攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

戦国時代の食事事情について教わりました

現代の一日三食という食習慣は戦国時代にはじまり、江戸時代に定着したそうです。
時代劇で白菜が出てくると考証が甘い(いまぼくらが食べている白菜は日清・日露戦争で大陸から兵士が持ち帰った種子にはじまるそうです)という指摘はSNSでよく見かけますし、大河ドラマの時代考証をされている小和田先生の講演でも『天地人』で「越後は米どころだ」というセリフに対して、越後が米どころになるのは江戸時代の大規模新田開発のあとなので戦国時代の状況とはそぐわないと指摘された話をされていました(収穫高が約3倍に増えたとか)。

ドラマはドラマなのであまり厳しくチェックするのも興をそぐことになりますし、個人的にはエンタメ作品はおおらかに見たほうが楽しめると思っていますが、知識として知っておくとそれはそれで楽しいですよね。
この食材が日本に入ってきたのはいつなのか(なんとレタスは奈良時代だとか)、この料理が登場するのはいつ頃のことなのか、料理の作法や食文化はどのように定着していったのかなど、食事というのはとても身近なことなのに、その歴史については意外と知らないことだらけだなと思って、とくに戦国時代の食習慣や食文化について、榎本先生に教えていただきました。


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戦国時代に起きた食の変化

まず戦国時代にはいろいろな「食の変化」が起きました。またそうした変化が江戸時代に定着したという傾向が広く見られるのですが、最初に結論を書いておくとこれは国内の事情というよりは、大航海時代まっただ中にあった海外との交易・交流の中で起きた変化だそうです。

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具体的にはこのような変化が起きていました。

  • 醤油の出現は戦国時代終わり頃で、味噌から染み出してきた汁がルーツであるとか
  • 油を使った揚げ料理「天ぷら」「油揚げ」「がんもどき」は戦国時代に伝わった西洋料理の手法が江戸時代に和食化
  • スイカ、ジャガイモ、トウモロコシ、トウガラシなどの新しい食材が入ってきたのも戦国時代
  • 酒が白濁したドブロクから、澄んだ清酒へ変わり始めるのもこの頃

なお冒頭に書いた一日二食から三食への変化については合戦のためのエネルギー補給を目的とした間食が日常化していったという説があるそうなので、これは(大航海時代とか関係なく)完全に国内事情によるものですね。

普段の食事は?

では普段の食事はどうだったのでしょうか。
戦国時代は不足した食料(おもに米)を奪うために隣国に攻め込むといったことも珍しくない時代ですから、現代のように毎日好きなだけ白米を食べられるといったことはありません。むしろ米が希少だったため、庶⺠や下級武士はもちろん、石田三成のような上級武士でさえも雑炊を普段から食べていたそうです。

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米に麦や粟を混ぜて炊いたり、雑炊にしたりするのが基本で、庶民は雑穀や芋が主食でした。
また、味噌汁をかけて食べる「汁かけ飯」は身分を問わず広く好まれたようです。たしかに北条氏政の汁かけ飯エピソードを考えても、大名クラスでさえ日常的に汁かけ飯を食べていたことがわかりますしね。

北条氏政の汁かけ飯エピソード
氏政が汁の二度かけ(一度かけたけど足りなかったのでもう一度かけた)をしたら父親の氏康が「毎日食べてるんだからそのくらい見切れるようになれよ」と失望して政治家としての器量まで疑った話。

また仏教の普及により肉食は良くないとされていたそうです(鳥と魚は許されていたとも)。
しかしじっさいは猪や鹿などを食べていました。武士は軍事訓練も兼ねて狩りをするから、捕らえた獲物はそりゃ食べるだろうと榎本先生はおっしゃってました。

ここでおもしろいなと思ったのが、秀吉が肉食を禁止した経緯です。
西洋人の影響を受けて肉食は一時ブームになりかけましたが、秀吉の禁令により下火になりました。これは単純に「不浄」という理由に加えて、牛や馬などの家畜を食うと生産効率が悪くなるからと考えたからのようです。
秀吉がほんとうに百姓出身なのかはわかりませんが、とても合理的な考え方だなと感心しました。フランシスコ・ザビエルは著書の中で「猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書いたそうですが、この秀吉の禁令をみんなが遵守していたということなのでしょう。

ちなみに江戸時代、彦根藩は近江牛を薬として将軍に献上していたことは有名ですね。
「反本丸(へんぽんがん)」という養生薬として味噌漬けにした牛肉を贈っており、つまり彦根藩は幕府から牛肉の生産を許されていた唯一の藩だったとも言えます。
じつは将軍家だけでなく水戸家にも献上しており、とくに徳川斉昭は近江牛の愛好者として知られ「度々牛肉を贈り下され、薬用にも用いており忝(かたじけな)い」と書いた礼状を彦根藩主に送っています。しかし井伊直弼が藩主になると、殺生禁断のため斉昭への牛肉献上を中止したそうで、直弼の性格がよくわかるエピソードですね。

現代でも関西と関東では味付けが異なりますが、地方による味の好み(濃い薄い)は当時からあったそうです。
織田信長に仕えた、中央で活躍していた料理人がまずいと叱られ、次に出した料理はうまいと褒められた、その理由について本人曰く「田舎者好みの濃い味にしてやった」とのこと。
おそらくは好き嫌いというよりは食べ慣れている味かどうかの問題だと思いますが、こうした地方ごとの食文化は現代でも郷土料理として残ってたりしますよね。

番組では「高遠そば」の話をしましたが、攻城団ではコンテクストツーリズムと称して、各地の共通項(文脈)を探して旅行のきっかけにすることを推奨しています。
まさに「そば」をテーマにしたバッジも用意してあるので、ぜひ全国のお城をめぐりながら現地のおそばを食べ比べてみてください。

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特別な食事(戦場と饗宴)

もちろん戦場でも食事は必要ですし、安土城で信長や家康を饗応したように宴席での食事も非常に重要でした。

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今回の番組で榎本先生がいちばん紹介したかったのが、この戦場食の話だったそうです。
戦場では「干し飯(一度炊いて乾燥させた飯)」や「芋がら縄(味噌で煮染めたずいき=芋の茎。縄にも使うし、即席味噌汁の元にも)」を食べたそうですが、子どもの頃にマンガで読んでびっくりされたとか。

有名な携帯食に「兵糧丸」があります。これはさまざまな材料を砕いて練って丸めて持ち歩く団子のような食べ物で、『上杉家兵法書』のレシピだと、麻の実、黒大豆、そばの粉末を丸めて酒に浸してつくりますが、ほかにもバリエーションがいろいろあるようです。

うちにあったこの本にレシピも載ってたので、いつかつくってみたいと思います。

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なお戦国時代後期に専業兵士が登場するまでは基本的に短期間の戦争しかなかったので、兵糧は基本的には各兵士が自分で持ってくるものだったそうです。現地での略奪もしますしね。
戦争が長期化するようになると自己責任では無理があるので軍団の方から支給もされました(3日までは各自持参であったとも)。ここで活躍したのが「小荷駄隊」という運搬専用部隊でしたが、戦功が認められにくいので誰もやりたがらなかったようです。

調理も基本自分たちでやったそうです。「米をたくさん与え過ぎると酒を作る兵士が現れる」という話があるくらいで、すべてのことを自分でやらなければならない当時の兵士はかなりハードですね。
もちろん行軍中は調理をしなかっただろうとのことでした。「腰兵糧」という、いわゆる乾飯などを食べながら進んだみたいですね。これは時短目的だけでなく、火を使って調理してたら煙が立つので敵にバレやすいということもあったようです。

陣城を築いて包囲中にあるとか、余裕があれば雑炊をつくりました。
武田信玄はほうとうを陣中食として食べさせたらしいです。栄養満点で、しかも干した麺は米より軽いのも好都合でした。

また鍋釜なしで米を炊く方法として、「濡らした手拭いで米を包んで地面に埋めてその上で焚き火をする」ということをやっていたそうです。
まるで予想もできないのですが、どんな味なんでしょうね。これもいつかやってみたい。

戦場とは逆に、宴会での食事についても聞きました。
室町時代、将軍の御成を迎える武家の儀式のための料理として「本膳料理」が確立したそうです。その後、戦国大名が客を迎えるときはこのスタイルで料理を用意するようになったとか。
安土城での饗応メニューも記録に残っていて、鮒ずしや鮎ずし、鴨の汁に鱸の汁、鯛に鱧に鮑のほか、宇治丸(鰻の蒲焼)があるのですが、この頃はまだ現代のように開いた蒲焼きではなかったそうです。

とまあこんな感じで今回は「食」をテーマに戦国時代(一部江戸時代も)の話を伺いました。
身近なテーマだからこそおもしろいですね。こんなふうにこれからもワンテーマでいろんな話を教わっていきますので、みなさんも興味あるテーマがあればぜひリクエストしてくださいね。

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参考リンク

近江牛の歴史|滋賀県ホームページ

ハクサイ - JA柳川 | 柳川農業協同組合

米どころ新潟の誕生 | 新潟県立歴史博物館公式サイト

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仇討ちの歴史について教わりました

時代劇でも「父の仇!」といったシーンで見ることがありますが(最近は時代劇そのものが少なくなりましたが)、かつての日本では「仇討ち(敵討ち)」として、身内を殺されたものが犯人を追い詰めて私的に(殺人による)制裁を加えることがありました。

亡き主君の仇を討った「忠臣蔵」がおそらくもっとも有名な仇討ちでしょう。
しかしこの仇討ちにはきちんと届け出を出さなければならないというルールがあったり、なかには延々と53年にもわたって仇を追い続けたケースやあえなく返り討ちにあって失敗したケースなど、意外と知らないことも多そうなので榎本先生に教えていただきました。


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そもそも仇討ちとは?

