きで、『信長公記』にも相撲大会で活躍した浪人を召し抱えたとか、相撲大会に1500人もの参加者がいたとか、たびたび相撲行事についての記述が登場します。 番組ではこのほかにも、蒲生氏郷、伊達政宗、島津斉彬と西郷隆盛、山内一豊らのエピソードを紹介していますが、徳川家康が「相撲をやるなら畳の裏を返せ。畳の縁がすり減ってお茶の師匠が怒る」と注意したという逸話はおそらく創作でしょうけど、そのくらい相撲を取ることが日常…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…臣秀吉は主君であった織田信長の死後、その政権を吸収して自らの豊臣政権を作り上げ、天下統一を達成した。そして、豊臣政権において東国の押さえを担当し、また群を抜く大大名として君臨したのが徳川家康であることは、すでにこの連載でも書いてきた通りである。では、家康の領地はどのような変遷で増え、各時期においてどのくらいの石高であったのか。推測の域を出ないところもあるけれど、追いかけてみよう。 独立大名としての家康のスタートはまだ松平元康だった頃、父祖の地である岡崎城主としてのものだ。のち…

攻城団テレビで来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねた特別講義をしていただきました

…。「日本の戦国時代、織田信長と徳川家康が将棋をしているところ」とお願いしても三国志っぽい感じで、チェスみたいなのを描いちゃいます。 学習データの問題も大きそうですが、指示の調整でもう少し工夫できそうなのでいろいろ勉強してみます。 藤原氏の歴史についての補足など そもそも藤原氏の祖は中臣鎌足ですが、その子の不比等、さらにその子の四兄弟(北家や式家の祖)などは飛鳥時代から奈良時代にかけての人です。その後、なんやかんやあって桓武天皇の時代に平安京に遷都するわけですが、その責任者を務…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…禄3年)、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川領である駿河・遠江は戦乱の舞台となりました。新当主・今川氏真に見切りをつけた、甲斐の武田信玄は、今川氏から独立した徳川家康と共に、1568年(永禄11年)に旧今川領へ侵攻したのです。信玄と家康は、大井川を境に「遠江は徳川領、駿河は武田領として旧今川領を分け合う」と密約を交わし、互いの領国から侵攻しました。 この共同侵攻により、協力関係にあった信玄と家康でしたが、遠江の領有をめぐって軋轢が生じ始めます。信玄との戦いを想定した家康…

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

…お市は家康の同盟者・織田信長の妹で、浅井長政のもとに嫁ぐも、織田・浅井の同盟関係が破綻して長政が死ぬと織田へ引き戻された。さらに信長の死後に織田の重臣・柴田勝家のもとへ再嫁するも、その柴田が滅亡する際に運命を共にした、という女性だ。彼女と長政の間に生まれた3人の娘がそれぞれ有力大名のもとに嫁ぐなど、お市は戦国時代を語るにあたって欠かせない存在ではある。しかし、家康とお市の間の接点は少なくとも史実的には見出せない。……かと思いきや、糸口が何もないわけではないのである。 ここにも…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

織田信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自害した。本能寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の…

【家康の謎】本能寺の変での家康黒幕説ってどんな説?

…で後一歩と迫っていた織田信長が、ある日突然、重臣のひとりである明智光秀に討たれてしまう大事件だが、なぜこうなったのか理解し難いところがある。 信長が英雄とみなされるのに対して、光秀はその素性もよくわからない人物であり、英雄を討つのには(あえて言えば)格が低い。そこで「光秀を操っていた黒幕がいるのではないか」という考え方が数多く唱えられてきた。例えば「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などは、光秀と縁の深い勢力が陰謀を企んで信長を排除させたのだ、という考え方だ。突拍子もないところで…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…価値を持つ作品です。織田信長はこの屏風絵を当時のローマ教皇グレゴリウス13世に献上し、教皇はそれをバチカン宮殿に飾らせたとされますが、その直後に教皇が急死し、遺品整理で屏風絵がどこかに移されて以来、現在まで屏風の所在が不明となっています。 新保先生は屏風そのものはもちろんのこと、当時屏風を見た人々や、屏風に関心を持っていただろう人々のことを辿っていくという、先生の言葉で言うところの「しらみつぶし」の探索活動を通して、屏風や模写資料に関する情報を徹底的に調査されているようです。…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…平(徳川)信康様は、織田信長様の娘、五徳姫様(徳姫様とも呼ばれる)をご正室に迎えておりました。 その後、その五徳様が信長様へ向け書いたとされる“十二か条の訴状”が元ととなり、武田家との関係を疑われた瀬名様は、徳川家の将来を危惧した徳川家家臣により自害をせまられますがそれを拒み、佐鳴湖に近い小藪村にて殺害されてしまいます。(この殺害は家臣達の独断とも伝わります) なお、上記のお話が通説となってはおりますが、その他にも… 侍女が身代わりとなって、瀬名様は尼となり生き延びた説(この…

