攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

荒木村重 の検索結果:

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…を任されていた重臣の荒木村重(あらき むらしげ)が、官兵衛の主の小寺家なども巻き込んで信長に対して反乱を起こしたのだ。説得に向かった官兵衛は土牢(つちろう)に監禁されてしまう。この反乱は1年続き、その間ずっと投獄されていた彼は髪の毛が抜け、さらに足の関節を悪くして上手く歩けなくなってしまった。 さらに不運なことに、信長は、官兵衛がこんなにも長く戻ってこないのは裏切ったせいだと思いこみ、息子の長政を殺すように命じてしまう。結局、1年後に荒木村重の反乱は鎮圧され、官兵衛は救出され…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…包囲軍に参加していた荒木村重が勝手に軍を戻し、あまつさえ反旗を翻してしまったのだ。この反乱はなんと1年にも及び、説得に赴いた官兵衛が捕らえられるという事件も起きた。結局、三木城を落とすまでには2年の年月がかかった。この時に秀吉が取った策が兵糧攻めだ。周囲の城を落として孤立させ包囲することで、食糧補給をできなくしたのだ。三木城内の兵士は完全に餓えてしまい、草の根や木の皮を蓄って餓えをしのぐしかなくなり、ついには降伏に至ったのである。これが「三木城の干殺し」で、この兵糧攻め作戦こ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…の最中に反旗を翻した荒木村重の籠もった摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)もまた、支城を落とされて孤立し、追い詰められることになった。有岡城は1574年(天正2年)に村重が入るまでは伊丹城といい、村重によって攻め滅ぼされた伊丹氏の拠点であった。平城であり、城下町全体を取り囲む惣構えを備えていた。『日本史』で知られるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事なる城」と書き残していることから、結構な規模であったらしい。 村重は信長に忠実で、彼の近畿支配構想において重要な人物だ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…始めた。やがて摂津の荒木村重もまた謀反して毛利方に転じると、それに呼応して別所方は城から出撃し、平井山に攻め上がってきた。だが、秀吉の弟・秀長の部隊がこれを撃破。さらに別所軍の退路を絶ったために、多くの兵が崖を滑り落ちることになったという。いわゆる「平井山合戦」である。 反撃に出て失敗した別所方は、以降は籠城戦に徹することになる。これに対し、秀吉軍はまず支城や砦の類を徹底的に潰した上で、多数の付城を築いて三木城を包囲しての兵糧攻めの構えをとった。これに対して別所方は抜け穴など…

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

荒木村重は「信長を裏切った男」のひとりとしてよく知られている。明智光秀とも関係があるため、彼の裏切りが「本能寺の変」に何らかの形で繋がった……と考えることもできるかもしれない。村重はもともと、摂津の大名である池田勝正の家臣だった。織田信長の上洛時、勝正は信長に臣従する道を選んだので、村重もまた信長に従うようになる。 村重にとって運命の分かれ道になったのは、主家である池田氏の内紛だった。その中で村重は池田一族として認められるほどに力を増し、また主君であった勝正も追いやり、信長か…

明智光秀とお岸ーーあるいは史料と伝説の向こうの家族

…関係が深かった同僚、荒木村重の嫡男・荒木村次のもとへ嫁入りしていたのだが、村重は信長に反旗を翻してしまった。村次はこの際に彼女を離縁し、光秀のもとへ戻したので、光秀は改めて己の重臣である秀満と娘を結婚させた、という経緯だ。なお、村次は父ともども逃げ延び、のちに羽柴秀吉に仕えている。 この他、側室の子・於隺丸がいて生き延び、近年多数の著作を刊行する明智憲三郎の先祖になったとか、タレントのクリス・ペプラーの母方の家系である土岐家を遡ると土岐頼勝という人物がいて、この人は光秀の実子…

明智光秀と明智秀満(左馬助)――あるいは信頼の証の婚姻

…だ。この娘はもともと荒木村重の子に嫁いでいたのだが、荒木家が謀反で潰されたため、光秀の元へ戻ってきたのちに秀満に再嫁した、という経緯を辿っている。 この時代、武将の娘の嫁ぎ先といえば、大方3パターンと相場がきまっている。同盟の証として他勢力に嫁ぐか、同僚との関係を強化するために同僚の家に嫁ぐか、有望な部下に嫁いで将来的な離反を防ぐか、だ。光秀の娘のケースは二つ目と三つ目のパターンに合致することになる。このことからも、秀満は光秀第一の重臣として遇されていたのだろうと推測される。…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…の信長なら松永久秀や荒木村重はじめ、家臣たちの苦悩に寄り添えず、裏切られていくんだろうなあ」と純粋&不器用のキャラになっていましたね。ちなみにお父さんの信秀は「器用の仁」と呼ばれてたんですけど。 その織田信秀が末盛城(末森城)で信長と会うシーン、後ろに龍の絵(水墨画?)が描かれていました(ここに巨大な金碧画が描かれるようになるのは秀吉の時代です)。その爪の数は3本でしたが、こういう細かいところもきちんとこだわってるんですよ。龍の爪の数はもともと3本が基本でしたが、中国の皇帝の…

内郭と外郭

…・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街のすべてを囲んでいました。 kojodan.jp 豊臣秀吉が築いた京都の「御土居(おどい)」も典型的な総構えで、その総延長は5里26町余(22.4km)にもおよびました。 なお、現在判明している総構えの最古の遺構は、有岡城のものです。 天正年間に荒木村重により改修され総構えとなりましたが、10年ほどで廃城となっています。 (余談ですが有岡城と呼ばれたのは荒木村重が城主だった期間だけで、それ以前は伊丹城と呼ばれていました) kojodan.jp

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