榎本先生が別ペンネームで書かれている時代小説「露払い 仇討探索方控」(幻冬舎時代小説文庫)を書かれた際に、仇討ちがテーマということでいろいろと調べられたそうです。

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まず「仇討ち(あだうち)」あるいは「敵討ち(かたきうち)」の定義から入ると、簡単には「家臣や家族、縁者による復讐のこと」を指します。
もちろんこれは現代なら犯罪(私刑)ですが、公権力がさほど役に立たなかった時代には自分の力で仇を討つ必要があった、とも言えます。物騒な話だから戦国時代以前のことかと思いきや、とくに江戸時代が盛んだったそうです。法律が整理されるまでは「仇を討つことは立派なこと」で、むしろ「仇を討たないとはなんたることだ」と処罰されるケースもあったとか。
まずはこのあたりの認識を整理していく必要がありそうですね。

また「忠臣蔵」のように、もともとの仇討ちは「武士がやるもの」でしたが、江戸時代中期以降になると庶民がおこなうケースのほうが多くなります。幕府や藩に押さえつけられた、庶民たちによる反撃という側面もあったようです。

今回教わったことでいちばんおもしろかった(そして驚いた)のが、仇討ちの原則は「公権力の許可を取っておこなうもの」ということでした。
その届出にも各種ルールがあり、たとえば「目上のもの(父や兄など)の仇討ちは許すが、目下のものの場合は公権力による処罰に任せる」とか「他藩の領地にまで行く際は主君を通して幕府の奉行所に届け出をする」とか「仇を見つけた上でそこを管轄する役所に届け出をする。これを受けた現地の役所が仇討ちのための場所を用意することになっているが、余裕がなければ現地でそのまま討ち果たして、届出をする」といったものがあるそうです。

こうした手続き・手順をきちんと踏めば、正式な仇討ちと認められ、殺人の罪を問われないとか。
いちおう事後承諾もある程度は許容されていて、後から仇討ちであることを証明できさえすれば、やはり殺人罪には問われなかったそうです。
勝手に追いかけて、勝手に殺してしまうと、江戸時代でも殺人罪になったわけですね。

有名な仇討ちのあれこれ

今回の講義では歴史上有名な仇討ちを6つ紹介していただいたので、それを振り返ってみます。

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眉輪王の仇討ち

日本最古の仇討ちといえば、古事記日本書紀に書いてある、「眉輪王(まよわのおおきみ)が父の仇・安康天皇(あんこうてんのう)を殺した」一件。
なお、その眉輪王は安康天皇の子・大初瀬王子(おおはつせおうじ)に焼き殺されて、この王子が雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として即位した。

曽我兄弟の仇討ち

鎌倉時代には日本三大仇討ちのひとつ、「曽我(そが)兄弟の仇討ち」があった。
曾我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)・五郎時致(ごろうときむね)の二人が、同じ一族の工藤祐経(くどうすけつね)によって殺された父の仇を討つべく、源頼朝が催した富士の巻狩りに潜入し、ついに仇を討つが自分たちも殺されてしまう。脚色されて『曽我物語』として人気に。

伊賀越の敵討ち

江戸時代初期、やはり日本三大仇討ちの「伊賀越(いがごえ)の敵討ち」或いは「鍵屋の辻」と呼ばれる事件が起きた。
岡山藩で同僚を殺した藩士・又五郎(またごろう)が江戸の旗本に匿われ、岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)は幕府に抗議したが受け入れられず、無念のうちに死んだ。その遺言と圧力で匿えなくなった旗本の元を又五郎が離れたところ、殺された同僚の息子・数馬(かずま)が仇討ちに挑み、成功した。この時、剣術の達人である荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の姉婿という立場で参加し、大活躍したことで有名。

浄瑠璃坂の敵討ち

江戸時代初期の「浄瑠璃坂(じょうるりざか)の敵討ち」は、江戸時代において最も規模の大きい仇討ちであったという。
きっかけは宇都宮藩主・奥平忠昌(おくだいらただまさ)の葬儀で、家老の奥平隼人(はやと)と奥平内蔵介(くらのすけ)が口論し、ついには刀を抜いての斬り合いになったこと。内蔵介は自決して彼の家は取り潰されてしまったため、息子の源八(げんぱち)と彼に同情する仲間たちは仇討ちを決心する。そこでまず隼人の弟を殺害し、さらに江戸にいた隼人を付け狙った。決戦の日、火消し衣装で江戸を進んだ源八の一団は七十人余りで、隼人らを討ち取ることに成功した。

赤穂事件(元禄赤穂事件)

あるいはこの事件をモデルにしたフィクションのタイトルから『忠臣蔵』とも呼ばれる。これも日本三大仇討ちのひとつ。
赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけ、切腹およびお家取りつぶしとなったのがそもそもの始まり。武士には喧嘩両成敗の原則があるが、このケースでは適応されないと幕府が判断し、吉良側はお咎めなしだった。赤穂藩の浪士たちはこのことを不満に思って仇討ちの準備をしつつ浅野家復興のための工作を進めたが、お家再興がうまくいかないと知るや報復を決意。四十七人の浪士が吉良を襲撃し、その首を取り、事件後に出頭して切腹した。

護持院原の敵討ち

幕末期に、「護持院原(ごじいんがはら)の敵討ち」という事件が起きた。
天保の改革の立役者のひとり、鳥居忠耀(とりいただてる)の家臣・本庄辰輔(ほんじのうたつすけ)が御徒士(おかち)・井上伝兵衛(いのうえでんべえ)を殺害した。伝兵衛の弟・熊倉伝之丞(くまくらでのじょう)は松山藩士ながら兄の仇を打つべく江戸へ来たが、辰輔に察知され返り討ちにあう。伝之丞の子・伝十郎(でんじゅうろう)と伝兵衛の剣の弟子・小松典膳(こまつてんぜん)は二人の仇を討つべく辰輔を探し、逮捕されていた辰輔(鳥居の疑獄で一緒に逮捕された)が護送されるところを襲って仇を討った。伝兵衛の死から八年後のことだった。

どの事件も、その時代の政治事情や事件とけっこう深く関わっていて、たとえば赤穂事件は、将軍・徳川綱吉が従来の武断政治から文治政治への転換を進めていこうとしていた時代に「主君の仇を討って腹を切るのが武士だ」とやったわけで、歴史の流れに対する強烈なカウンターになっています。
将軍の面子をつぶしたことも大問題ですが、それを世間が喝采したということも当時の幕府や将軍の存在が疎まれていたということなのでしょうね。

本人たちの辛さと世間の能天気さ

最後にドラマとして盛り上がる仇討ちに対して、じっさいのリアルな仇討ちの事情について教わりました。

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まず仇討ちは、追う方も追われる方も長期間になるからどっちにとっても辛かったそうです。長いと53年目にようやく仇を発見したということなのですが、探偵もいないしGPSもない時代ですから、意外と逃げ切ることもできたそうです。

つまりぼくらが思っているよりも成功したケースは少なかったということですね。榎本先生によれば、仇を討つ前にどちらかが(事故や寿命で)亡くなったケースは成功ケースの倍というデータもあったとか。
もちろん「護持院原の敵討ち」のように返り討ちにあうケースもありますし、「伊賀越の敵討ち」のように有力者に匿われて容易に手が出せないケースも多いので、勧善懲悪的な美談で終わるのはかなり大変そうです。

一方で、庶民はわりと能天気に、ある種のエンタメとして仇討ちを楽しんだのも事実で、今回紹介した有名な仇討ちの多くは歌舞伎や浄瑠璃などのエンタメとして人々に親しまれました。なかでも曽我兄弟ものは江戸っ子にとって「正月は必ず見るもの」だったとか。昭和世代の「忠臣蔵」みたいな感じですね。

江戸中期以降になると、仇討ち情報は瓦版によって人々が知るところになったそうで、まるで現代のワイドショーや週刊誌のようでもあります。

時代劇における仇討ちシーンはドラマのクライマックスでもあり、犯人に逃げ切られたり、返り討ちにあったりするような失敗例が描かれることはまずないのですが、じっさいには成功しなかったケースもかなりあったこと、そもそも仇討ちの旅に出るには(有給休暇扱いにしてもらうために)役所に届け出が必要だったことなど、リアルな仇討ちの実情がわかりました。

これから時代劇を見るときは「ちゃんと届け出は出したのかな」と主人公の背景も楽しめそうですね。

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戦国時代のはじまりと終わり

戦国時代とはいつからいつまでを指すのか。
とても素朴な疑問ではあるのですが、正確に答えるのが非常に難しい問いです。とりあえずうちにある本を何冊か広げながら、どういう説があるのか、どういう考え方で区切っているのかを調べてみました。


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最初に結論というか、現在の定説としては

  • はじまりは「明応の政変」
  • 終わりは「大坂の陣」

という感じのようです。

ただ「戦国時代は何年から何年までの間」と明確に期間を区切れるかというとむずかしく、じっさい教科書でははっきり書いていません。
「応仁の乱で将軍・幕府の権威が低下し、明応の政変で決定的となった」みたいな書き方が多いようです。
(そもそも応仁の乱といっても11年あるのではじまりを示す「点」ではない)

書籍ではどうなのか

うちには攻城団ライブラリとして1000冊以上のお城本・歴史本の蔵書があるのですが(ほとんど未読ですけど)、その中から戦国時代についての入門書をいくつか引っ張り出してみました。
個々の書籍でどのように記載されているかというと、

