攻城団ブログ

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二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

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7月19日(水)からはじまった二条城二の丸御殿の遠侍「勅使の間」特別入室にあわせて、恒例の学芸員による障壁画解説会が昨日開催されました。
参加してきたのでその内容を紹介させていただきます。じっさいに二の丸御殿に入る前に知っておくと現地で室内を見る際により楽しめると思います。

なお今回の学芸員は降矢さんでした。

特別入室「勅使の間」学芸員解説会

以下、降矢学芸員の話をぼくが理解できたまま書いているので、不正確な部分があるかもしれません(だいたいは理解できてると思います)。
あと個人的なコメントもちょいちょい差し込んでますが、いちおう関係のありそうな話に限定しているので参考情報として読んでいただければ。

まずは二条城全体の話。

1603年(慶長8年)に徳川家康によって築かれた当時はほぼ正方形の単郭だったが、1626年(寛永3年)におこなわれた後水尾天皇の行幸(寛永行幸)にあわせて城域を西方に拡張し本丸を造営、もともとの御殿は大改修されて現存する二の丸御殿に。

この改修(拡張)前後の様子は桝田先生に描いていただいた復元イラストで比較するとわかりやすいです。

(左)家康の築城時(右)寛永年間の改修時

現在、二の丸御殿を見学すると車寄から入って遠侍→式台→大広間→黒書院→白書院と奥に向かい、さらに白書院→黒書院(牡丹の間)→大広間→式台→遠侍と裏側を通って戻るルートになっています。
このうち、最後に見学する部屋が今回対象の「勅使の間」です。

1626年(寛永3年)当時の復元図。

当時の大きな建物としては3つ、将軍・家光のための二の丸御殿、大御所・秀忠のための本丸御殿、後水尾天皇のための行幸御殿です。

このうち二の丸御殿以外は焼失してしまったので現存していません。
現在、二条城にある本丸御殿は明治26年から27年にかけて御所から移築した桂宮家の御殿です。桂宮家のルーツは八条宮家で、後水尾天皇のおじさんにあたる智仁親王を祖とするなど歴史的にも二条城と深いつながりがあるのですが、長くなるのでその話は割愛します。

解説のポイントはこれらすべての建物内の障壁画は狩野派によって描かれたということです。

勅使の間について

勅使の間とは天皇の代理人として朝廷から派遣された使者のこと。

その勅使を二条城で迎えるために用意されたのが「勅使の間」ですが、当時は「殿上の間」「遠侍 上段」などと呼ばれていたそうです。
「勅使の間」という呼称が使われたのが史料として確認できるのは現在の『京都新聞』の前身である『日出(ひので)新聞』による明治33年のことで、江戸時代の呼称ではないとか。

まあ当時は白書院も「御座の間」と呼ばれたり、黒書院も「小広間」と呼ばれていたらしいので部屋の名称はけっこう流動的です。

二条城において主人は将軍ですから常に将軍が上座(上段)に座るわけですが。この部屋だけは勅使が上段に座ったと考えられています。

ここで江戸時代初期における幕府の対朝廷工作(天皇および朝廷の統制)の話。

禁中並公家諸法度を制定するなど、幕府は朝廷を束縛する方向で政策を進めますが、さらに秀忠の娘で、家光の妹にあたる和子(もともとは「かずこ」で入内する際に「まさこ」と読みを変える)を後水尾天皇の后にして宥和政策もとります。
アメとムチというか、朝廷内部に幕府関係者を堂々と送り込むための戦略というか、なかなか強引でしたたかなやり口で、だからこそぼくは秀忠の政治家としてのセンスを評価しているのですが、じっさいにはこの夫婦は仲が良かったらしいです。

ただ和子を大事にしていてもその実家である徳川家に対しては相変わらず良く思ってなかった後水尾天皇は行幸の翌年に起きた紫衣事件(しえじけん)をきっかけに、幕府に何の相談もなく譲位をするなど、朝幕間の関係は最悪な状況になりました。

