酒井家 の検索結果:
…石藩片倉家)、庄内藩酒井家、姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかもしれません。 なお今回このテーマを取り…
…藩の支藩である松山藩酒井家出身で、4代藩主の忠真が亡くなった後に跡継ぎのいなかった本家へとやってきた。彼の妻は加賀藩主・前田綱紀の養女で、金遣いが派手だったために雑用金が膨らみ、財政を圧迫させる要因となっていく。 その上、1739年(元文4年)には幕府から日光東照社の修理を命じられ、4万8千両の普請費用が財政をさらに圧迫した。そのため、藩士たちから禄と扶持を取り上げ、その代わりとして雑用金を支給するなどの異例の措置をとらなければならないほど、藩は困窮していたのである。さらに藩…
…に気づいた者がいた。酒井家の家臣・高力喜兵衛(こうりき・きへえ)である。忠当と従兄弟の関係でもある高力は、彼を排除しようとする忠重と対立。高力らは忠当の舅にあたる老中の松平信綱に忠重のことを密かに訴え、彼と忠勝をどうにか引き離し、藩の情勢を改善したいと協力を求めた。 ところが、この頃に高力の味方であった毛利長兵衛という男が、忠重に捕らえられてしまった。忠重は毛利を脅迫し、自分の腹心となることを強要。高力のことを忠勝に讒訴するよう命じたのである。毛利はこれに従い、「高力らは信綱…
…けたものの、混乱した酒井家の家臣たちもこれに入り交じっての斬り合いとなり、結果的に宗輔だけでなく外記と六左衛門も死亡してしまった。 この事件は「寛文事件」と呼ばれ、一般的に伊達騒動といえばこの酒井家で勃発した刃傷事件のことを指す。寛文事件はすぐに将軍・徳川家綱のもとに伝えられ、関係者にどのように処分を行うかが議論された。まず藩主の綱基(亀千代。のち綱村)だが、彼はまだ幼少ということでお咎めなしとなった。幕府は刃傷事件を私闘として処理することで、藩主には責任を問わないことにした…
…りに落涙したという。酒井家は「徳川四天王」と称された家康の腹心・酒井忠次の血を引く名門中の名門だった。しかし、貧しさの前には家名の威光もあえなく力を失ったのだ。他にも、恥を忍びながらも行列を作らず、徒歩で移動して財政負担を軽くした涙ぐましい例もあったようだ。一方で、大規模な大名行列が通過・滞在すれば宿代などの形で地元にお金が落ちたため、その経済効果で潤った藩もあったという。 そんな中、譜代大名は江戸を守るため、関東近郊に領地を持っている場合が多い。図抜けた大大名も基本的にいな…
…老はほとんどの場合、酒井家と井伊家から選任されている。 老中(ろうじゅう) 平時における幕閣の最高位。朝廷に関することがらや外交、幕府の財政、大名や直参の知行割り(領地の配分のこと)、大規模な普請などを担当し、さらに大名からの届け出も扱う最重要職だった。定員は4~5人ほどで、月番制で幕政を担当していた。小事は月番が1人でかたづけ、重要な条件になると合議で決定された。基本的に、老中の指示は将軍の指示として受け止められていたので、幕府の権威を象徴する役職でもあった。この職は譜代大…
…家、結城家、榊原家、酒井家といった有力かつ武断派の譜代大名を配置したほどである。 1619年(元和5年)、幕府は大坂を直轄地とする。同年、広島藩の福島正則が無断で城の石垣を修理したとして領地没収となり、浅野家がこれに代わることとなった。そして、空いた紀伊に徳川頼宣が送られ、ここに御三家のひとつ、紀伊徳川家が誕生する。四国・九州も当初は外様大名に占められていたが、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。 その他、外様大名が改易や転封を…
…子・広親を始祖とする酒井家をはじめ、本多家、大久保家、鳥居家、内藤家、平岩家、石川家、青山家、阿部家、成瀬家、渡辺家、植村家などがこれに含まれる。 山中譜代 松平家が居城を安祥から岡崎に移すまでの間に服属した譜代大名。1524年(大永4年)、清康は一族の松平信貞による反乱を抑えるため、居城を安祥から岡崎に移している。このとき服属した信貞の家臣たちも、山中譜代に含まれている。 岡崎譜代 清康が居城を岡崎に移してから、9代目の家康が遠江を平定し、浜松に居城を移すまでの間に服属した…
…た、ある年の庄内藩・酒井家では、国元でかかった支出が約5千両だったのに対し、江戸での支出は約2万両だったという。実に6倍である。ここからもわかるように、参勤交代と江戸での生活にはとてつもない金額が必要だった。 「移動中に旅費が足りなくなり、調達するためにしばらくその場に逗留するしかなくなった大名」あるいは「節約のために大名行列をつくらず、(普通は籠なのに)草軽履きで国元に帰った大名」がいた一方で、「大名行列が道中で落とすお金が財政上大きな割合を占めていた藩」もあったという話が…