  • 大石先生監修の「一冊でわかる戦国時代」では「応仁の乱の前後」から「徳川家康が死去した1616年」まで
  • 二木(ふたき)先生監修の「戦国時代のすべてがわかる本」では「応仁の乱」から「大坂の陣=豊臣家滅亡」まで。より詳細には「東国では北条早雲による伊豆平定(堀越公方の滅亡)、西国では明応の政変(将軍排除)で戦国時代へ突入」とある
  • 小和田先生監修の「戦国史」では「応仁の乱」から「足利義昭の追放」まで。ただしこれは義昭追放後を「安土桃山時代」としているため。また「一般的には」とことわりがあり始期と終期に諸説あることを補足しつつ、巻末の年表では1438年(永享10年)の「永享の乱」から「島原天草一揆」までになっている
  • 「クロニック戦国全史」では「享徳の乱」から「大坂の陣」まで

といった感じで少し古い書籍も含まれているとはいえ「応仁の乱」説が濃厚でした。
「島原天草一揆」までを戦国時代とするのはおそらく幕末の動乱をのぞけば、これが最後の内乱だということなのでしょうね。

なんで曖昧なのか

ここで基本的なところから考えてみると、「戦国時代」という名称はほかの「鎌倉時代」や「江戸時代」といった名称とは異なる命名ルールに基づいていることが曖昧さの理由なのでしょう。
一般に「○○時代」という時代区分は、全国的な政権の成立とその中心となる場所から名付けられるわけで、ようするに「都(政庁)の地名」を冠にしています。

しかし戦国時代はそういう区分ではありません。
戦国時代は室町時代の後期と江戸時代の初期に重なっているわけで、これは昭和から平成にかけて表現される「バブル時代」に似ています。

また戦国時代を「室町時代のあと」とするか、「室町時代後期と並行」とするかというスタンスのちがいもあります。
ただしこれはこれでややこしくて、「室町時代のあと」にした場合、「室町時代はいつ終わったのか」を決めなければなりません。上述の「戦国史」では「足利義昭の追放」を終わりにしていますが、じっさいにはその時点では義昭は将軍職を辞職しておらず、鞆幕府も含めるべきという考え方もあるでしょう。
(義昭が将軍職を辞任したのは1588年(天正16年)のこと)

そもそも最近の定説では鎌倉時代は源頼朝の征夷大将軍就任の1192年(建久3年)ではなく、それより前の1185年(文治元年)からスタートしているので幕府成立と時代区分も一致しないのですが、この点も考慮しはじめるとさらにややこしくなりますね。

始まりと終わりはややこしい

そもそも権力の移り変わりは一日で完了するものではないことも大事なポイントです。
たとえば鎌倉時代の滅亡は1333年とされますが、これは5月7日に足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇側に味方して六波羅探題を攻め落とし、さらに5月21日頃に新田義貞が幕府の本拠である鎌倉を陥落させ、執権・北条高時らを自害させたからです。しかしこれは最後のひと突きであって、この一連の争いである「元弘の乱」は1331年(元徳3年)にはじまってますし、御家人たちの不満はもっと早い段階から大きくなっていました。

「終わりの始まり」といった表現を使うことがありますが、まさに「終わり」は(「はじまり」も)一定の期間(日数や年数)がかかるものなのです。
話を戻すと、室町幕府が不安定になり、江戸幕府が安定するまでの間を「戦国時代」と呼ぶことができるかなと。
では不安定とはどういう状態かというと

  • 一発逆転のチャンスがあるか
  • たんに主君を殺して成り上がる下剋上だけでなく、支配者に対して派閥や徒党を組むことでの勢力図の逆転が可能か

といった定義が考えられます(あくまでもこれはぼくの定義ですが)。

そう考えれば、室町幕府の権威が弱体化していく(=不安定化)のは

1429年(正長2年) 義教就任
→くじ引きで将軍が選ばれた
※当時は神頼みはいまよりもっと日常的で説得力があったとはいえ
1441年(嘉吉元年) 嘉吉の変
→将軍が暗殺
1467年(応仁元年)〜 応仁の乱
→畠山氏の家督相続に将軍後継者争いまで巻き込まれた
1493年(明応2年) 明応の政変
→家臣による将軍の強制交代

あたりの出来事が順番に起こっていく中で「終わって」いったのでしょう。

また同時期に関東でも幕府の権威低下につながる出来事がつづいていたこともポイントです。

1438年(永享10年) 永享の乱
→幕府と対立した鎌倉公方・足利持氏を将軍・義教と前関東管領・上杉憲実とともに討伐
1454年(享徳3年)〜 享徳の乱
→鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺。幕府は山内上杉家・扇谷上杉家側についたため、成氏は鎌倉を追われる
1493年(明応2年) 伊勢盛時(北条早雲)による伊豆討入り
→堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)茶々丸の討伐=明応の政変で新将軍の座についた義遐(よしとお、のちの義澄(よしずみ))が母と弟の敵討ちを命じたとも

こうした出来事が連鎖的・複合的に起こっていく中で、「室町幕府が全国を支配する」という構造が(建前はどうであれ)実質的に失われていき、室町幕府が有名無実化していく=戦国時代のはじまりと理解するのが妥当な気がします。

ただ「応仁の乱」が大きな契機となったことはまちがいないと思います。
というのも室町幕府では守護は京にいる決まりで――だから領国を統治するために守護代が派遣されるわけですが――応仁の乱を契機に京を離れる守護が増え、そして彼ら守護たちが大名化していく(あるいは守護代が下剋上して大名化する)わけです。

一方で、戦国時代の終わりとは、新しい天下の趨勢が盤石なものとして確立され、もうどうにもならない状況になることを意味しているので、

1598年(慶長3年) 秀吉死去
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い
1603年(慶長8年) 家康の征夷大将軍就任
1614年(慶長19年)〜1615年(慶長20年) 大坂の陣
1615年(元和元年) 武家諸法度の発布

という前後約17年の間にゆるやかに確立していったと考えるのが妥当かなと。

ただし戦国時代=群雄割拠とするなら、1591年(天正19年)の奥羽再仕置によって豊臣秀吉が全国統一を果たしたことがひとつの区切りになると思います。
(これにより秀吉による全国的な政権樹立が完遂したとみなせるため)

まとめ

「戦国時代はいつからいつまでか」という質問は簡単なようでいて、正確に答えようとするとなかなかむずかしいということがわかっていただけたかと思います。
そもそも鎌倉時代から室町時代の間に建武の新政があったり、初期の室町時代と並行して南北朝時代があったり、時代区分というのはほんとにややこしいなとまとめながら感じました。

ただここで書いたように「なにをもって終わりとするか」という定義の部分について、みんなで自説を述べ合うのは楽しそうだなと思いました。
いつかそんなディスカッションの機会をつくってみたいですね。

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足利家の通字はなぜ初代「尊氏」に含まれない「義」なのか

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通字(とおりじ)というのは先祖代々、名前に受け継がれている文字のことです。
徳川家なら初代「家康」の「」の字が子や孫に継承されていますね。

ところが室町幕府の歴代将軍を整理していて「あれ、そういえば足利将軍家って初代・尊氏の『尊』でも『氏』でもなくなんで『』が通字なんだろう」と疑問に思ったので調べてみました。

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残念ながら尊氏本人がその理由を語った資料は見つからなかったのですが、おおむねこういうことらしいです。

  1. もともと足利氏は清和源氏の源義家を始祖とし、代々の当主は「」を通字にしていた
  2. 鎌倉時代、足利義氏北条泰時の娘を迎え、子に泰氏と名付けた
  3. 以降、鎌倉幕府の執権・北条氏から一字をもらい「」が通字になる
  4. 尊氏も北条高時から偏諱を賜り「高氏」と名乗っていた(のちに後醍醐天皇から「尊」の字を賜り改名)
  5. 足利氏の政権が確立したことを背景に一族の通字を本来の「」に戻した

このあたりは榎本先生にも聞いたのですが、足利氏は源氏一門の主流ではなかったということも大きく関係しているようです。
つまり当時は佐竹氏や甲斐武田氏のほうが主流であり、足利氏や新田氏は庶流だったのですが、足利氏は執権・北条氏と近づくことで(また北条氏側も源氏一門との関係を維持するために)一定の立場を確保してきました。

尊氏の父、足利貞氏は北条貞時から「貞」の字をもらってますし、最終的には「源氏嫡流」として公認してもらっています。その証拠に早世してしまった尊氏の兄は「高義」と名付けられており、じつは鎌倉時代の末期には北条氏の了解を得て「義」の字に戻そうとする動きもあったようです。
(高義の「高」の字はもちろん北条高時からもらったもの)

このあたりは歴史の皮肉というか、縁というしかないのですが、この高義が長生きしていればそのまま以降の足利氏の通字は「義」になっていたでしょうし、だけど鎌倉幕府の滅亡はもっとあとになっていたと思います。
鎌倉幕府の滅亡は戦の天才であり、またカリスマ性もあった尊氏によるところが大きく、高義の早世が結果として室町幕府誕生の遠因とも言えるかもしれません。

ともあれ尊氏の活躍によって鎌倉幕府は滅亡し、その後「建武の新政」を経て室町幕府が成立するわけですが、ここで通字を本来の「義」に戻し、息子に「義詮」と名付けた、ということのようです。
源氏の通字でもある「義」を使うことで、足利氏が武家の棟梁であることを周知する広報戦略にも利用したと考えられます。

源氏ブランドを使うのに通字は有効

ちなみに源氏の通字は義家・義朝の「義」や頼朝・頼家の「頼」で(平氏の通字は清盛・重盛の「盛」)、のちに徳川家康も自らの子どもに義直(尾張家)や頼宣(紀伊家)など「義」や「頼」の字を使っています。

