攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

信長公記 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…ほどの相撲好きで、『信長公記』にも相撲大会で活躍した浪人を召し抱えたとか、相撲大会に1500人もの参加者がいたとか、たびたび相撲行事についての記述が登場します。 番組ではこのほかにも、蒲生氏郷、伊達政宗、島津斉彬と西郷隆盛、山内一豊らのエピソードを紹介していますが、徳川家康が「相撲をやるなら畳の裏を返せ。畳の縁がすり減ってお茶の師匠が怒る」と注意したという逸話はおそらく創作でしょうけど、そのくらい相撲を取ることが日常的に行われていた裏返しでもありますね。 勧進相撲から興行・ス…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…を記した文献である『信長公記』や、天主外観を記録した宣教師の記録、さらに平成の安土城発掘調査による成果を基本の参考資料として復元を行い、資料に記録がなく詳細が不明な部分は類例となる建築物(特に松江城天守や三原城本丸大広間、二条城二の丸御殿など)を参考にすることで復元されたとのことです。確かに中村先生案の天主断面構造が松江城天守のそれとどこか似ているように感じられます。 そして、こうした研究の集大成として、安土城天主の復元立面図・平面図・断面図を作成されました。中村先生はご自身…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…参考文献 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA) 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク) 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社) 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社) 「武田三代 信虎・信玄・勝頼の真実に迫る」 (平山優、2021年9月28日、PHP研究所) 「新説 家康と三方原合戦」 (平山優、2022年1…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…猛攻を始めました。「信長公記」によると一番手・山県昌景(やまがたまさかげ)、二番手・武田信康(たけだのぶやす、信玄の弟)、三番手・小幡勢の赤の具足をまとった騎馬隊、四番手・武田信豊(たけだのぶとよ、信玄の甥)、五番手・馬場信春(ばばのぶはる)が波状攻撃を仕掛けてきましたが、鉄砲と足軽隊によって応戦し、馬防柵より一隊も出撃させずに応戦したとあります。明け方から未の刻(午後2時ごろ)まで鉄砲隊を入れ替わり立ち替わりさせて戦い、武田方は多くの兵が討たれて次第に兵力が少なくなり、諸勢…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…っていったのです。「信長公記」によれば堀江城を目指していたようで、つまり浜松城は素通りされたわけです。 この動きを受けて家康は、背後から信玄を狙うために浜松城から出撃して追いかけました。武田軍が三方ヶ原台地から祝田(ほうだ)坂を下り始めたところを攻撃しようと考えていましたが、信玄は下ると見せかけて全軍を三方ヶ原に展開させて徳川軍を待ち構えていたのです。武田軍は石つぶてを投げて徳川軍を挑発し、戦闘に引きずり込みました。午後4時ごろ開戦。徳川軍は鶴翼の陣、武田軍は魚鱗の陣で布陣し…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…ズ出版) 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADOKAWA) 愛知県史 通史編3 中世2・織豊(平成30年3月30日、愛知県) 歴史人 (令和4年7月6日、第13巻第8号 通巻140号、ABCアーク) 「徳川家康の決断」 (本多隆成、2022年10月25日、中央公論新社) 「徳川家康の素顔 日本史を動かした7つの決断」 (小和田泰経、2022年10月8日、宝島社) 「徳川家康という人」 (本郷和人、2022年10月30日、河出書房新社) 週…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…せとなったはずです。信長公記によれば、このときの元康は朱色の甲冑を身に着けていたようです。この元康の働きが緒戦となり、これで大高城の孤立は解消されて今川方にとっては有利に動くはずでした。この勝利を喜んだ義元は元康に大高城で休息をとるように命じましたが、義元は信長の強襲を受けてあえなく討ち死にしてしまいました。 義元討死からの脱出 大高城跡は整備されていて見学しやすい 大高城にいた元康のもとに義元が討ち死にしたとの報が入りますが、すぐには動かなかったようです。それは織田方の偽情…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…ばれてきた場所だが『信長公記』や『三河物語』にはこの記述 @鉄砲三千挺、三段撃ちは嘘。少なくとも『信長公記』には千挺 @武田騎馬隊も話半分に。馬は臆病な動物なので鉄砲が鳴り止まない戦場で動けるか? 戦後、武田家に奪われた遠江の諸城を奪回する 二俣城、光明城、犬居城、諏訪原城(牧野城に改名) 高天神城と小山城以外はほぼ奪還 1578年(天正6年)、37歳 3月、上杉謙信死去、御館の乱 →甲相同盟が破綻 9月、家康は北条との同盟復活(相遠同盟) →北条と武田の関係が悪化したので、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化③後詰決戦に備えて?

