攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

仙石秀久 の検索結果:

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

…で血気にはやっている仙石秀久だったので、彼らなら目の前の城攻めに必死になるに違いない、と性格まで読んでの作戦だった。 だが、相手は稀代の謀将・官兵衛だった。元親の策を見破った彼は、「敵の主力は阿波なのだから、讃岐の城は枝葉のようなものだ。枝葉を叩いても無益で、主力を倒せばそれですむ」と諸将を説得し、植田城を無視してしまった。このことを知った元親は残念がったという。その後、官兵衛は阿波の岩倉城を落として長宗我部軍を本拠地である土佐へ撤退させ、元親が降伏に追い込まれる大きな要因を…

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

…ンゴク」でおなじみの仙石秀久に下賜したり、九曜紋を細川忠興に下賜したりしています。その九曜紋を伊達政宗が忠興に使わせてくれと頼んだとか、家紋の授受や使用許諾の話だけでいろいろエピソードがありますが、それは別の機会に。 また秀吉が「太閤桐」という独自の桐紋を考案した背景に、桐紋を諸大名にばらまいてしまったためブランド価値が暴落したからという説もあり、家紋というものはその大名家の象徴であると同時に、必ずしも先祖代々ひとつのものを使い続けているわけではありませんでした。たとえば政宗…

3.戦国大名から外様大名へ

…秀吉のもとで活躍した仙石秀久を祖とする仙石家(信州上田藩→但馬出石藩)は、本来外様大名として扱われるべき経歴でありながら徳川家との親密さからか譜代大名として扱われ、しかし1669(寛文9)年には外様に移されている。では、そのような本来外様であるはずの譜代大名は、のちにすべて正されたのかといえばそうでもなく、出羽国の国人の出である戸沢家(出羽新庄藩)は江戸時代の終わりまで譜代として扱われている。どのような意図でこれらの例外が生まれたのかははっきりしないが、一般にイメージされるほ…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…若狭小浜8.5万石 仙石秀久 信濃小諸5.7万石 所領安堵 いずれにせよ、大坂城に豊臣秀頼がいる状態で、これらの豊臣恩顧の大大名たちが結託すればせっかく勝利したことも水の泡なので、相当な警戒心を持っていたと思います。 そこで家康は娘婿である池田輝政に姫路城を大改修させて大坂城包囲網を構築し、「大坂の陣」のあとは明石城や尼崎城を築いて西国から機内へのルートを(陸路も海路も)支配しました。(あわせて「天下普請」により近畿周辺に多くの城郭が築かれています) さらに危険視していた福島…

アゲハチョウの家紋

…センゴク』の主人公、仙石秀久も信長から「永楽銭」の家紋を使うことを許されてましたね。 家紋は複数ある!? そんな池田家の家紋ですが、じつはほかにもあります。 姫路城主となった池田輝政(池田恒利の次男)は徳川家の信任も厚く、たとえば長男の利隆は榊原康政の娘で徳川秀忠の養女となった鶴姫を正室に迎えています。 次男忠継は、備前28万石を与えられ、岡山藩主となった(じっさいには利隆が藩主として執政したそうです)。さらに3男忠雄は淡路一国6万3千石を与えられ洲本藩主となっています。 輝…

植田城 知将の読み合いが行われた戦

…家臣の、宇喜多秀家、仙石秀久、小西行長らである。はじめに現地の農民から話を聞き、いちばん攻め落としにくい城が植田城だと見極めた。植田城が堅牢であることに加え、その城には元親の従兄弟・戸波親武がいたためだ。そこで官兵衛らは支城を落とし、最後に植田城を攻める作戦に出たのである。豊臣の軍勢であることを告げると、支城の諸将はすぐに降伏していく。兵力差があり、予想された事態であった。 しかし、官兵衛はこれに違和感を覚えた。植田城には2500人が籠っているのに、支城の兵に戦意がないのは不…

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