攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

五奉行 の検索結果:

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

秀吉亡き後、五大老五奉行による豊臣政権の運営に暗雲が立ち込め、関ヶ原の戦いになったことは有名です。しかし、家康はどういった立場でこの戦いを迎えたのでしょうか。テレビや雑誌などでは大きく取り上げられても、描かれていない細かいやり取りや心情などが入り混じっているのが関ヶ原の戦いです。今回は家康が大坂を離れて上杉討伐に向かってから、関ヶ原の戦いを経て大阪に戻るまでの立ち位置を中心に関ヶ原の戦いを見てみましょう。 関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部抗争 関ヶ原の戦い前夜、武将たちは尾張に…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…去。63歳 五大老・五奉行は秀吉の死去を伏せたまま朝鮮からの撤退を指示する 1599年(慶長4年)、58歳 1月、家康の六男・忠輝と伊達政宗の長女が婚姻、福島家・蜂須賀家には幼女を嫁がせる約束 秀吉が晩年に決めた体制を家康は段階的に反故にしていく 閏3月、前田利家死去。家康の影響力が増大(元々は利家が大坂城で秀頼を補佐、家康は伏見城で政を行う役割分担) 石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居 9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…方で三成は自分と同じ五奉行の増田長盛(ました ながもり)、毛利の使僧の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らと語らい、また本来東軍につくつもりだった大谷吉継(おおたに よしつぐ)を説得して西軍を組織する。 この時、三成は自分自身が総大将の地位に就くつもりだったが、その横柄な性格を気にした吉継の勧めによって、毛利輝元を総大将として担ぐことになった。そもそも輝元は豊臣政権下において家康と同格の五大老という地位にあったから、その権威を利用しようという意図もあったのだろう。 また、もうひ…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼の後見人である利家が家康と和解したからである…

【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家

…躍進、後に豊臣政権の五奉行筆頭となっている。関ヶ原の戦いで東軍について功績をあげた浅野家に与えられた下野国真岡の2万石を、3男の長重が受領して真岡藩を成立させた。その後、父・長政の死により彼の所領である常陸国真壁5万石を受け継ぎ、1622年(元和8年)には常陸国笠間5万3千石余に移封。さらに赤穂藩主・池田輝興が発狂して自分の正室を殺して改易された事件を受け、この際に派遣された、子の浅野長直がそのまま藩を受け継ぐこととなって、赤穂藩浅野家誕生となった。 事件が起きたのは浅野長矩…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…吉正室・おねの義弟で五奉行の筆頭であった浅野長政の子)とともに、豊臣秀頼と徳川家康の会見――いわゆる「二条城会見」実現に尽力し、両者の緊張関係を一時的ながらも緩和させることに成功している。しかしそれからわずか3カ月後、清正は急死してしまう(死因は脳溢血とも、あるいは中風の類とも)。豊臣家が滅亡するのは、それからまた数年後、1615年(元和元年)のことである。 息子の代で崩れていく熊本藩 清正の跡を継いだのはまだ11歳の息子・虎藤だった。彼は当時の将軍・徳川秀忠から一字を貰い受…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…かも、後に豊臣政権の五奉行のひとりとして活躍する長束正家をはじめ、長秀以来の重臣たちが秀吉によって独立大名に取り立てられ、その多くは丹羽家よりも石高が大きくなったのだから、これはたまらない。この背景としては、若さゆえに家臣団を制御できない長重自身にも問題があっただろうが、それ以上に、大大名である丹羽家をたやすく潰すことによって自らの権力を誇示したい秀吉の思惑があった、と考えるのが妥当であろう。かつての上役であり、また多分に恩もある長秀は厚遇する価値はあっても、その息子はそうで…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…姻」を行ったため、「五奉行」として豊臣政権を支えた石田三成らと対立するようになった。一方、この三成は厳しい政権運営から加藤清正・福島正則ら豊臣政権内部の武断派とも対立しており、家康は彼らを味方につけて反家康派に対抗していく。 そして1600年(慶長5年)、家康が「謀反の疑いがある」として五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…る軍を挙げ、その隙に五奉行の石田三成が中央で挙兵する。「関ヶ原の戦い」の始まりである。 この時、真田氏は当主の昌幸、嫡男の信幸、次男の信繁の二人ともに、家康に従って上杉攻めの軍に加わっていた。しかし、そこに石田三成挙兵の知らせが届き、三者は家康の東軍と三成の西軍、どちらにつくかを相談した。結果、昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につくことを決める。この時に彼らの陣が下野国の犬伏(栃木県佐野市)にあったことから、俗に「犬伏の別れ」と呼ぶ。 このように親子が別れた背景には、昌幸と信繁…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…が伏見城を離れた後、五奉行のひとり・石田三成が家康を打つべく挙兵した。秀吉の遺命を守る三成と、天下人になろうとする家康の確執が表面化したわけだ。挙兵を知った家康は下野国小山(現在の栃木県)で引き返し、両者は関ヶ原で激突することになる。 その間、各地でも東軍西軍に分かれての争いが行われており、長谷堂城(山形市長谷堂)での戦いもそのひとつであった。元々、山形城主最上義光は家康には批判的で、景勝に賛同する立場であった。しかし、東軍が有利な状況を知って家康に与した。その態度に怒った景…

2.譜代家臣団の成立

…権の行政をつかさどる五奉行の1人、石田三成と深刻な対立を招くことになる。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康率いる東軍は三成の西軍を打倒、天下の覇権を掌握した。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任じられ、晴れて江戸幕府を開くに至る。 家康はその2年後に、将軍職を子の秀忠にゆずっている。自身は大御所として控え、徳川家による支配体制を固めるために尽力した。1614年(慶長19年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」があり、豊臣家が滅亡する。これにより、…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…石田三成を始めとする五奉行によって中央集権的な政治体制の確立を目指す一方で、徳川家康を始めとする有力大名を五大老として政権に組み込んで自分の死後の政権運営を託したことにも、このような「諸大名を統制しなくてはならないが、一方で彼らの意志を完全に無視するわけにはいかない」という、まだ戦国の乱世が終わりきっていない、微妙な時代の空気が背景としてあったのではないか。それでも、それぞれ独自勢力として活動していた戦国大名たちが、中央政権の支配下に入り、多種多様な干渉を受けつつ生き残りを図…

【戦国を彩る名軍師たち】三成に過ぎたるものが二つあり――島清興

…。 三成は豊臣政権で五奉行を務めた人物であり、典型的な官僚タイプである。決して武功がないわけではないが、小説『のぼうの城』で有名な忍城攻めの失敗(小田原征伐の際、北条方の城に水攻めを行うも失敗、非常に攻めあぐねた)などの例を見ても、戦場の猛将ではない。 そこで彼は武勇で知られた清興に目をつけたのだが、その誘い方が凄い。なんと、三成は当時の自分の所領四万石のうち一万五千石(一説には二万とも)を割くという破格の条件を示したのである。確かに清興という名将にはそれだけの価値があった―…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…臣である! さらに、五奉行に石田光成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長束正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦となった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田光成軍が敗北した! そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった! 夏の陣は、…

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