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

徳川家康といえば、織田信長・豊臣秀吉と並んで愛知出身の「三英傑」のひとり――とスムーズに答えられたあなたは、もしかしたら東海地方の人かもしれない。愛知のテレビ局が最近調査したところによると、この呼び名は東海地方だけで流通している可能性がある。新幹線の駅ごとに調査したところ、東は静岡で、西は岐阜と滋賀の境目あたりが限界で、それより先ではそれぞれ調査した10人のうち過半数が三英傑の名前を答えられないという結果が出た、という。とはいえ、近年は大河ドラマで戦国時代後期をテーマに扱うた…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…る争いの時期を経て、織田信長が上洛してくる。この時期の河内守護代は長教の子の信教(のぶのり)で、信長上洛後には足利義昭に仕え、信長・義昭の対立後は反織田の立場で戦った。【概ね『河内長野市史 第1巻 下』】→なお、長教の死後は安見直政という人物(守護になった畠山高政の側近)が守護代になったという話が知られているが、近年の研究ではこの人物の名及び守護代になったという話は信憑性の高い史料には登場しないという。史料に出てくるのは宗房(むねふさ)。【弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究…

【家康の謎】家康はなぜ嫡男信康を殺したの?

…では、家康は同盟者・織田信長の要求によってやむなく妻と息子を殺さざるを得なかったという。というのも、信康が正室として迎えた徳姫(信長の娘)と、家康(当時は浜松城を本拠)との不仲から岡崎にいた築山殿の関係が悪化した末、徳姫が父・信長に不満を訴えることになってしまったからだ。その内容が単に義母への不信、あるいは夫との不仲(男児が誕生しなかったのが原因とも)であったなら、現代でもよくあるような話である。しかし、築山殿が織田・徳川連合の共通の敵である武田勝頼への内通を図っている……と…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…た。でも考えてみれば織田信長も徳川家康も作ってないんですよね。大河ドラマのように今川義元の薫陶を受けた家康なら「徳川かな目録」を作っていてもおかしくはないのですが。(一方で武田信玄は「今川かな目録」を参考に「甲州法度之次第」を作っている) 分国法ってそもそもなんなのかもよくわかってなかったので、 分国法とはどういうものなのか おもな分国法にはどんなのがあるのか なぜ分国法を作ったのか(メリット・デメリット) などについて榎本先生に整理していただきました(以下、引用部は榎本先生…

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

…色地むら染麻細帯) 織田信長 衣装 (真紅色絹朱子袖なし小袖に 濃紅色柄織小袴) スタッフ様より、竹千代様のお衣装は一度展示され、改めて使用することになったとのことで現場へ戻され、使用後に帰ってきたお品だとお聞きしました。 竹千代 衣装 (蕎麦切色むら染麻小袖に 御召御納戸色織小袴) さらに一度目の展示の際にはなかった“ほつれ”が現在は見られ、撮影中についたものなのではないかと、大変貴重な情報をお伝えくださいました。 なお、4月25日(火)からは新しいお衣装の展示となるそうで…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…きた本能寺の変の際、織田信長の弟である織田長益(のちの有楽斎)は信長の嫡男・信忠と行動をともにしていましたが、信忠は自害した一方で、長益は生き延びています。この史実自体は広く知られていますし、またこのエピソードから長益を「逃げた男」とネガティブな印象で語られることも多いですよね。でもそれは正しい評価なんだろうか、というのが本展のポイントのひとつです。 というのもこの特別展が開催されるきっかけが正伝永源院のご住職・真神さんたちの有楽斎の名誉回復を願ってのことだからです。内覧会の…

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

… 朝倉氏はどうしても織田信長に滅ぼされた悪役、弱小大名のイメージが強いかもしれませんが、そもそもは下剋上によって越前を支配した戦国大名であり、100年つづいた戦国大名家という点では小田原北条氏などと並び数少ない名門です。当時の一乗谷には1万人をこえる人口がいたとされ、国内トップクラスの城下町だったとか。 また博物館の学芸員の仕事を紹介するコーナーもありました。発掘調査をするだけでなく、出土品を分析したり、展示するために修復をおこなったりと、ぼくらが目にするまでにいろんな工程が…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…総じて信仰心が篤い。織田信長は桶狭間へ出陣するにあたって熱田明神へ参詣したし、上杉謙信は毘沙門天を信仰するあまり自らをその化身と信じるに至った。謙信自身やそのライバル・武田信玄をはじめとして出家後の名前で広く知られている武将・大名も多い(それぞれの出家前の名は「上杉(長尾)景虎」と「武田晴信」)。また、この頃には「天道(てんどう)」と呼ばれる、世界の摂理を司どる存在も広く信仰されていたようだ。 では、家康はどんな宗教を信仰していたのだろうか。松平氏の菩提寺は今でも愛知県岡崎市…

【家康の謎】家康はなぜ曳馬城を浜松城に改名したの?

