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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府4代・足利義持――父を否定し、政策を転換 1386年~1428年

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弟ばかりが愛されて……?

義持(よしもち)は3代将軍・足利義満の嫡子だが、父との折り合いは悪かった。
それが影響してか、明との貿易に代表されるような義満時代の政策をことごとく否定し、破棄していったことで知られる。しかし彼の統治が悪かったというわけではなく、有力守護大名との力関係に均衡が取れて比較的平和な時代であったようだ。

南北朝の合一がなされたのは、義持が6歳のときのことである。動乱の時代は過ぎ去り、幕府の体制を強化し、安定を図ることが求められる時代であった。
義持が征夷大将軍に就任したのは9歳のとき。しかしその実権は義満が握ったままで、義持は全く権力を持っていなかった。義満は京都の北山に別荘を建て、北山第(きたやまだい)と呼ばれるこの場所で政務を執り行っていた。
16歳になるころには権大納言にまで昇進していたが、それもすべて父の権威によるものである。

さらに義満は、義持ではなくその弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛していた。
1408年(応永15年)に後小松天皇が北山第に訪れたとき、義満は義嗣の席を公卿の座の中に設け、天皇の御前に座らせた。そして天盃という天皇から賜る杯を、義嗣に受けさせたのである。これは元服前の幼子にしては異例の待遇とされており、義満の溺愛ぶりが窺える。

このような義満の偏った愛情により、義持の後継者としての立場も危うくなった。将軍職自体はすでに義持が継いでいたものの、足利家の家督はまた別問題なのである。
義持のライバルとして義嗣が持ち上がり、世間の人々も義嗣が家督を継ぐのではないかと噂するほどだった。そのため、義持は父だけでなく弟との間にも、埋まらない溝が出来ていた。

しかし、そんな義満が急死する。すると老臣の斯波義将(しば よしゆき)が、義持が家督を相続すべきであることを主張した。これより、義持の家督相続が決定したとされている。
その後、朝廷から義満に対して尊号が贈与されることになったが、義持はこれを辞退した。これも義持の意思だけではなく、義将がかたくなに尊号宣下を拒んだからだといわれている。
以後、義将は義持の補佐として政権の中心にあった。義満の政治に批判的であった義将の意見をいれつつ、義持は日明貿易の中止など、義満時代の政策を一変させていく。

内乱を切り抜け、自由な政治を目指す

1410年(応永17年)、義将がこの世を去ると、各地で旧南朝勢力が不穏な動きを見せるようになった。その翌年、飛騨国司の姉小路尹綱(あねがこうじ ただつな)、河内の楠木一族、さらに伊勢国司の北畠満雅(きたばたけ みつまさ)といった人々が次々と挙兵したのである。
そんな中、前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が謀反に踏み切る。禅秀は家人が所領を没収された問題で、鎌倉公方の足利持氏と対立し、関東管領を辞職した。

さらに、持氏は禅秀の後任として、彼のライバルである上杉憲基を置いた。これでは禅秀が黙っていられるはずもなく、大規模な反乱に発展したのである。
しかも、この一件はこれだけではすまなかった。義持の弟・義嗣がかかわっているとの疑惑が生じたのである。義嗣は仁和寺興徳庵に幽閉され、2年後の1418年(応永25年)に、義持の命を受けた近臣の富樫満成によって殺害された。

このような事件の一方で、義持は内大臣に任命されている。1409年(応永16年)のことだ。そして石清水八幡宮の放生会(ほうじょうえ)という宗教儀式で、上卿(執行の責任者となる公卿)を務めた。武士が放生会の上卿を務めたのは、義持の父・義満が初めてであり、義持にとっても名誉なことだったと思われる。さらに義持は3回も上卿を務めており、これは室町将軍の中で他に例を見ない。

しかし義持は内大臣以上の地位を求めず、やがて辞職する。
1423年(応永30年)には将軍職も息子の義量(よしかず)に譲り、出家して道詮(どうせん)と名乗った。政界から離れて隠居するためではなく、父と同じように将軍という立場に縛られずに、自由な政治を行うためだったと考えられている。

後継者を選ばなかった将軍

ところがわずか2年後、義量は急死した。
そのため義持は、僧侶の身でありながら再び幕政にかかわることになった。しかし再び将軍に戻ることはなく、また新しい将軍を選ぼうともしなかったため、彼の死までの間、将軍の座は空席の状態となる。

なぜ、義持は誰も将軍にしようとしなかったのか。
義持は義量の死後、八幡宮で占いをしたという。占いの内容はもちろん、自分に再び息子ができるか否かである。占いの結果、「男子出生」とのことだった。
さらにその夜、義持は男子が誕生する夢を見たというのだ。義持はその結果を信じて、男子が生まれるのを待った。
しかし1428年(応永35年)、結局義持待望の男子は誕生しないまま、彼は43歳でこの世を去った。

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