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長男の信康は織田信長から、次男・秀康と三男・秀忠は豊臣秀吉から一字をもらっていますが、それ以降は自分が天下人となったので誰に遠慮することもなく源氏ブランドの通字を使ったのでしょう。
なお秀忠や忠輝・忠吉の「忠」の字は祖父・松平広忠からだそうで(家康も祖父の清康から「康」の字をもらっている)、もともと松平家は「忠」と「康」を交互に使っていたようです。

このように一族の通字と、権力者からの偏諱によって名前が決まることが多いため、中世の人名は同じような名前ばかりでおぼえにくいのですが(さらに改名も多いし!)、逆に言うと同じ権力者から一字もらっていることから同時代の人物であることがわかったりもします。
たとえば本多忠政・蒲生忠郷・京極忠高・加藤忠広・伊達忠宗など江戸時代初期の大名のほとんどに「忠」の字がついてますが、もちろんこれは2代将軍・徳川秀忠の偏諱によるもので、人名の情報量もなかなかのものですよね。

じつはこの将軍家の通字の話は編集でカットしたのですが、名前から縦のライン(=一族)と横のライン(=時の権力者)が見えてくる、ということを意識するとややこしい人名も少し興味が増してくるのではないでしょうか。


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征夷大将軍は源氏じゃなきゃなれないのか

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征夷大将軍に就任できるのは源氏のみという話を聞いたことがある方はけっこういらっしゃるんじゃないでしょうか。
ゆえに家康は将軍になれたとか、ゆえに秀吉は将軍じゃなく関白を選んだとか。
ただこれは結論からいうと正しくありません。

具体的な例を見ていきましょう。
まずは織田信長ですが、いわゆる「三職推任問題」において朝廷側から征夷大将軍・太政大臣・関白のうち、どれでも自由に選んでいいと提案されています。これは信長側から要求したという説もありますが、いずれにせよ平氏の子孫である(しかも信長の祖先は越前の神職である説もありその場合は武家ですらない)信長が征夷大将軍に就任すること自体に反対がなかったわけで、源氏でなければならないというルールに外れています。

信長の場合はけっきょく返答を保留し、どれも選ぶことのないまま「本能寺の変」で光秀に討たれたため、将軍になることはなかったのですが、この信長も秀吉も征夷大将軍になっていないということが「源氏でなきゃダメ」という誤解を生んだのかもしれません。

またこちらは事実として、最初の武家政権である鎌倉幕府では源氏以外の人物が将軍に就任しています。
摂関家の藤原家や、天皇の子どもである親王がそれぞれ摂家将軍、親王将軍として就任しており、さらには鎌倉幕府と室町幕府の間に成立した建武政権では後醍醐天皇の皇子である護良親王と成良親王が征夷大将軍に就任しています。
このように源氏以外の人間が将軍となった事例が存在しています。

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いつ頃から「征夷大将軍=源氏」という説が広まったのかはわからないのですが、事実の点から否定されることは知っておきたいですね。
というかそもそもぼくは鎌倉幕府において、3代・源実朝以降の征夷大将軍についての記憶がまったくなかったので、授業をちゃんと聞いていればこのような誤解は生まれなかったのかもしれません。

その鎌倉幕府の将軍についての話もふれてるので、ぜひお時間のあるときにでも見てみてください。


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戦国時代、最大規模の合戦は?

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戦国時代には数多くの合戦が日本各地で行われたわけですが、最大規模の合戦はどれだと思いますか?

たとえば「桶狭間の戦い(桶狭間合戦)」は、今川軍25000余騎、織田軍2500余騎で、合計すると27500人といったところです。
ちなみにこの数字には諸説ありまして、今川軍45000、織田軍5000、という説もありますが、いずれにせよ両軍あわせて3〜5万人が参加したということになります。

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『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画

大規模な合戦としてぱっと浮かぶのが「関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)」ですよね。
これは東軍(徳川軍)75000余騎、西軍(石田軍)80000余騎ということで、両軍あわせて15万5000人になります。こちらも諸説ありまして東軍は10万人を超えていたとする説もあるようです。
いずれにせよ15〜18万人くらいが、この文字どおり天下分け目の合戦に参加したことになります。
(中山道を進んだ秀忠隊3万8000人が上田城で足止めを食っていなければさらに増えていましたね)

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『関ヶ原合戦屏風』

関ヶ原の戦いより大規模な合戦はあるのか?

ではこの「関ケ原の戦い」よりも大規模な合戦はあったのでしょうか。

秀吉による北条攻め「小田原征伐」では、豊臣軍20万余騎、北条軍8万余騎と両軍あわせて28万人が参加する大合戦となっています。もっともほとんどの部隊は包囲に参加しただけで、槍を手に取り戦った人数となるともっと少ないと思いますけど。

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ちなみに秀吉が明智光秀をやぶった「山崎の戦い(山崎合戦)」では羽柴軍4万余騎、明智軍1万6000余騎と両軍あわせて5万6000人、柴田勝家をやぶって信長の後継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田軍3万余騎と両軍あわせて8万人とそれほど大規模ではありませんが、これは大名家同士の合戦だからでしょうね。
唯一、秀吉と家康が争った「小牧長久手の戦い(小牧長久手合戦)」は羽柴軍10万余騎、徳川軍3万余騎と両軍あわせて10万人をこえています。

家康といえば、秀吉亡き後の豊臣家との争いである「大坂の陣」がありますね。
大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10万余騎とあり、両軍あわせて30万人。これが今回調べた中では最大規模の合戦ということになります。
半年後の「大坂夏の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍5万余騎で、規模は小さくなっていますが、これはそのまま豊臣側の弱体化をあらわしているのでしょうね。

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『大坂夏の陣図屏風』右隻(大阪城天守閣所蔵)

今回紹介した合戦を表にまとめるとこうなります。

合戦名 規模(両軍の合計)
桶狭間の戦い 2万7500人
山崎の戦い 5万6000人
賤ヶ岳の戦い 8万人
小牧長久手の戦い 13万人
関ヶ原の戦い 15万5000人
大坂夏の陣 25万人
小田原征伐 28万人
大坂冬の陣 30万人

ほかにも朝鮮出兵では日本軍約16万人、明・朝鮮軍約25万人と40万人をこえる規模となっています。

時代が進むほど戦国大名の動員兵力が増え、合戦も大規模化していくわけですが、「関ヶ原の戦い」よりも「大坂の陣」のほうが倍近い規模というのは驚きました。

今回のデータはWikipediや書籍などを参考にしました。文中では途中から省略しましたが、すべての合戦の記録に諸説があるため、数千〜数万人規模での誤差があります。

ちなみに「応仁の乱」の規模は?

余談ですが、「応仁の乱」の規模についても調べたので紹介しておきますね。
『応仁記」が伝える京に集結した勢力は、東軍(細川派)が16万1500余騎、西軍(山名派)が11万6000余騎と、両軍あわせて約28万人による大規模な合戦でした。

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紙本著色真如堂縁起・下巻

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

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「桐紋」(きりもん)は現在、日本国政府の紋章としても使われていますが、もともとは皇室専用の家紋だったそうです。
しかし豊臣秀吉の家紋としてよく知られるように、じっさいには室町時代以降、多くの武将・大名家が桐紋の使用を許されました。そのため皇室が「菊紋」ばかりを使うようになったというのはそれはそれでおもしろい話ですが、今日は桐紋についてのお話です。

花の数で呼び名が変わる桐紋

桐紋というと、五三の桐、五七の桐が有名です。

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これは上図のとおり、花の数が3-5-3になっているのを「五三の桐(五三桐)」、5-7-5になっているのを「五七の桐」と呼んでいます。
(なぜ三五の桐や七五の桐と呼ばないのかは不明)

秀吉はもともと「沢瀉(おもだか)」の家紋を使っていたといわれていますが、織田信長から桐紋の使用を許されたため、以後は桐紋を使用しています。おそらく武家出身ではない秀吉は自らの家紋を持っていなかったので沢瀉紋も由緒があっての使用ではないと思うのですが、だからこそ桐紋を積極的に使用し、さらには独自にアレンジした「太閤桐」というデザインまでつくっています。

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太閤桐

また秀吉は関白就任後に「五七の桐」を使用するようになったといわれており、このことから信長から下賜されたのは「五三の桐」であることがわかります。
そして京都では大徳寺の唐門のように「五七の桐」の金具や彫刻があるものは聚楽第の遺構の可能性が高い目印にもなっています。

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大徳寺唐門(国宝)

有名な信長の肖像画にも桐紋が描かれています。
Wikipediaには「五七の桐花紋のついた裃を着た織田信長像」とありますが、五三の桐だと思います。もっとも信長の桐紋も足利将軍家(おそらく足利義昭)から下賜されたもので、それを秀吉に又貸しならぬ又下賜したわけですね。

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ちなみに戦国大名は家臣に家紋の使用を許可するといったことをわりとよくやっていて、信長もほかに「永楽銭(永楽通宝)」をマンガ「センゴク」でおなじみの仙石秀久に下賜したり、九曜紋を細川忠興に下賜したりしています。
その九曜紋を伊達政宗が忠興に使わせてくれと頼んだとか、家紋の授受や使用許諾の話だけでいろいろエピソードがありますが、それは別の機会に。

また秀吉が「太閤桐」という独自の桐紋を考案した背景に、桐紋を諸大名にばらまいてしまったためブランド価値が暴落したからという説もあり、家紋というものはその大名家の象徴であると同時に、必ずしも先祖代々ひとつのものを使い続けているわけではありませんでした。
たとえば政宗はメインとなる定紋の「仙台笹」以外にも「九曜」や「五七の桐」など7つの替紋を使っていたそうです。

トーハクの桃山展で「九七の桐」があった

このように桐紋=五三の桐・五七の桐くらいのイメージだったわけですが、東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」の展示物の中に「九七の桐」の釘隠しがありました。 