…私たちが思うよりもずっと迷信深く、縁起を担ぐ。ましてや、命懸けの戦いをする戦国武将、戦国大名が不吉を嫌い、吉兆を喜ぶのは当然であろう。 ちなみに、似たような話としては、織田信長が生まれた場所とされる勝幡城のケースがある。もともとこの地は「塩畑」と呼ばれていたが、塩と畑の相性がいいはずがない。これは不吉ということで、織田信定(おだ のぶさだ。信長の祖父)もしくは信秀(信長の父)が縁起の良い「勝ち旗」に通じる「勝幡」へ改名した、という。 kojodan.jp kojodan.jp

【家康の謎】家康は源氏なのか

…ある必要はなかった(織田信長が朝廷から将軍職を提案されたことなどが根拠)とされている。それどころか、家康が本当に源氏だったかどうかさえ怪しい、という話をご存知だろうか。 徳川氏、ひいては江戸幕府が正史として伝える徳川氏の由緒話は以下のとおりである。そもそもの祖は「源義家の孫・新田義重の四男・義季(よしすえ)」だ。この人が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川四郎(とくがわ しろう)」を名乗った。ところが、末裔は室町幕府によって上野から追い払われてしまい、僧侶として各…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…はじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?掛川市のサイトにも 1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/10224.…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…ために用いた旗印だ。織田信長といえば永楽通宝の旗印、武田信玄といえば風林火山の旗印、というあたりが有名だろう。そしてもうひとつ、よく知られているのが徳川家康の「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の旗印である。 これは浄土宗の考え方(思想)で、汚れた現世から離れたい、浄土へ生まれ変わりたい、という意味合いだとされる。では、どうして家康はこのような言葉を旗印として掲げるようになったのかをご存じだろうか。 じつは、この由来には二つの説がある。家康の菩提寺である大樹寺の…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

織田信長・信忠が本能寺の変で討たれた後、情勢が大きく変化します。そして、それが加速して大きな流れの中で勃発したのが小牧・長久手の戦いです。家康と秀吉による最初で最後の激突、天下人同士の一戦などと称されることがありますが、実態はやや違っています。しかしながら、家康にとっての大きな大きなターニングポイントとして後世語られることにもなった戦い。どうしてこの戦いが起こったのか、そしてその後どのように情勢が変わっていったのかを見ていきましょう。 織田家の危機が生んだ戦い 小牧・長久手の…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…明智光秀が主君である織田信長様をお討ちになられた、知らない方はいないであろう、歴史的大事件です。 本能寺の変と家康様にどういった関係が? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実はそこには、武田家との戦が関係しております。 1575年(天正3年)の、長篠の戦いで武田軍に勝利した、織田・徳川連合軍。武田家に仕えていた穴山梅雪様も武田家を離反され、織田徳川の連合軍につきます。内応する条件として、人質の逃亡と甲斐一国の拝領、さらに武田氏の名跡継承を条件に、家康様の誘いに乗り、信…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

…あり、西三河へ援軍を送ることができなかった。孤立した家康はすでに織田と結んでいた伯父・水野信元の縁も辿って織田信長と外交交渉をはじめ、おそらく1561年(永禄4年)には織田との同盟を成立させたものと考えられる。これは当然、主君であった今川との断絶を意味していた。 なお、通説では翌年(永禄5年)に尾張の清洲城で家康と信長による直接会談が行われて同盟が成立したとされているが、これは後世の創作であり、同盟の時期はより早く、また直接の会談も時期的にあり得なかったろうと考えられている。

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…ちできないと判断し、織田信長に援軍の要請をしました。しかし、信長は石山本願寺との交戦の真っ最中で、援軍を差し向けることはできない状況でした。そのため、高天神城は自力で守るしかなかったのです。 勝頼はそんな状況を知ってか知らずか、穴山信君(梅雪)を使って小笠原に対して降伏を勧めます。小笠原がそれに応じなかったため、5月末より攻撃を開始。周辺の曲輪から徐々に落としていき、5月28日には本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが残るのみとなり、さらに6月10日には堂の尾曲輪が落ち、本曲輪と二…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…軍の猛攻を防ぐために織田信長に再三援軍の要請をしていました。そして信長と嫡男信忠は5月13日に30,000の兵を率いて岐阜城を出立、熱田で先勝祈願をしたのち、5月14日に岡崎城で家康と合流しました。 その後、織田・徳川連合軍は5月16日に牛久保城、17日に野田原を経由して、18日に設楽原に到着しました。極楽寺山に信長、新御堂山に信忠、有海原(設楽原)に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らが着陣、家康は古呂道坂の上の高松山に布陣し、有海原で連吾川を前に当てて、武田軍の滝川一益とともに…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…2年)に越相同盟を、織田信長と上杉謙信が1572年(元亀3年)に濃越同盟を、そして織田信長と徳川家康が同盟関係になりました。このように刻一刻と状況が変化していくなかで、上杉謙信と同盟を結んだ徳川に白羽の矢が立ったと考えられます。 信玄が浜松城を無視したのはなぜか 武田軍は堀江城攻略を狙っていたのか?(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 信玄が遠江に侵攻したのちの動きは前述したとおりですが、なぜ浜松城を無視したのでしょうか。従来の説は上洛が目的だったため西へと軍をすすめた…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

姉川の戦いと言えば、織田信長と朝倉義景・浅井長政の間で起こった戦いとして有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。 織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果…

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