城攻めは敵の3倍の兵力が必要だとして「攻撃三倍の法則」という考え方がありますが、その例外が多数あることはこれまでに見てきた通りです。おそらく兵站の心配がなく、籠城側に後詰めが期待できないなら、同数の兵力で包囲してれば勝てそうですね。
いずれ降伏するにせよ、交渉を少しでも有利に進めるために合戦に勝利しておくというのは重要です。この植田城での戦いが回避されてしまったことで、秀吉の当初の条件である「土佐・阿波を安堵」(元親は伊予一国を返還で交渉)から、結果として土佐一国のみ…
空城の計は『三国志演義』において蜀の諸葛亮が魏の司馬懿に対して用いた奇策ですが、本文にあるとおりフィクションの可能性が高そうです。順当に考えれば信玄がその後の戦いに備えて兵力を温存したというところでしょうか。
前田利家の家督相続に反対して一時は浪人にもなった奥村永福ですが、帰参した後は前田家の重臣として活躍します。利家とともに九州征伐・小田原征伐にも参加し、豊臣姓を下賜されたとも。
伏見城や大津城が西軍を足止めしたように、東軍主力の本戦参加を足止めしたのが上田城であり、その戦いが有名な第二次上田合戦です。この戦いがなければ大坂の陣での活躍含め、真田の名前が後世に残ることもなかったでしょうから、一族にとっても意味のある…
彦根城を築城する際、家康は落城しなかった縁起のいい城ということで、この大津城の天守を移築するように命じたそうなので(そのエピソードが事実なら)、やはり関ヶ原の戦いでの勝利に大きく貢献したと家康は評価していたのでしょう。
会津征伐のために徳川家康が大坂を留守にして、その隙に石田三成が挙兵すると徳川方の伏見城を攻め落とす、というこの関ヶ原の戦いにいたるストーリーってどこまで本当なんでしょうね。あまりに出来すぎているというか、単純すぎるというか。 ちなみにこの戦…
かつて上杉・武田を撃退したという成功体験がのちの判断ミスにつながったとも言えますが、今回の話についてはそれぞれの戦いの背景というか、北条氏の同盟関係が変化していることに注目ですね。
この人取り橋の戦いにおける伊達政宗のラッキーは、非常にピンチの状態で武田信玄や上杉謙信が亡くなった織田信長のラッキーに似てますね(暗殺説もあるようですが)。ともあれ歴史に名を残すのに運は必要ということでしょう。
大友氏を裏切った立花鑑載は父を大友宗麟に殺されているので、その恨みもあったようです。後詰にかけつけた援軍が、自領のピンチによって撤退しなければならないという経緯は上月城の戦いに似てますね。
慶長出羽合戦の舞台として有名な長谷堂城ですが、もともと庄内地方をめぐっての上杉景勝と最上義光の争いがあり、それが関ケ原の戦いの際に顕在化したとも言えます。攻め手の直江兼続は長谷堂城付近で刈田狼藉をおこなって挑発したようですが、守将の志村光…
尼子経久によって拡張され難攻不落の要塞と名高い月山富田城ですが、大内義隆らに責められた第一次は防衛に成功したものの、大内氏滅亡後に毛利元就が攻めた第二次では兵糧攻めに敗れ、尼子氏は滅亡することに。
のちに毛利輝元が広島城を築いて移るまで、長年にわたり毛利氏の居城として使われた吉田郡山城ですが、山全体を要塞とする規模になったのは元就の晩年で、尼子氏を撃退した当時はまだ拡張前だったようです(一部の拡張がはじまっていたとも)。
近年、織田信長についてはそれほど革新的ではないとか、むしろ幕府再興を目指した当時の価値観でも保守本流であるといった再評価が進んでいますが、こと美術的な観点ではやはりこの桃山文化を育んだことは偉大だなと思います。豪商との結びつきや海外交易な…
侵略した土地を支配するためには大義名分が必要であり、そのためにも尼子氏の再興は妙案だったのですが、三木城が敵方になった以上、当時の秀吉の権限と兵力ではどうにもなりませんでした。それ故にあの無残な干殺しになったかはわかりませんが。