…』(朝日新聞社)で『信長公記』を分析し、平城の方が後詰決戦での救援が成功しやすい(他が5割や6割なのに対し、平城は10割)ため、落ちにくいと解説する。 これは実際のところ非常に頷ける話だ。つまり、山岳部の兵が展開しにくい場所にあるということは、敵が攻めにくいのと同時に、味方も助けにくいのが当然。広い平地が近くにあれば一気に攻撃できるのに、狭い場所ではそうもいかず、結果としてにらみ合った末に引き揚げざるを得なくなる、という可能性が高かったのだ。もちろん、この場合、城に立て籠もっ…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…初めて登場するのは『信長公記』で、1570年(元亀元年)の金ヶ崎撤退戦の直後、一鉄のもとで一揆の鎮圧などに働いたことがわかる。 ところが、利三は一鉄の元を離れ、同じ織田家中の光秀の家臣になった。原因はわからない。何かの方針や待遇で対立したのか、それともドラマのように酷い扱いをされたのだろうか。『当代記』には信長によって勘当されて光秀が密かに匿ったと記されているので、一鉄の元を離れた理由やその時の手続きに、利三・光秀側に何か非があったのかもしれない。結果として信長の怒りを買った…

明智光秀と藤田伝五ーーあるいは共に近江生まれ?

…ある歴史資料である『信長公記』ほかに出てくる。それによると、「本能寺の変」を起こす直前、光秀は四人あるいは五人の股肱の臣にだけ自分の本心を打ち明けた。その中に藤田伝五の名前があるのだ。 しかし、その藤田伝五の生涯がどうであったのかというとこれがよくわからない。特に前半生は資料が少なく、一般には美濃衆あるいは明智の譜代衆であるとするが(『麒麟が来る』もこう解釈している)、根拠に乏しい。じつは滋賀県守山市水保には伝五を含む藤田一族の末裔たちが今も暮らしており、そこに18世紀後半に…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…がいありません)。『信長公記』では「小河城」と書いてありますが、この時代は読みさえ同じなら漢字は適当だったりするのでよくあることです。 kojodan.jp ちなみに水野信元はその後も信長の家臣として付き従うのですが、武田勝頼に通じた嫌疑をかけられると、信長の命を受けた徳川家康によって殺害され、そのときに緒川古城も廃城となりました。なお信元が裏切っていると信長に密告したのが佐久間信盛なのですが、のちに信盛が高野山に追放されると信長は信元の弟である水野忠守に旧領であるこの地を与…

明智光秀と明智牧ーーあるいは創作に語られる「母」

…差し出し、波多野氏を降伏させた。 ところが安土城へ送られた秀治を信長が処刑してしまったので、八上城に残された家臣たちは牧を殺してしまう。光秀はこのことで信長を深く恨み、ついには本能寺の変へつながる……というわけで、いわゆる怨恨説を補強するエピソードになっている。実際はどうかというと、残念ながら後世の創作であろうと考えられている。光秀が母を人質にして云々という話は『総見記』というのちの時代に書かれた本にあるもので、『信長公記』など信憑性のある史料には見出すことができないからだ。

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…衛役を担った光秀が『信長公記』に初登場します。 その後は秀吉らと京都周辺の政務に当たり、京都奉行の職務を行っていたようです。しかし信長と15代将軍義昭が意見の食い違いで衝突するようになり、関係が次第に悪化。一方で光秀は多くの武功を重ねていき、異例のスピードで出世。1571年(元亀2年)には比叡山焼き討ちで功を上げ、ついには近江の滋賀郡に約5万石の領地を与えられ、信長の命で坂本城の築城にとりかかるのです。 このあたりから光秀は将軍義昭を見限り、織田家の家臣に編入されたとみられて…

「麒麟がくる」第2回に登場した古渡城と田代城、小熊城、大桑城はどんなお城か

…ませんね。この話は『信長公記』に出てくるのですが、景清が刀に自分の顔を映したとき、あざがあるように見えたから「癬丸」と名付けられたとか。「加納口の戦い」で斎藤家の家臣、陰山掃部助(陰山一景)が奪ったそうですが、その後、信長家臣の丹羽長秀が入手して熱田神宮に再び奉納しています。癬丸は持ち主に祟りをなす――いわゆる妖刀で、千秋親子も討死しているし、陰山掃部助も両目を射抜かれて討たれます。さらに長秀も眼病に悩ませられたので熱田神宮に奉納したというわけです(それで眼病は治ったとか)。…

【戦国武将の御朱印集め】織田信長のお墓がある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました(京都・浄土宗)

…した」とあり、また『信長公記』では信長の遺体について明記されていません。 全国には信長の墓と伝わる寺社がたくさんありますが、なかでももっとも遺骸が眠る可能性が高いとされているのがこの阿弥陀寺です。門前にも「織田信長公本廟」という石碑があります。 阿弥陀寺はこんなお寺 『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば、事態を聞きつけた清玉上人が僧20人あまりを引き連れて本能寺に向かっったところ、すでに境内は炎上していて近づくことはできず、しかし裏門近くの竹林で信長の家臣たちが遺体を火葬しよ…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…山梅雪(アナ雪)は『信長公記』によれば一揆に殺されたとありますが、松平家忠の『家忠日記』によれば切腹させられたと書いてあります。ドラマではどっちかな。 pic.twitter.com/6uM9xvCmJS — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年2月7日 第6回「迷走」 第6回もタイトルの「迷走」のとおり「本能寺の変」後のドタバタを描いた回です。 明智光秀の兵に追われた松が琵琶湖に飛び込んだのもこの回でした。死なないことは史実から知ってましたが、まさかあんなふうに再登…

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