攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

北条義時 の検索結果:

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…わからないのですが、北条義時以降、執権が侍所別当を兼任していたので実質的に所司が現場トップだったからでしょうか。そして応仁・文明の乱以降は所司に任じられた者はなく、組織も形骸化したとか。 名門守護家の領国数の推移 番組ではそのあと三管四職をつとめた各家の紹介をしていただきましたが、今回がんばってつくったのが守護職をつとめた領国数を可視化したマップです。ターニングポイントになりそうな年を6つ選んで、その時点での状況をまとめました。(京極家が近江半国守護だったかどうかは諸説あるよ…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…〈一〉北条時政〈二〉北条義時〈三〉北条泰時〈四〉北条経時〈五〉北条時頼〈六〉北条時宗〈七〉北条貞時〈八〉北条高時権力が移り変わった鎌倉時代 第四章 室町幕府、持ち回りの管領〈一〉足利直義〈二〉高師直〈三〉細川清氏〈四〉斯波高経〈五〉細川頼之(六)斯波義将(七)細川頼元(八)三管領家の成立(九)畠山満家(十)足利氏満と足利満兼(十一)足利持氏(十二)細川持之(十三)畠山持国と伊勢貞親(十四)細川勝元(十五)足利成氏(十六)足利政知(二二)三好長慶(二三)三好三人衆(二十四)織田…

【サイン本プレゼントあり】「ナンバー2の日本史」のご紹介

…てる名前が藤原道長、北条義時、明智光秀というのもいいですよね。どの人物も一癖も二癖もあるし、彼らは(光秀はさておき)「実質トップ」と呼べるような存在でしたから。 まだぼくも読めていないのですが、今回はこの「ナンバー2の日本史」を株式会社エムディエヌコーポレーションさんより5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも榎本先生のサイン入りです!)応募は簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の編集を担当された松森さんと著者の榎本先生からメッセージ…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…条時政の策謀により、北条義時に攻められて滅ぼされた事件 鎌倉時代 1205年(元久2年) 牧氏の変(牧氏事件) 北条時政と牧の方が3代将軍・源実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようと画策した事件。北条義時と政子により防がれた 鎌倉時代 1213年(建暦3年) 泉親衡の乱 鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉親衡が源頼家の遺児・千寿丸を擁立して執権北条義時を打倒しようと起こした反乱。和田一族を滅ぼす目的で義時が義盛を挑発した可能性も指摘される 鎌倉時代 1213…

榎本先生の最新刊「執権義時に消された13人」について対談しました

…、大半は重複しますが北条義時とその父・時政らによって政権の中枢から排除されたり暗殺されたりした13人です) すでにいろんな人が語っているでしょうし、また来年になればさらに多くの人が語るのでしょうが、鎌倉時代初期ってめちゃくちゃドロドロしていて、暗躍暗闘の時代なんですよね。それこそ大河ドラマでは毎週がクライマックスというか、次から次へと事件が起きて主要キャラが退場していくのですから、おもしろくないわけがない。しかも脚本は三谷さんですし。 その原因は鎌倉幕府の創設者であり初代将軍…

【サイン本プレゼントあり】「執権義時に消された13人」のご紹介

…いたのが執権となった北条義時ですが、13人中もっとも若かった彼は最終的には父・時政をも隠居に追い込みました。義時は姉である北条政子とともに鎌倉幕府を安定させた立役者でしたが、同時に彼は後鳥羽上皇から名指しで討伐対象とされた朝敵であり、そして承久の乱では官軍を倒して上皇を配流した悪人としても知られています。 頼朝死後の混乱を血を流すことなく収めることは誰にもできなかったと思いますが、ともあれ北条義時が鎌倉幕府の実質的な支配者となるために度重なる排除がおこなわれたのも事実で、本書…

【クーデターで読み解く日本史】北条義時を謀殺!? 後妻の壮大な野望――伊賀氏の変

…(貞応3年)、執権の北条義時が急死する。これをきっかけに起きた事件は、先述の牧氏事件と非常に似た構造のものとなった。 義時の後妻・伊賀氏が兄で政所執事(政所の長官)の伊賀光宗(いが みつむね)と共謀し、娘婿の伊賀実雅(さねまさ)を将軍、実子の北条政村(ほうじょう まさむら)を執権にしようとしたのである。つまり、幕政を伊賀一族で独占するつもりだったのだ。そもそも「義時が突然亡くなったのは伊賀氏が彼を毒殺したからだ」という説があり、それもまた計画の一部だったのかもしれない。 伊賀…

【クーデターで読み解く日本史】勝敗を分けたの二枚舌――和田合戦

…2年(建暦2年) ○北条義時 ×和田義盛 泉親衡の乱での屈辱的な扱いを受け、和田氏は幕府打倒の軍を挙げた。この挙兵に際しては、先の屈辱に怒り、また北条義時の陰謀を察知してこれを打ち砕くために義盛が率先して動いたのだとも、あるいは義盛自身は「実朝に恨みはないから逆らう気などない」と幕府方の使者に申し出たようにその気はなかったのだが、胤長(たねなが)への恥辱に怒る一族の若い者たちを止めることができなかったのだともいう。 ともあれ、和田氏以外にも味方が集まり、反乱軍は数千の規模に拡…

【クーデターで読み解く日本史】有力御家人の失態につけこんだ北条氏――泉親衡の乱

…なった。 それほどまでに義盛と和田氏は幕府にとって重要な存在で、御家人の中でも特に力のある一族の一つだったのだが、これは逆に言うと北条氏にとっては目の上のたんこぶ的存在だった、ということでもある。北条義時はどうやらこの事件をきっかけに和田氏を排除しようとたくらんだらしい。 結果、まだ罪が許されていなかった胤長は「手を後ろで縛られた姿を一族の前に晒される」という辱めを受けた末に流刑になり、その所領は義時のものになってしまったのである。この挑発が、続く和田合戦の大きな原因となる。

【クーデターで読み解く日本史】父と娘が天下をかけて知恵くらべ――牧氏事件

…2年) ○北条政子・北条義時 ×北条時政・牧氏 梶原景時、比企能員を倒した北条時政・政子親子だったが、やがて二人の関係は雲行きが怪しくなり、ついには対立するようになる。 その背景には、時政とその後妻・牧氏による「娘婿の平賀朝雅(ひらが ともまさ)を将軍の座に就かせたい!」というもくろみがあった。そのためには現在の将軍である実朝を排除しなければならず、これがついに時政と牧氏による実朝暗殺計画にまで発展した。また、これに先立つ形で朝雅と武蔵国の武士・畠山重保(はたけやま しげやす…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府4代・藤原頼経――親王の代わりに招かれた摂家の血 1218年~1256年

…のである。時の執権・北条義時(ほうじょうよしとき)の弟である時房(ときふさ)が1000騎を率いて上洛し、プレッシャーをかけることで朝廷もこれを認め、2歳の頼経が鎌倉に向かうことになった。 征夷大将軍に就任するのはしばらく後のことだが、幕府の長である「鎌倉殿」としてすでに認識はされていたという。実際には北条政子が後見人として政治を取り仕切ったことから、彼女は「尼将軍」と呼ばれた。源氏の嫡流とつながりがあるとはいえ、源氏の一族自体は東国の各地に存在する。にもかかわらず北条氏が頼経…

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