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細見美術館所蔵の「七宝九七桐紋釘隠(しっぽうくしちきりもんくぎかくし)」で、説明には聚楽第の遺構の可能性があるとのこと。

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図録より

七宝五七桐紋釘隠

二個
銅、鋳造、七宝、鍛金
各縦八・二 横八・四
江戸時代 十七世紀
京都·細見美術館

 桐紋をかたどった銅製の釘隠。一種は花の数が中九・脇各七の九七桐、他方は中七・脇各五の五七桐紋である。葉は葉脈を除いた地に魚々子(ななこ)を打ち、全体に鍍金(めっき)している。花と葉脈の部分には銅素地を彫りくぼめ青緑色の七宝釉を指す象嵌(ぞうがん)七宝が用いられている。細見美術館には、同種の九七桐紋を手培の蓋に転用した作品があり、その釘隠は豊臣秀吉が築造せしめた聚楽第の遺品と伝えている。
 東京国立博物館蔵の「聚楽第七宝釘隠図」一巻(明治時代 十九世紀)は、円形の五三桐紋の釘隠の図で 「七宝製釘隠」「方二寸九分」「聚楽亭舊地ヨリ出ヅ」と注記する。図では円の外縁と桐紋は黄色、内郭の地は薄緑色に塗られており、金銅と緑七宝を示しているとみられる。
 本桐紋釘隠は、形と七宝の施される部位は異なるが、金銅と緑七宝という組み合わせが、聚楽第七宝釘隠図にも通じる。ただし桐の花の数が五三から増え、形態も緊密にまとまっているなど、より時代の進んだ点も認められる。

図録の説明に「江戸時代 十七世紀」とあるので、聚楽第の遺構じゃないと断言しているのですが、これが聚楽第で使われた釘隠しかどうかの前に、そもそも「九七の桐」をはじめて見たので、少し調べてみました。
すると意外な、だけど納得の人物が出てきたのです。

「九七の桐」は足利義昭が使用していた

なんと足利義昭が亡命した鞆の浦(広島県福山市)にあった居館の瓦に「九七の桐」が入っていたそうです。たしかに福山市鞆の浦歴史民俗資料館のブログ記事には出土した「九七の桐」の瓦の写真が載っています。
さらに調べるとやはり鞆に流れてきた義昭が滞在した同市内の常国寺にも「九七の桐」が彫られた板があるそうです。また警固を担当した渡辺氏に下賜した胴肩衣(どうかたぎぬ)にも「九七の桐」が染め込まれているとか。

福山市鞆の浦歴史民俗資料館|展示と催し物 » Blog Archive » 足利義昭居城の瓦

足利義昭胴肩衣(あしかがよしあきどうかたぎぬ) 附肩衣之由来書 - 福山市ホームページ

少なくとも鞆幕府での義昭は「九七の桐」を使用していたことがわかります。
福山市鞆の浦歴史民俗資料館に「義昭はいつから使っているのか、あるいは義輝などその前から足利将軍家で使われていたのか」を問い合わせたところ、「義昭は鞆に来る前から使っていると思うが、いつからかについてはよくわからない」と回答をいただきました。

余談ですが、鞆の浦歴史民俗資料館では現在、特別展「鞆幕府 将軍足利義昭」を開催中です。

news.kojodan.jp

さらに五五の桐も!?

この話を攻城団で開催している「日本史の知識をアップデートするための勉強会」でしたところ、参加してくれた団員から清洲城で発掘された鬼瓦に金箔の桐紋があり、そこには5-5-5の花がある「五五の桐」が彫られているという情報が。
「九七の桐」につづいて「五五の桐」まで? とこちらも調べてみると、蓮華王院三十三間堂のところにある太閤塀に五五の桐の瓦があるという情報を発見しました。

せっかく京都に住んでいることだしと、見に行ったところたしかに「五五の桐」です。

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方広寺大仏殿は1595年(文禄4年)9月に完成しているので、おそらくこの頃に使われたのだと思います。
秀吉の関白就任は1585年(天正13年)、聚楽第完成は1587年(天正15年)で、1598年(慶長3年)に亡くなっているので、「五五の桐」は亡くなる直前に使われていたのかな。

花の部分が簡素化されたデザインになっているのは瓦に使用したからというのもあるでしょうが、太閤桐のデザインにも近いのでなにか関係があるのかもしれません。

現時点でこれ以上の情報はわかりませんでしたが、桐紋にこんなにバリエーションがあることに驚きました。
ぼくが知らないだけで、ほかにも秀吉にゆかりのあるお城や大名の遺品などに見たことのない桐紋がきっとあるのだと思います。もし情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えていただけるとうれしいです。

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

大河ドラマ「麒麟がくる」では三好家に暗殺された13代将軍・足利義輝の後継者として、足利義栄(よしひで)が14代征夷大将軍に就任しました。
しかし室町幕府の歴代将軍、とくにその後半にあたる戦国時代の将軍は有名すぎる戦国大名たちの影に隠れてしまってあまり知られてないですよね。義輝のほか、銀閣寺をつくり東山文化を築いた足利義政や、最後の将軍となった足利義昭の名前はパッと出てくるんですけど、それ以外の将軍の名前は教科書にもほとんど出てきません。
そこでざっくりではありますが、戦国時代の室町幕府で将軍職についた人たちについて紹介します。
(まあ前半も3代・足利義満のあとは知名度が低いのですが、こっちはまた別の機会にやります)

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戦国時代の足利将軍のプロフィール

9代将軍・足利義尚(よしひさ)

足利義政の子で、「応仁の乱」は彼が生まれたから起きたともいえます。もともと義政には実子がいなかったため、弟の義視(よしみ)を養子に迎えて将軍職を譲る予定でしたが、正室・日野富子が義尚を生んだため、将軍後継問題が発生し、それが畠山氏の家督争いや、細川勝元と山名宗全の権力争いとあいまって起こったのが「応仁の乱」です。
ともあれ、義尚は9歳で9代将軍に就任します。幼かったこともあり父・義政と母・富子らが政務をおこなっていましたが、成長するにつれて義尚は自分で政務を主導したいと考えるようになり親子の対立が生じます。
義尚は自分の影響力を強めるために、幕府を軽視した近江守護・六角氏を討伐することを宣言すると、これに呼応した諸大名や奉公衆の軍勢約2万を率いて近江に出陣します。京都から滋賀なので遠征というほどの距離ではないのですが、六角氏討伐は成功します。そして義尚は両親と距離をおくため、京に戻ることなく近江の陣所で政務をとっていましたが、次第に酒色に溺れるようになってそのまま25歳の若さで近江で亡くなります。

将軍不在期間

「麒麟がくる」でも義輝が暗殺されたあと、義栄が将軍に就任するまで空白期間がありますが、将軍死去にともなう交代時は後継者選びのためにしばしば空白期間が生まれています。
義尚の病死が1489年(長享3年)3月26日、つづく10代将軍の将軍職就任が1490年(延徳2年)7月5日なので、1年あまり将軍不在だったことがわかります。

10代将軍・足利義稙(よしたね)

義尚が亡くなったものの前将軍・義政が存命だったため政治的な混乱はさほどなかったようですが、その義政が1490年(延徳2年)正月に亡くなったため、次の将軍を早急に決める必要性が生まれました。
実質的に最高権力者になっていた日野富子が次の将軍に選んだのが足利義稙でした。彼は義尚と将軍職を争った義視の子で、因縁のある人物ではありますが、母親が富子の妹でもっとも血縁的に近い人物でもありました。このときは義材(よしき)と名乗っていました。
しかし義稙は幕府そして将軍の武威を示すために遠征を繰り返し、これが諸大名の反発を招きます。そのため富子や管領・細川政元は強引に将軍交代を実現します。これが「明応の政変」と呼ばれるクーデターで、「応仁の乱」ではなくこの事件以後を戦国時代と呼ぶ見解もあります。
なお、鎌倉・室町・江戸という武家政権において彼は唯一、将軍職を再任した人物ですが、そのことは後述します。

11代将軍・足利義澄(よしずみ)

幽閉された義稙(のちに脱走)に代わって将軍に擁立されたのが義澄です。
義澄の父は堀越公方・足利政知で、義澄も関東で生まれています。しかし堀越公方の後継者は異母兄の茶々丸に決まっていたため、幼少の頃から京に招かれ天龍寺香厳院の僧になっています。ちなみにこの茶々丸はのちに伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、堀越公方家は滅亡しています。
還俗して将軍についた義澄ですが、基本的には細川政元の傀儡でした。そのため「永正の錯乱」で政元が暗殺されるとスポンサーを失うこととなり、周防の大名・大内氏を味方につけた義稙の上洛を許し、義澄は京から近江に逃亡しました。
おもしろいのがこのとき義澄が頼ったのは義尚や義稙が討伐した六角氏で、「敵の敵は味方」みたいなことがよくありました。義澄はその後も京への復帰を目指しますが叶うことなく病死し、ふたりの息子が播磨の赤松氏と阿波の細川氏に引き取られています。

足利義稙の将軍職再任

上洛を果たした義稙は将軍職に再任します。京を追われてから15年、43歳での復帰となりました。
前回クーデターを起こされた反省もあり、義稙も10年ほどはおとなしくしていたのですが、畿内最大の実力者であった管領・細川高国と対立したため、義稙は京から堺に逃げます。義稙はその後も再起を図りますが、最終的に阿波で死去しました。

12代将軍・足利義晴(よしはる)

