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【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

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榎本秋の戦国軍師入門

ここまで挙げてきた軍師の活躍は、戦場で策略をもって兵を操るか、裏切り工作などの謀略で敵の数を減らすかといつたものだったが、軍師も戦場に立てばひとりの武士だ。自分の部隊を率いて散々に暴れ回り、軍師としてだけでなく、槍の功で名の高い人物も珍しくない。

1585年(天正13年)に現在の福島県にあたる場所で起きた「人取橋(ひととりばし)の合戦」での片倉景綱(かたくら かげつな)の活躍はその中でも特にドラマチックなものだ。
彼は自分が養育係を務めた主君・伊達政宗に生涯付き従い、その軍師として活躍した人物だが、この戦いにおいてもその機転で主君を見事に救っている。

この合戦のきっかけは、政宗が二本松城を攻撃したことだった。
しかし、そこにはひとつのドラマがあった。実はこの戦いに先だって二本松城主の畠山義継(はたけやま よしつぐ)とは父・輝宗(てるむね)の取りなしで一度和睦が成立しかけたのだが、その酒宴の際に些細な食い違いから輝宗が拉致されてしまったのだ。

急ぎ義継を追った政宗は彼らを発見するも父親を人質に取られていて手出しができない。これを輝宗が一喝し、応えて政宗が部下に銃を撃たせると、義継は輝宗を殺し、また自らの命も断ったのだった……。
非業の死を遂げた父を弔うべく、政宗は激しく二本松城を攻めるが、降雪に悩まされて戦いが長引く。そして致命的な事態が起きた。輝宗の死を知った宿敵・佐竹氏が蘆名氏を始めとする諸勢力を集めて攻めてきたのだ。

決戦の場となったのは本宮城外の観音堂山の付近である。この時、連合軍は兵力2万5千(3万余とも)。
それに対して伊達方はわずか8千と、戦力的には圧倒的に不利だった。実際、伊達勢は一方的に押しまくられ、敵兵は政宗のいる本陣にまで押し寄せた。慌てて駆け付けた景綱も敵の数の多さになかなか近づけない。

そこで一計を講じた景綱は、なんと「我こそが政宗なり」と宣言し、さらに政宗に対して景綱何をしているか、と叫んだのだ。
これを聞いた敵兵は、叫んだ方が政宗で取り囲まれている方が景綱だと思いこんでしまい、景綱の方に群がってくる。こうして政宗は九死に一生を得たのだった。

けれど、戦いは依然として伊達勢劣勢のまま続く。
合戦において要所となったのが人取橋という橋だったのだが、この攻防で死力を尽くしながらも、ついに政宗は本宮城ヘ退かざるを得なくなる。
また、この時に殿を務めて奮戦の後に死んだ老将・鬼庭左月(おににわ さげつ)の戦いぶりは語り草になっている。

ところが、伊達を絶体絶命まで追いつめたにもかかわらず、その後連合軍側は撤退し、伊達勢は敗北を免れる。
理由は連合軍で重要な役割を果たしていた小野崎義昌が死んだせいだとも、また佐竹氏の領地に他勢力が攻め込んできたせいだともいわれ、諸説ある。

「人取橋の合戦」は政宗の生涯でも1、2を争う危機であり、景綱の機転や家臣たちの奮戦がなければ、その後の彼の活躍はなかったかもしれない。軍師にはこうした活躍もあるのだ。

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