その関係修復を図るために家光は上洛します。30万の軍勢を率いて上洛している時点で話し合う気がどこまであったかわからないですけど。

このとき二条城へ入った家光のもとへ勅使がやってきた記録があります。その後、将軍は上洛せず勅使が江戸へ向かうということが229年間続きました。
幕末に入った1863年(文久3年)、家茂が上洛をするとこのときも勅使を迎えています。そして最後の将軍である慶喜が将軍宣下を受ける際も勅使がやってきています。

ただこれらは「勅使が二条城へやってきた(迎えた)」という記録であって、勅使の間で何かがおこなわれた記録ではありません。
はっきりと勅使が勅使の間に通されたと記録されているのは最後の慶喜のときだけで、このときは勅使は車寄から勅使の間に案内され、儀式が行われる大広間に案内し、休憩時にまた勅使の間に案内する、という記録があります。

つまり勅使の間は勅使専用の休憩室という役割だったようです。
言い換えると、部屋の構造からイメージできるような、上段に勅使が座り、下段に将軍が座って、天皇の言葉を拝聴するといったやり取りが行われたかどうかはわからないと。
個人的にはこの話がかなり驚きでした。

勅使の間の特徴

つづいて勅使の間の特徴として、降矢学芸員は以下の5つを紹介されました。

  1. 上段框(かまち)や帳台構に、黒漆塗でなく透漆(すきうるし)塗の木目を表した欅(けやき)材
  2. 帳台の間は、通り抜けできない
  3. 天井画が上下段とも同じ(飾金具は違う)
  4. 対面所の向きが、東西(他は南北)
  5. 付書院がない

大広間や黒書院など上座である一の間(上段)と二の間(下段)の段差の部分の木材(=框)には黒漆が塗ってあります。
しかし勅使の間の框には木目が見えるように透明な漆が塗られています。
(これは写真だとわかりにくいですが現地で見るとはっきりわかります)

帳台構の木材も同様です。

また大広間の帳台構は出入口としても使われていたように、裏側にある帳台の間には廊下側に出る扉があり、通り抜けられる構造になっています。
しかし勅使の間はほかに出られる扉はなくただの箱状の部屋になっているだけです。ではこの部屋(帳台の間)が何に使われたのかと質疑応答の際に聞いたのですが、現時点ではよくわかっていないとのことでした。この室内にもきれいな絵が描かれているので用途が気になりますね。

天井画は上段、下段ともに同じものが描かれています(通常はちがう絵が描かれる)。

ただし辻金具は上段と下段と少しちがってます。下段の間の天井画は花菱紋。

以下の写真は上段の間の天井画で、唐草紋の中に徳川家の裏紋である「六葉葵」がデザインされています。なぜここに裏紋があるのかはわからないそうです。

次に対面所の向きです。

二条城には奥から白書院、黒書院、大広間と3つの部屋で家臣と対面しました。常に将軍は北側に(南を向いて)座るというレイアウトになっています。
しかし勅使の間は勅使が東側に(西を向いて)座るという、明らかに配置を変えているのですが、これも現時点では理由がわからないそうです。

また床の間、違い棚、帳台構、付書院の4点セットでもって「座敷飾り」と総称され、部屋の格式を示すのですが、勅使の間には付書院がありません。

付書院はちょっとした書き物などをするための机代わりとして作られたのでゲストである勅使には必要ないものではありますが、これもなぜ作らなかったのかはわからないとのこと。
こうしてみると建物が現存していても、どう使われたのか、なんのために作った(作らなかった)のか、わからないことはたくさんあるものですね。

欄間彫刻からわかる部屋の格式

また特別入室では欄間彫刻にも注目です。この筬(おさ)欄間は彫刻が入っているので「筬欄間飛入彫刻(おさらんまとびいりちょうこく)」と言うらしいのですが、リバーシブルになっています。