父の宿敵であった義稙に代わって擁立されたのが当時11歳の足利義晴です。
義澄の子のうち、赤松氏に預けられたのが義晴でした。もうひとりの義維(よしつな)は高国のライバルである阿波守護・細川晴元のもとにいたので義晴が選ばれたようです。
しかし将軍職を狙う弟・義維と、それを支援する晴元が何度も京に攻め込み、高国が敗れるたびに義晴も京を追われて近江に逃げています。最終的に高国は晴元によって滅ぼされるのですが、義晴は晴元と和睦して将軍職の継続を模索します。晴元にとっても細川京兆家の家督と管領職が手に入れば、将軍が誰でもよかったのかもしれません。ちなみに近江亡命中も幕府としては存続しており、この数年間を「近江幕府」と呼ぶそうです。
京に復帰した義晴ですが、今度は晴元が家臣の三好長慶と対立し京を追われると、晴元を指示していた義晴も京にいられなくなり、また近江に逃亡します。義晴は京都奪還を目指し、銀閣寺の裏山に中尾城を築きましたが、過労がたたったのか病死しています。

13代将軍・足利義輝(よしてる)

義晴の嫡男・義輝はわずか11歳で将軍職を父から譲られていますが、将軍宣下は近江坂本でおこなわれています。
「麒麟がくる」でも語られていたように、義輝は子どもの頃から父とともに京への復帰と近江(坂本や朽木)への逃亡を繰り返しました。
義輝は仇敵である三好長慶を倒すために画策します。中尾城の戦いで敗れ、暗殺にも失敗し、さらに霊山城での戦いにも敗れたため、近江朽木谷に逃れました。このあたりがドラマで描かれた朽木谷での話です。
その後、長慶と和睦した義輝は京に復帰すると、長慶と協調路線をとり、同時に大名間の争いの仲裁をしたり、偏諱を与えるなど将軍権力の強化を図っています。
しかし好転しはじめた矢先に長慶が死去すると、弱体化した三好家の脅威となってしまった義輝は殺害されます。これを「永禄の変」といいます。ただし当初から暗殺を目的としたかどうかについては定かではなく(じっさい将軍殺害は諸大名を敵に回すリスクも大きい)、ドラマのとおり、京から追い払う、あるいは将軍職を退かせるだけの予定だったという説もあります。

14代将軍・足利義栄(よしひで)

義栄の父は足利義維で、かつて義晴と将軍職を争った人物です。義維自身は将軍になることはできなかったのですが、子どもが将軍の座につくことになります。
義輝殺害が1565年(永禄8年)5月19日、義栄の将軍就任が1568年(永禄11年)2月8日なので、ここでも3年弱の空白期間が生じています。
将軍に就任したものの、擁立した三好家内部の抗争(三人衆と松永久秀の争い)がおさまらなかったこともあり、義栄は京に入ることができず、そのまま将軍宣下を受けた摂津富田にとどまっていました。そして同年9月には足利義昭を奉じた織田信長の軍勢が上洛すると、まもなく義栄は病死しています。ただし亡くなった日も場所も諸説あり、将軍の最後が明らかでないというあたりに、この当時の混乱ぶりが象徴されています。

15代将軍・足利義昭(よしあき)

義昭は義輝の弟で、奈良の興福寺一乗院で僧となっていました。
義輝が殺害されると後継候補だった義昭(この時点では還俗前なので覚慶と名乗っていた)は幽閉されますが、細川藤孝らによって救出され、近江、若狭、そして越前へと亡命しています。
最終的には織田信長を頼り上洛を果たすと、義栄が死去したこともあり、征夷大将軍に就任しています。当初は信長を父と呼ぶほど蜜月の関係にあった両者でしたが、次第に対立することになり、ついに義昭は挙兵します。しかし信長に敗れると京から追放されます。
義昭は河内や紀伊に逃れて、その後も「信長包囲網」を画策しますが連携不足で各個撃破されると、毛利輝元を頼って亡命します。信長討伐と再上洛を目指したさなかの1582年(天正10年)、信長が「本能寺の変」で倒れると義昭は上洛を目指しますが、それが叶ったのは1587年(天正15年)のことで、すでに天下は豊臣秀吉のものとなっていました。翌年1月、義昭は将軍職を辞したのちに出家し、10年ほどの余生を過ごしています。
幼少より僧として育てられた義昭は最後もまた僧として死んだことになります。

まとめ

現在の教科書でも信長が義昭を京から追放した1573年(元亀4年)を室町幕府の滅亡としています。
しかし過去に「明応の政変」で将軍職を解任され、周防に逃れた義稙がのちに京への復帰と将軍再任を果たしているように、義昭が京都に復帰する可能性は当時も考えられていたようです。じっさい義昭自身も将軍として全国の大名に御内書(=将軍が発給した私文書のこと)を出しており、12代・義晴の「近江幕府」のように「鞆幕府」として存続していたとする説もあります。
幕府の本拠がどこにあったのかという問題と、朝廷に任じられた将軍職の就任期間の問題をわけて考えると、室町幕府の終了年は義昭が将軍職を辞任した1588年(天正16年)ともいえます。

ともあれ「応仁の乱」の最中に就任した9代・義尚から15代・義昭まで、戦国時代においても足利将軍が、ときに畿内の実力者の傀儡として、ときに彼らに抵抗して争いながらも、武家社会の中心であったことはまちがいなく、それは将軍という権威や人脈が戦国大名にとって有益な存在だったからでした。
武家の棟梁としてひとつにまとめるための将軍の存在が、戦乱の世で武家同士が相争う状況であるがゆえに価値が高まるというのも皮肉な話ですが、信長そして秀吉によって国内がひとつにまとまりはじめるとその価値が暴落することとなり、やがて不要になりました。

ほんとうは将軍に味方した大名、敵対した大名、将軍が偏諱を与えた大名など、将軍と各大名の関係なども書きたかったのですが、今回はざっくり理解することを優先したため、なるだけ将軍以外の個人名は少なくして紹介することを心がけました。
まずはこの将軍家の家系図と個々人のエピソードとおおまかな流れを理解してもらえるとうれしいです。

参考書籍

とはいえぼくもまだまだ勉強中で、とくに今回は以下の書籍に助けられました。
とくに足利義政が将軍職を義尚に譲ったあとも政務に口を出しつづけていたというのは知りませんでした。義政というと政治に無関心で将軍職を放り投げると趣味(文化・芸術)の世界に生きた人という印象が強かったのですが、引退後も政治に積極的にかかわっていたようです。

そのほかいろいろとおもしろい話が書いてあるので、ざっくりじゃなくもうちょっとちゃんと理解したいという方はぜひお読みください。

戦国期足利将軍研究の最前線

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図説 室町幕府

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以下は読んでないのですが、きっと参考になると思います。 

戦国時代の足利将軍 (歴史文化ライブラリー)

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室町幕府分裂と畿内近国の胎動 (列島の戦国史)

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Amazonの検索結果 [室町幕府] | 攻城団

江戸城での控室は家格によってちがうらしい

江戸時代、将軍に拝謁するために登城した大名たちは、まず玄関から遠侍に通され、そこから大名の家格に応じた控えの間(殿席)へ案内されます。「伺候席(しこうせき)」ともいいます。
殿席は以下のようにわけられており、通称「松の廊下」とも呼ばれる「大廊下」はさらに上下にわかれていました。大広間も二の間と三の間の区別があったようです。

諸大名の殿席区分

詰所 説明
大廊下 将軍家の親族(御三家、御家門)、加賀前田家。
溜の間 会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家のみ代々で、それ以外は一代かぎり。幕府の政治顧問を担う少数の有力譜代大名。
大広間 国持大名(国主)および准国持大名(准国主)、四品以上の官位を持つ親藩および外様大名。
帝鑑の間 「譜代席」とも呼ばれ、この部屋に詰める大名が譜代大名。ただし真田家など外様でもこの席に移った大名もいる。
柳の間 五位および無官の外様大名。交代寄合や高家などの旗本も。
雁の間 幕府成立後に新規に取立てられた城主大名。
菊の間 幕府成立後に新規に取立てられた無城大名(陣屋大名)。

じっさいにどの部屋にどのくらいの大名が割り当てられていたのかについては『図解 江戸城をよむ』(深井雅海、原書房)に表が記載されています。
(松尾美恵子氏の論文「大名の殿席と家格」から作成)

大名の席別家数の比較

  1773年(安永2年) 1835年(天保6年)
大廊下 3(1.1%) 10(3.7%)
溜の間 4(1.5%) 9(3.4%)
大広間 29(11.0%) 29(10.9%)
帝鑑の間 65(24.7%) 63(23.7%)
柳の間 78(29.7%) 79(29.7%)
雁の間 38(14.5%) 43(16.2%)
菊の間 30(11.4%) 33(12.4%)
記載なし 16(6.1%)  
合計 263家 266家

部屋の面積が固定されていることもあり、おおよその人数は決まっているものの、大名の出世などにより部屋の移動もあったことがわかります。

次に「江戸城御本丸御表御中奥御殿向総絵図」(都立中央図書館特別文庫室所蔵)をお借りすることができたので、それぞれの部屋の位置を確認してみましょう。

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該当部分を拡大します。御殿の玄関は左下にあります。
玄関を入ったところは二条城二の丸御殿と同じように「遠侍」となっていますね。

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将軍が控えている「中奥」にもっとも近かったのは黒書院「溜の間(たまりのま)」で有力譜代大名たちが詰めていました。その次が黒書院と白書院の間に位置する「雁の間」と「菊の間」でここにはあらたに取り立てられた譜代大名が詰めていました。
さらに老中資格のある譜代大名は白書院「帝鑑の間(ていかんのま)」に詰めており、これら4つの部屋が譜代大名が詰めていた殿席です。

「大廊下」には御三家や御三卿といったいわゆる親藩大名が「上之部屋」に、加賀前田家や越前松平家などが「下之部屋」に詰めていました。
そして御三家以外の親藩大名と有力外様大名は玄関に近い「大広間」に、その他の外様大名たちは大広間と白書院の間に位置する「柳の間」が殿席となっていました。

