攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

元康の「元」の字は今川義元から与えられた偏諱ですが、家康の「家」の字はどこ由来なのか。じつはいろんな説があるものの、じっさいのところよくわからないそうです。

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんが京田辺市で現在開催中の「京田辺伊賀越えスタンプラリー」に参加してきたそうです。全スポットを制覇された写真満載のレポートをぜひお読みください!

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

日本でいちばん有名な合戦が「関ヶ原の戦い」でしょう。天下人・徳川家康の誕生を決定づけた合戦ではありますが、主力は豊臣恩顧の大名たちであるなど、かなり危うい勝利だったようです。三成にもう少しだけ人望というか柔軟性があれば結果はちがっていたで…

知ってる? 水野勝成

ファンキーな戦国武将の筆頭格である水野勝成はぼくも大好きですが、なんと彼の魅力に取りつかれて水野勝成のウェブサイトを作ってしまった方がいます。 そんな水野勝成ラブなNishiさんに勝成との出会いと彼の破天荒で愛すべきエピソードの数々を存分に語っ…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

そもそも初見ではなかなか読めない「厭離穢土欣求浄土」ですが、登誉上人が切腹を思いとどまらせたほうの説は知っていたものの、もうひとつの説は知りませんでした。意外とこちらのほうがリアリティがありますね。

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

家康と秀吉の直接対決と言われることも多い小牧・長久手の戦いですが、実際は家康は織田信雄の援軍であり、その信雄が先に秀吉と和睦したため、はしごを外された家康は危機を迎えます。天災によって救われたのは家康の人生最大の幸運だったかもしれません。

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは八王子城と甲斐上野城。攻城&城もなかの「はじご」はすごいですね。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のご紹介

マコト出版から出版されるガイドブック「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のサイン本を5名の方にプレゼントします!

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに「神君伊賀越え」について紹介していただきました。敵を撹乱させるためにさまざまな誤情報が飛び交ったこともあり真実がよくわからないこの逃避行ですが、各地に残っている伝承をたどるのもおもしろいで…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

人質時代の信長との縁もあり、今川家を見限って織田についたとされる通説は近年否定されているそうです。岡崎城に入った元康は織田方と戦っており、今川からの離反も援軍が期待できず安全保障が履行されなかったためと考えられています。

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

「高天神を制するものは遠州を制する」といわれたほどの要衝をめぐって徳川・武田が争奪した高天神城ですが、最終的に城将・岡部元信からの救援要請に応じることができなかった武田勝頼の威信を致命的に失墜させ、武田家滅亡のきっかけになった戦いとも言わ…

しぇるふぁさんによるJR福山駅から見る福山城の検証レポート

団員のしぇるふぁさんが昨年リニューアルオープンした福山城を訪問されました。その際にJR、福山駅のホームのどこからどんなふうに見えるのかを検証されたそうです。じっさいにホームのあちこちから撮影された写真も載せてくださってるのでとても参考になり…

【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

ドラマでも大変さが伝わりましたが、兵糧や小荷駄隊を守りながら敵中突破するというのはかなり難易度の高いミッションでした。ちなみに援軍が迫るなか前日に兵糧を入れる意味は薄いので前年ではないかという説があったり、これは米ではなく弾薬だったのでは…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

長篠の戦いというと鉄砲の三段撃ちなど信長が主役のように思われがちですが、本来はあくまでも徳川対武田の領土争いから起きた合戦です。 また武田氏が奥三河に侵攻した理由として、鉛鉱山の争奪戦だったかもしれないという新説が近年唱えられているというの…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

家康(当時は竹千代)が駿府に連れて行かれた時点で、すでに父親の広忠は亡くなっていたので、当主自ら人質というのもおかしな話だと思います。義元は三河統治のために幼年の当主を庇護・後見し、今川一門に迎えて英才教育を施そうとしたと考えたほうが自然…

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