この両側から見られるような構造は二条城内のほかの欄間や、名古屋城本丸御殿などでも確認できますが、完全に同一のものが彫られているのではありません。

勅使の間の欄間彫刻には大和松に錦鶏(きんけい)、さらに椿や薔薇が彫られているのですが、反対側にある遠侍一の間から見ると錦鶏がいない(=裏)そうです。このことから遠侍一の間よりも勅使の間のほうが格式が高いことがわかると。
たしか名古屋城本丸御殿でもこっちからは将軍が見るので、と案内してもらった記憶があります。

釘隠は括袋型(かったいがた=袋を括った形状)でこれは遠侍、式台で共通しています。
二条城は建物ごとに釘隠は統一されていて、大広間に向かって豪華になっていきます。これも部屋や建物の格式を示す手法のひとつで、細部にいろんなメッセージが込められているのがほんとうにすごいですね。

構造としては三重になっているとか。大きな土台に丸いパーツをあわせて、最後に三つ葉葵の入った小さなパーツをはめこむと。

勅使の間の障壁画について

最後に障壁画についてです。

二の丸御殿には約3600面の障壁画が残っており、そのうち寛永行幸にあわせて制作された1016面が重要文化財に指定されています。
そのほか江戸時代に修復されたもの(おそらく幕末の上洛時でしょう)、明治時代に制作されたものに分類されます。

先述のとおり、障壁画はすべて狩野派の絵師によって描かれたのですが、勅使の間の障壁画は狩野甚之丞(かのう じんのじょう)が43歳のときに描いたそうです。なお甚之丞は寛永行幸の2年後に亡くなっているとか。

寛永年間は狩野永徳の孫、狩野探幽が率いる新世代の狩野派と、永徳の様式を受け継いだ旧世代の狩野派(甚之丞もそのひとり)のちょうど移行期であり、共存していた時期でもありましたので、二の丸御殿には両方のスタイルで描かれた障壁画を見ることができます。

旧世代は奥行きや高さを表現し、大画様式(大画方式)と呼ばれるドーン、バーンといった迫力のある絵で、一方の新世代は枠内に収め余白を活かしたすっきりした絵です。
名古屋城本丸御殿の上洛殿は1634年(寛永11年)に増築されているので、寛永行幸よりあとになります。この上洛殿に描かれた探幽の絵はまさにすっきりした絵なので、ぜひ狩野派や障壁画に興味を持たれた方は名古屋城へ行ってみてください。

blog.kojodan.jp

勅使の間の画題は「楓檜桃小禽図(かえでひのきももしょうきんず)」で、ひとつずつは「楓図」や「檜図」などと呼ばれています。

楓は葉先が赤くなっています。これは「野村楓(ノムラカエデ)」という品種だそうです。別名「イロハモミジ」とも。

本物の写真も見せていただきました。北大手門のところに植えられているそうです。まず赤い葉になって、あとから緑になるから葉先に赤が残ると。

明治時代に書き直された部分が

特別入室で間近で見られる障壁画のうち、明らかに明治時代に描き直された部分があるそうです。それがこの下段の「檜図」の部分です。

なぜそんなことがわかるかというと、1863年(文久3年)に家茂とともに上洛した奥絵師の板谷広春(いたや ひろはる)が描いた模写(スケッチ)が板谷家に残っており、そこには7羽の鳥とスミレが描かれているからです。