登城した大名たちは坊主衆(ぼうずしゅう)と呼ばれる武家の子息におのおのの殿席まで案内され、そこで待機して、将軍に拝謁する時間が近づくとそれぞれの謁見の間(礼席)へ移動しました。
礼席も家格と行事によって異なり、たとえば大廊下詰めの大名の場合は年始・八朔・五節句の時は白書院、月次登城は黒書院で拝謁し、大広間詰めの大名の場合は年始・八朔・五節句は大広間、月次は白書院が使用されたそうです。

なお二条城二の丸御殿では白書院のほうが奥にあり、江戸城と位置が逆ですが、色に上下を示す意味はありません。
(そもそも二条城では江戸時代、白書院を「御座の間」と呼んでいたとか)

江戸城の本丸御殿はいまぼくらがその広さを体感できる二条城二の丸御殿や、(復元ですが)名古屋城本丸御殿と比べても巨大すぎるので、大名たちは登城の際に御殿内で迷子にならないように各部屋の間取りが記された見取り図を持ち歩いていたそうです。
二条城二の丸御殿の大広間は223.5畳ですが、江戸城本丸御殿の大広間は490畳と倍以上の大きさでしたし、部屋数も桁違いでした。しかも同じような部屋ばかりだからか、障壁画の題材などがメモされていて、絵を見て自分がどこにいるかを把握したとか。

いまの江戸城本丸御殿跡は芝生の広場になっていますが、おおよその位置は松の廊下跡の石碑や「大江戸今昔めぐり」などのアプリで確認できますので、玄関からそれぞれの殿席までの距離を歩いて確認することもできますね。

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コロナ終息後には攻城団でもまた江戸城ガイドツアーをやれたらいいですね。
とくに次回はこうした当時のしきたりについても学べる機会にできたら楽しそうだなと考えています。

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「氏」と「家」のちがい、武家の広がりについての基礎知識

みなさんは「織田氏」と「織田家」のちがいをきちんと説明できますか?
ぼく自身なんとなく「氏」というのは大きなくくりで、「家」はもっと小さな単位であるということは理解していましたが、誰かに説明できるほどはわかっていませんでした。そもそも攻城団のサイト内でも「氏」と「家」は混在していて、とても正確に使用できているとはいえません。
そこでどういう経緯で、このふたつの言葉(くくり)が生まれたのかを学んでみました。

すごくざっくりまとめると

まずおおまかに整理すると、こんな感じです。

  • 平安時代までは「通い婚(妻問婚=男から女への通い婚)」だったので「家族」の概念がなかった
  • なので源氏や平氏など「氏族」という枠組みのみ存在していた(いわゆる「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」で、のちに豊臣が加わる)
  • 平安時代に武士が生まれて以降、共同体としての「家族=家」の概念が生まれていく
  • 氏族が細分化され、家族ごとの単位で行動するようになる(源氏→武田家・足利家・新田家……)
  • その家族の規模が大きくなると、さらに細分化されていく(武田家→若狭武田家・甲斐武田家……)
  • もとの家族が氏族化していく(武田家→武田氏)

組織図でいうと、最小単位が「家」で、「家」を束ねれば「氏」、それ以上は仮に複数の「氏」を束ねても「氏」になるということです。

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まさか通い婚の話からはじまるとは思ってませんでしたが、「家族」という概念や集団が生まれていくのは、武士の誕生とシンクロしているというのはおもしろいです。
少し詳しく書くともともと貴族(公家社会)では「婿取婚(むことりこん)」という妻の家に夫が同居する形式が生まれていったものの、武士は土地を離れることができなかったために逆に妻が夫の家に同居する「嫁取婚(よめとりこん)」が武家社会では主流とならざるを得なかったそうです。

この土地とセットになっているというのもポイントで、武士は自分が与えられ、開発した土地を自分の子らに分与し、子どもたちは与えられた土地の名を名乗るとともにあらたに家を立ち上げました。たとえば下野国足利荘を領地としたから足利氏を名乗ったように、武家の家名(苗字=名字)の多くは本貫地の地名に由来しています。
もともとは足利「家」を名乗っていたのが、吉良氏や斯波氏、細川氏などの分家が生まれていくと氏族化して足利「氏」となります。下の階層ができると「氏」に格上げされるわけですね。

こう考えると「氏」と「家」はタイミングによってはどちらも存在していたわけで、必ずしもまちがいではありません。逆にいうとどちらで記述するかで、その時期がある程度限定されるともいえます。

もうちょっと補足

もう少し整理すると、血縁者の集団を「氏族」、そのうち日常的に生活・行動をともにする集団を「家族」と区別することができます。
「源平合戦」が【平家】と【源氏】の戦いといわれるのもこのあたりに起因していて、つまりあくまでも平「家」であって、平「氏」ではないのは平氏が分裂して、平家(=平清盛の家族)が孤立して攻められる対象となったからです。じっさい北条家も三浦家も平氏の一族ですが、すでに苗字を使用しており、反平家連合軍として源氏に味方しています。

余談ですが、「源家」を聞くことがないのは「保元・平治の乱」で源氏が敗れたために一族が離散し、平家のような大きな集団(家族共同体)が生まれなかったからです。もし源頼朝が兄弟や叔父を討伐せず、一族としてまとまることができれば源家と呼ばれていたでしょう。

「家」と「氏」の具体例を織田信長で説明します。
信長は「織田弾正忠家」で、清洲三奉行をつとめたほかの2家(織田因幡守家、織田藤左衛門家)と同列です。その一つ上が「清洲織田氏(織田大和守家)」で、さらにそれを束ねた「織田氏」があって、さらに「桓武平氏」があって、最上位(本性)に「平氏」があります。
(織田氏は藤原氏系の話もあるけどもややこしくなるのでここでは割愛)

このように鎌倉時代、室町時代と武家社会が定着する過程で、分家・独立によって武家はどんどん細分化していきます。
そして枝分かれしていった武家のうち、ある家は戦国大名化し、またある家はその家臣となって乱世を生き抜くことになる(あるいは滅亡したり帰農したりする)わけですが、「関ヶ原の戦い」をこえて大名として生き残ることができたのが江戸時代の大名家です。
ちなみに江戸時代にも分家は生まれています。徳川将軍家における御三家を真似て、宗家が断絶しないように嫡男を宗家の世継ぎにしつつ、弟を分家として独立させ支藩を設立しています。

攻城団では今後、江戸時代の大名家や500以上あったとされる藩のデータベース化を進めていく予定です。
その初手として、来週から榎本秋先生の著書「外様大名40家」の再編集版をこのブログに掲載していきますので楽しみにしていてくださいね。

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

二条城で起きたイベントとしてもっとも有名なのは大政奉還だと思いますが、多くの人が誤解していることがあります。

以下の絵は教科書にもよく出てくる「大政奉還図」(邨田丹陵筆)ですが、これは慶喜が在京諸藩の重臣を前に「(徳川幕府を終わらせて)大政奉還するから」と伝えているシーンですが、どこがまちがっているかわかりますか?

舞台は大広間ではなく黒書院?

二条城を訪問したことがある方であれば、この部屋が「大広間」ではなく「黒書院」だと気づくのではないでしょうか。
大広間には狩野探幽が描いた巨大な松の絵が床の間だけでなく両脇にも描かれていますが、この絵には桜が描いてあります。これは探幽の弟、狩野尚信が描いた「桜花雉子図」です。違い棚が直角に備え付けられていることや、一の間と二の間の幅がズレていることなども黒書院だと特定できるポイントです。

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上の図面のとおり、黒書院は対面で使用する一の間と二の間をあわせても56畳で大広間の92畳と比べるとひとまわり小さいので、これだけの人数を収容することはむずかしいと思います。また親しい人との対面所として使われていたので、奥行きもこんなにありません。
では部屋を描きまちがえただけかというと、そういうことでもないのです。

大広間で諸侯に伝えたのは慶喜ではなく、老中・板倉勝静(かつきよ)

大政奉還がおこなわれた一連の流れを時系列に沿って整理するとこうなります。
(この詳細年表は「二条城の歴史」のページにあります)

1867年(慶応3年)
  • 10月11日、幕府、大政奉還に先立ち、諸藩に13日の登城を命じる。
  • 10月12日、慶喜、松平容保、松平定敬ら在京有司を二条城に召見し、大政奉還の意思を伝える。
  • 10月13日、二条城大広間に在京十万石以上の諸藩重臣を召集し、老中より大政奉還決意書を示して諮問し、かつその藩主の上京を命じる。鹿児島藩士・小松帯刀、高知藩士・後藤象二郎、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵、とくに慶喜に拝謁して、ただちに奏請せんことを勧説する。
  • 10月14日、大政奉還上表(15日、勅許)。
  • 10月16日、幕府、在京十万石以上の諸藩重臣、旗本を二条城に召し、大政奉還勅許を示達する。
  • 10月17日、幕府、在京十万石以下の諸藩重臣を二条城に召し、各藩主の早々の上京を命じる。

つまり事実としては

  • 12日に「黒書院」で慶喜が松平容保、松平定敬らに大政奉還の意思を伝える
  • 13日に老中・板倉勝静が「大広間」で在京諸藩重臣に伝える。ただしその際に「意見のある者だけ残れ」として小松帯刀や後藤象二郎ら6名が残り、慶喜に拝謁(おそらく慶喜がこのとき大広間に出てきたと思われる)
  • 14日に奏上して、15日に勅許

ということです。
仏教大学の青山忠正先生が越後新発田藩の家臣の家に伝わる「寺田家文書」をもとに裏とりをされてますね。青山先生は「大政奉還図」は12日の様子(身内に伝えたシーン)を描いているとおっしゃってますが、12日に集まった人数はこんなに多かったのかはわかりません。

ちなみに五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)が描いた「明治天皇御紀附図稿本」には大広間で慶喜が小松帯刀ら4人と話しているシーンが描いてあり、宮内庁宮内公文書館で公開されています。
この絵の元になったのが「意見のある者だけ残れ」で残った6名と慶喜との会話のシーンだと思われます。ここで小松帯刀らが「早く返上しましょう」と進言しています。

明治天皇御紀附図稿本 巻1

明治天皇御紀附図稿本 巻1 - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム

余談ですが宮内公文書館の画像はこうして利用することができます。

つまり冒頭の問題の答えは以下となります。

  1. 舞台が大広間ではなく黒書院になっている
  2. 慶喜自身が大勢の諸侯の前で大政奉還の意向を直接伝えたわけではない

部屋のちがいはさておき、教科書に載っていたあの絵のインパクトが強すぎて、すっかり慶喜が大広間に集められた在京諸藩の重臣たちに直接伝えたと思っていましたが、事実は少しちがっていたことがわかりました。

とはいえ二条城の大広間には人形があるよね……?

