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【戦国軍師入門】1.戦国軍師とは何者か?

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軍師、と言われてまず最初に連想されるのはどんな人物だろうか? 本陣にいながら戦場の様子を全て把握し、様々な策略を練って味方の戦力を倍に、敵の戦力を半減させ、時には超常的な術まで使って不可能を可能にする――例えば『三国志演義』に登場する諸葛亮のような、天才的な策略家のイメージが強いのではないだろうか。
たしかに日本の戦国時代に活躍した軍師たちも、軍学に基づいて様々な作戦を立案し、合戦の最中には兵の動かし方やそのタイミング、敵の思惑について主君に進言する役割を担っていた。

しかし、実は彼らには作戦を考えるよりももっと大きな仕事があった。
「戦争は始まる前に終わっている」という言葉がある。戦場で実際に兵士と兵士が対峙するより前に、兵力の確保や物資の充実、敵側戦力の切り崩しといった前工作が終わっていて、戦場での動きではこうした差はなかなか取り返せない、という意味だ。そして、こうした事前の工作こそが、戦国時代の軍師たちの大きな役割だった。

中でも、敵側戦力を削っていくのは彼らの最大の見せ場と言ってもいいだろう。ある時は有力な敵武将に自ら接触して味方側に引きずり込み、またある時は兵糧攻めなどの作戦を計画して敵兵の士気を失わせ、より犠牲が少なく敵を倒せるように準備を整えていくのだ。

この他にも、味方側の士気を高めたり、自分たちに有利な場所に相手を誘い込んだりと合戦前にできることはたくさんある。また、築城や工事といった専門的な技術を見込まれて軍師となるものもいたようだ。城を攻める際にも、自分の領地を守る際にもこうした技術は必須だったから、技術を持っている者たちはスペシャリストとして大いに厚遇されたのである。

そして、こうした軍師たちの活躍のバックボーンにあるのは、戦国時代における武士勢力のあり方と合戦の仕組みそのものだった。ここから見ていくのはそうした戦国時代の構造についてだ。

半農半兵だった戦国武士

軍師が所属していた戦国時代の各勢力の構造はどうなっていたのだろうか?
時代劇などのイメージからすると幕府を頂点に大名と旗本がいて、武士たちもその上位者に絶対の忠誠を誓っている、というイメージがあるかもしれない。また、士農工商という身分制度が伝わっているように、身分もきちんと固まっていたと思うかもしれない。

しかし、実際は違った。戦国時代にはまだ明確に武士と農民の身分が分かれていなかったのだ。当時の農村の農民というのは、戦争の際にはイコール兵士だった。そして、その村を束ねる村長的なポジションにいる人物がその部隊の長となるのだ。そして、そうした村をいくつも支配している人物が豪族などといわれて力を持っていた。その豪族こそが、武士だったのである。

つまり、当時の武士とは各農村の支配者であり、いわば地元の小勢力ともいうべき存在だったのだ。彼らは、一族やその家臣団で一定地域を支配し、その支配権を大名に認めてもらっていた。そしてそのお礼として、拠点の警備などの軍役を果たしたのである。

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また、通常の軍役ではなく、合戦に参加することは彼らにとっても大きなメリットであった。合戦で手柄を立てれば、恩賞として新たな支配地を与えられる可能性があったからだ。しかも、そうして新しい領地を得なくてはいけない事情もまたある。

当時は戦乱の世であり、医療技術の問題や事故などで生まれた子供が死ぬことも多かったから、一族を残すためにたくさんの子供を作らなくてはいけない。しかし、跡取り以外は与えられるだけの土地がない状況も当然ながら起きてしまう。そのためにも、合戦で活躍して今の領地を広げたり、次男以下が新規取り立てで家を興すことが必要になってくるのだ。

もっとも、農民である以上、平時は農業にいそしんでおり、当時は農繁期には軍団を動かせないのが常識だった。豪族が「今が好機だ!」と思っても、季節によっては兵士たちが農作業をしているために動員できないのだ。もちろん、何度かは無理して動員できても、それをやればやるほど農地が荒れていき、当時の収入の根源である農作物の収入が減っていくから、そうそう無茶もできなかったのだ。

さらに、そういう状況だったから、当時の城の周りには必ずしも城下町が形成されていたわけではなく、武士たちは自分たちの支配地に屋敷を構えて、大名から命令が下ると農民を動員して三々五々集合地に向かうという構造だったのだ。

こうした構造に風穴を開けた中で代表として名前が上がるのが織田信長だ。彼は武士たちを農村から引き離し、自分の居城の近くに住まわせた。さらに、専業の兵士を導入し、自在に軍団を動かせるようになった……いわゆる兵農分離説である。
このような構造改革は多くの戦国大名の手で実践されたが、そうでない例もある。四国を制圧した長宗我部元親の主戦力となったのは「一領具足」といわれる文字通り戦道具一式をもった半農半兵の人々だった。

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