東京国立博物館のサイトで検索することができます。

板谷家伝来資料データベース詳細画面

板谷家は、江戸幕府の御用絵師住吉広守(1705~77)の弟子慶舟広当(1729~97)が、住吉家を継いだ後、板谷家に復したことに始まる幕府御用絵師の家系で、江戸におけるやまと絵画風の継承流派である住吉派の支流として、代々幕府の御用を勤めました。
平成22年3月、板谷家に伝来した下絵や模写、抜き写しなどを含んだ粉本、古文書、印章など10629件の資料が板谷家第8代当主板谷広起氏の遺志により夫人静子氏から「板谷家伝来資料」として東京国立博物館に一括寄贈されました。同家の古文書の一部は、大村西崖編『東洋美術大観 五』(明治42年 審美書院発行)で翻刻されているものの、模写等の粉本類は未紹介であり、御用絵師の活動ならびに作画学習の様子を知ることのできる原資料として貴重なものです。さらに、「板谷家伝来資料」には、江戸時代の御用絵師としての活動を示す資料以外に、明治維新後の新政府役人としての活動を記録した文書なども含まれており、江戸幕府の御用絵師が江戸幕府制度の解体後に歩んだ姿もしのぶことが出来ます。
なお、本データベースは平成23~27年度科学研究費補助金(基盤研究A)「板谷家を中心とした江戸幕府御用絵師に関する総合的研究」(課題番号 23242013)の研究成果です。

明治時代、二条城が離宮となった際に描き直されたとか。

二条城の模写事業は寛永3年時に戻すことを目標にしているので、いつか7羽の鳥とスミレも描かれた当時の絵に戻せるといいなと話されてました。

ちなみに勅使の間はずっとこんな感じでした。おそらくコロナ前に訪問された方であればスカスカの部屋だったのを覚えてらっしゃるかと思います。
(これはこれで帳台の間が丸見えだったりでおもしろいのですが)

模写事業が進み、いちばん大きな大床(画面左奥)の模写画がはめられたのが令和3年のことなので最近ですね。

上段と下段を境界部分に天井から下がっている「垂れ壁(たれかべ)」についてもいまは空洞になってますが、ここにも模写画が入るそうです。
横長なのでパーツを最後にくっつけるんだとか。

廊下側の障壁画、腰障子の部分はまだですが、こちらも模写画は完成しているそうなので近いうちにはめ替えがおこなわれるでしょう。

帳台の間の室内にもこんな障壁画が描かれています。
扉の裏側なので特別入室でも見ることができない部分ですね。これは御所の障壁画を転用した可能性が高いそうです。

最後に、大正天皇は皇太子時代、本丸御殿を宿泊所していて何度も二条城を訪問されています。そのとき勅使の間で宮司たちと対面された記録があるそうです。なぜこの部屋を使ったのかはわからないのですが、こういう部屋の歴史もおもしろいですね。

勅使の間の特別入室は8月21日までですのでお早めに。
なお特別入室とあわせて、展示収蔵館(二条城障壁画 展示収蔵館)では勅使の間(上段の間)を再現した原画が展示中です(こちらは9月10日まで)。二の丸御殿を見る前後に立ち寄って、ぜひ原画と復元画を見比べてみてください。

ja.kyoto.travel

二条城について再勉強中

コロナ禍では人数制限などもありなかなか参加できなかった学芸員解説会ですが、ひさしぶりに参加できて楽しかったです。

降矢さんの解説もとてもわかりやすく、特別入室での見るべきポイントも教えていただいたので、このあとの現地の見学がはかどりました。天井画の辻金具に六葉葵があるとか、教えてもらってなければ絶対気づいてないです。

攻城団でもコロナ前は二条城のガイドツアーを5回開催したのですが、そろそろ再開していければなと思っています。ガイドブックをつくったのは2017年(平成29年)12月で団員総会を初開催したときのことですが、まだこの当時は「勅使の間の絵は甚之丞ではなく長信の説もある」と書いてあるとおり、筆者が断定できてなかったのですが、今回の解説回を踏まえてここは修正しないといけませんね。

攻城団がつくった二条城ガイドブックの中身

前日夜の「NAKED 夏祭り 2023」の取材に続けて24時間に2回も二条城を訪問することになりましたが、二条城は何度訪問しても新しい発見があるし、おもしろいです。
ぼくが感じたおもしろさをみなさんにシェアするためのガイドツアーなので再開したらご参加ください。

あと大久保ヤマト先生に描いていただいた「マンガでわかる二条城」もオススメです。寛永行幸のことも大政奉還のことも二条城の歴史をコンパクトにまとめてあるのでこちらもぜひ!

kojodan.jp

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