そうなんです。
事実は上記のとおりなんですけど、現在の二条城の二の丸御殿大広間にはいかにも大政奉還のシーンを思わせる人形が置かれているし、公式サイトにも

1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。

二条城の概要 | 二条城 世界遺産・元離宮二条城

と書いてあって、慶喜が大広間で諸侯に伝えたことになってます。
たしかに老中が伝えているシーンを再現してもいまいち画として弱いですし、かといって黒書院で「大政奉還図」を再現すると部屋が狭いので窮屈な感じになりますが、事実と異なるのであれば直したほうがいいですね。

もしかしたら二条城としては大広間で慶喜が直接諸侯に伝えたという説を採用しているのかもしれませんので、機会があったら聞いてみたいと思います。

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軒丸瓦にある「巴紋」は火の用心らしい

お寺や神社をめぐっていると、やたら「巴紋」それも「三つ巴紋」が軒丸瓦に使われているのを目にします。
たとえば八坂神社では「木瓜紋(五瓜に唐花)」と「左三つ巴紋」というふたつの神紋があるので、巴紋が使われていても不思議ではないのですが、とくに宗派とかも関係なくあります。

これは下鴨神社の写真です。

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調べてみると、この巴紋は水が渦を巻いているように見えることから「防火」や「火の用心」を意味するようになったそうです。
鯱とか懸魚(げぎょ)、摩伽羅魚(まからうお)と同じような位置づけですね。

京都では古来からとくに火事が多かったこともあり、平安末期頃から火災除けとして使われるようになったそうです。
(その後も何度も「大火」と呼ばれる火事が起きているのですが)

八坂神社の巴紋については武神である八幡神の神紋だそうです。
なお三つ巴紋の左右については逆に書いてる資料もけっこうあるのでよくわからないんですが、「八坂神社は左三つ巴紋」というのを是とすると以下のようになります。

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ほかにも「三つ巴」の巴はそれぞれ「前世」「現世」「来世」を表しているとか、いろんな解釈があるのですが、お寺や神社でやたら見かけるのは火除けの願掛け(もしくは八幡宮系)ということでまちがいなさそうです。

戦国時代にはサラブレッドはいなかった?

いよいよ大河ドラマ『軍師官兵衛』がはじまりましたね。
(いくら時代考証をしているとはいえ)大河ドラマには演出上、事実じゃない表現も多々あるわけですが、よく指摘されるのが「戦国時代にはサラブレッドはいなかった」という話ですね。

『軍師官兵衛』でも岡田准一くん演じる黒田官兵衛が颯爽と馬に乗ってましたね。
(なんでも岡田くんはいつかのためにと前々から乗馬を習ってたそうですね)

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戦国時代の馬は、いわゆる「木曽馬(きそうま)」と呼ばれる日本在来種の馬です。
一時期は絶滅寸前だったそうですが、木曽馬保存会を中心に活動したおかげで、現在は200頭ほどが長野県や岐阜県で飼育されているそうです。
(日本在来馬といっても、もともとは蒙古の大陸系の馬です)

木曽駒 1

この木曽馬の見た目はポニーに似ていて、背が低くて短足というシルエットなので騎乗してもあまりカッコよくないので、どうしても時代劇ではサラブレッドが使われるのでしょう。
そもそも頭数が少ないというのがいちばんの理由でしょうけどね。

ただ、木曽馬がサラブレッドより秀でた点もあったそうです。
木曽馬は傾斜の強い山道など、険しい道を進む能力に優れていたり、走る際の揺れが小さく上下動が少ないので、馬上での動きが安定したという話をむかし「所さんの目がテン!」というテレビ番組で紹介してました。

戦国時代は移動の多くが山道ですし、馬上で刀や槍をもって戦うわけですから、木曽馬が活躍したのもうなづけるのですが、やっぱりドラマの中ではサラブレッドのカッコよさを優先するのもわかりますね。

さらにいうと別にポニーのようだから足が遅いかというとそうでもなく、最高時速は40kmくらいあったらしく戦闘に使っても十分すぎる驚異だったようです。

[追記]
今回の『軍師官兵衛』でも時代考証を担当されている小和田先生の本です。

時代劇のウソについてツッコミを入れた本も何冊か出てますが、時代考証というのは100%正確にコントロールすることじゃなく、「どう考えてもウソ」というのを避けることだとぼくは思います。
正しいけれどおもしろくないというドラマより、若干ウソが混ざっててもおもしろいドラマのほうがいいですしね。

庶民の花見は徳川吉宗の時代からはじまった

いよいよ全国でお花見がはじまってますが、そもそもこうした花見の風習はいつ頃はじまったのでしょうか。

現在の花見の風習は、8代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」の一環として、隅田川堤(向島)や飛鳥山(王子)、御殿山(品川)などにサクラを植樹して、さらには花見客用の飲食店までつくらせて、庶民の花見を奨励したのがはじまりといわれています。
なんと徳川吉宗だったんですね。暴れん坊将軍です。

「享保の改革」は米価や物価の安定政策、貨幣政策のほか、町火消しの創設や目安箱の設置などが教科書によく出てくる施策ですが(小石川養生所をつくったとかね)、たとえば隅田川堤のサクラは治水対策として植えさせたそうです。花見で人が集まって、川岸の地面が踏み固められると。誰の提案か知りませんが、めちゃくちゃ頭がいいですね。

また鷹狩場に指定されていた飛鳥山を娯楽の場として整備して、庶民が安心して花見ができる場所として開放したそうです。ある種の治安対策ですね。吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行ったという記録も残っているので、この施策にかなり積極的に取り組まれたことがよくわかりますね。

ちなみに吉宗がこうしてサクラを植樹して、花見を奨励するまでは、江戸のサクラといえば寛永寺程度しかなかったそうです。この寛永寺は、3代将軍家光が上野に建てたお寺で、ここに吉野の桜を移植したんですね。

吉宗は破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君のひとりとの評価される一方で、増税政策によって百姓一揆の頻発を招いたという事実もあります。

作家の井沢元彦さんは『逆説の日本史』の中で「吉宗は名君である点も多分にあるが、経済に関しては全くの暗君だった」と指摘されています。その反面、経済重視政策を推し進めながら「賄賂政治」を行なったとして悪名高い田沼意次の再評価をしていて、このあたりはみなもと太郎さんの歴史観と同じですね。
おもしろそうなので読んでみようと思います。

近江と遠江の由来

近江と遠江。戦国時代にはよく出てくる国名ですが、もちろんこのふたつは名前が似てるだけあって、無関係ではありません。

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まずは、近江の由来について。

「近江」の名称と由来
近江国は、当初は「淡海(あはうみ、あふみ)」と書き、「近淡海(ちかつあはうみ)」とも呼んだ。『古事記』にも「近つ淡海国」「淡海国」「近淡海国」と記載されている。これらは、当時の琵琶湖の呼称をそのまま国名にしたものである。飛鳥京から藤原宮時代の木簡(大化の改新から律令制までの間)には近江国は「近水海」と記載されている。また「近淡」(海は缺損か)と記載するものもある。

一方の遠江の由来はこちら。

「遠江」の名称と由来
古くは「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記した。遠淡海は、一般的に浜名湖を指すと言う。(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。)都(大和国)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となった。

近いか遠いかは当時の都である奈良(大和)からの位置関係であり、いずれも淡海(淡水湖)である琵琶湖と浜名湖(または磐田湖)を指してつけられた国名のようです。
なるほど、シンプルでじつにわかりやすいです(遠江の由来は浜名湖ではなく磐田湖を指すという異説もあるそうです)。

ちなみに現在の浜名湖は海と直結してるような形状となっていますが、これは1498年(明応7年)に起きた明応地震で陸地部分が決壊して消滅したためで、命名された当時はもっとはっきりした湖だったようです。
なお決壊して海に出やすくなったことで、気賀など浜名湖畔の町が海運による交易拠点として栄えたことは「おんな城主 直虎」でもやってましたね。

廃藩置県でそれぞれ滋賀県、静岡県に

明治維新を迎え、廃藩置県が行われると、近江国は大津県と長浜県になって、さらに大津県が滋賀県に、長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、さらにさらに両県が合併して滋賀県となります。

遠江国のほうは浜松県となって、さらに静岡県(旧駿河国)や足柄県の一部(旧伊豆国)と合併していまの静岡県になります。

こういう旧国名の由来も調べていくとおもしろそうですね。
近江のお城、遠江のお城、についてはこちらから調べることができます。

攻城団 | 近江のお城一覧

攻城団 | 遠江のお城一覧

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