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【戦国軍師入門】6.占い、勝利祈願をする軍師と、僧侶身分を活用した軍師

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名武将にして名参謀の軍師がいた一方で、そうではない経歴や技術を持った軍師たちもいた。
例えば、占いをして戦の吉凶をはかる軍師がいたのをご存知だろうか。

というよりも実は元々、軍師に求められる役割は、そうした占いや勝利祈願、戦の際の儀式、さらに空の様子から天気を予報するなど、実際の作戦活動そのものとは関係の薄いものだったようだ。戦国武将たちの多くは迷信深く、こうした占いの結果を信じて作戦を立てることもしばしばで、その上で験かつぎのためなどに合戦前や後に様々な儀式をやっていたのだ。

彼らは「軍配者」や「軍配者的軍師」と呼ばれる。軍配とは武田信玄が絵に描かれる際に必ず手に持っているあの扇のことで、あれも元々は占いのための道具だったとされている。

しかし、戦国時代が長く続いて合戦の規模が大きくなっていく中で、作戦を立てるための軍学や敵を味方に付けるための交渉術、その他の特殊な技術などに精通している人物の必要性が大きくなった。
例えば、山本勘助は築城術や軍学の知識をかわれた軍師である。こうして軍配者的な軍師ではなく、参謀的なタイプの軍師たちが増えていった……というのが、戦国時代における軍師の変遷なのだ。

関連してもう1タイプ、純粋な武士ではない軍師を紹介しよう。僧侶たちの作る宗教集団が武家にも匹敵するような力を持っていた、という話を先にしたが、実は武家勢力の中でも僧侶が大きな役割を果たすことがあったのだ。
それは、軍師となる僧侶の存在だ。実は武士と僧侶の関係は結構深いものだった。何故かと言えば、武家の家に生まれた長男は当然のように嫡子として育てられるが、次男以降は相続争いを起こさないためなどの理由で、しばしば出家させられて僧侶になることがあったからだ。

しかも、当時の僧侶は実は学問を学ぶことができる数少ない知識階級であり、特に重要なのはその修行の中で漢文を学ぶことだった。多くの軍学書が漢文で書かれていたので、それらの書物を読み、理解し、そして大名に進言できる僧侶という人材は軍師として非常に有用な存在だったのだ。

僧侶たちは外交面でも活躍した。出家した人間は俗世の縁に左右されないため、例えば対立する敵国に赴いてもそのことを理由に殺される、ということが少なかった。このために戦国時代には僧侶が外交の使者となることがしばしばあった。

こうした軍師僧は、京都の妙心寺のような各地の寺で学んだが、それとは別に下野国(現在の栃木)にあった足利学校というものが知られている。これは平安時代もしくは鎌倉時代に作られたとされる学校で、特に室町時代から戦国時代にかけて、多くの僧侶が儒学(儒教について学ぶ学問)や軍学、易学、医学などを学んだ。そして、ここで学問を修めた僧侶たちを、戦国大名が自らの元に招いて軍師として使う、ということがしばしばあったのだ。

彼ら軍師僧の代表選手は後に詳しく語る今川義元の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)だが、もうひとり最近注目されつつある人物がいる。彼の名は沢彦(たくげん)。京都の妙心寺に学んだ僧侶だ。織田信長が稲葉山城を岐阜城に改名した際にこの案を出し、さらに「天下布武」の言葉を贈った人物でもある。

信長は配下に有力な武将を多く擁しながらも、参謀的な存在である軍師をおかなかった戦国大名とこれまで言われてきた。しかし最近の説には、この沢彦こそが信長の師として様々なことを教えた人物であり、また軍師として桶狭間の奇襲を始めとする作戦を進言した人物である、とするものがある。
一向一揆を根絶やしにして本願寺を焼きつくした信長の背後に僧侶がいた、というのはなかなか興味深いものではないか。

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M&Aを主導した戦国軍師

この連載の序盤で、戦国時代の武士勢力と現代の企業グループは似ているという話をした。そのことについて、ここで詳しく見ていきたいと思う。
戦国大名の統治する国とは多数の豪族の集まりである。つまり、これは地場の中小企業が集まって地方組織を作っていると理解すればいいわけだ。

例えば、埼玉県の大名というのは、埼玉のいろいろな市町村にある会社の連合体のリーダーなのだ。室町時代初期の頃までの守護は、その地に領土……つまり自らの会社を持っていない場合が多かったのだが、戦国大名となると自らの直轄の領地、つまりは直営の企業を多く抱えていた。

だが、当然のように、すべての戦国大名が同じぐらい直営の企業を抱えていたのではない。また上下関係ではなく、有力企業の中で比較的優位に立つという形式の支配も多かった。つまり、いくつかの企業が一緒になってグループを形成しているが、資本的な優位があっての支配ではないということなのである。
このような場合、そのグループが他のグループに対して劣勢になると、有力な企業は独立したり、他のグループに移ってしまったりする。

わかりやすいのが「関ヶ原の戦い」の後の諸大名の動向だろう。秀吉が生きている間は豊臣政権に従っていた大名たちが、その死と関ヶ原の合戦における家康の勝利をきっかけに、あっという間に徳川政権に従うようになってしまった。そのような点で、戦国大名と現代の企業グループは類似している。

今流行のM&A(企業買収・合併)の考え方も、戦国時代を理解するのに役に立つ。M&Aとは企業を買収してグループの力を高めていくものだが、実際には、相手先企業と平和裏に話してグループに加わってもらうケースと、敵対的買収という資本の論理で市場で株式を買い集めて該当企業を傘下におさめるケースとのふたつがある。

平和裏に味方になるのは、つまりその戦国大名の現在の力と将来性を見込んで味方する形ということだ。一方、合戦はお金の力ならぬ兵力でもって相手の勢力を強引に傘下におさめる、現代風に言うならば敵対的買収だ。そして、この敵対的買収の方法にも、市場で単に株式を集める方法から、相手企業の有力な株主の株式をピンポイントで手に入れる手段まである。

これはつまり、兵力によって相手を威圧するだけではなく、相手の重臣をこちらの味方にして、相手方を弱らせるということにつながるわけだ。そして、ただ単に力押しにするより、重臣を味方につけた方がより早く傘下におさめることができる。
戦国時代においてそうしたM&Aを主導する人物こそが、軍師という存在であり、時には合戦で実際に活躍する人々よりも重要な役割を担うのだ。

しかし、時代は変わる。江戸時代、軍師の出番は大きく変わった。
この新しい時代においては、幕府という一大権力があるために他の勢力をまとめ上げて(他の会社を買収して)いくことはできず、強固な階層社会の中で自分たちの分を守って発展していくことしかできない。それはつまりM&Aができない社会であり、軍師たちのいらない社会である。こうして平和な時代が来ると共に、彼らが実際に活躍することもまたなくなっていった。

これ以後、江戸時代における軍師というものは、各藩が平和な時代においても合戦ができるだけの準備を整えている、という姿勢を見せるための存在になっていく。それはちょうど、平和な時代の武士たちが腰に下げている刀が、実用性ではなく美しさ重視になっていくのに似ていた。

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