攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

太原雪斎 の検索結果:

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…すが、家康という人は太原雪斎や今川義元にはじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?掛川市のサイトにも 1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。https://www.city.kakegawa.shizuoka.j…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

…そもそも義元の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)が教育を施したとされるエピソードから言っても、義元は家康を「将来の今川氏を支える優秀な一門衆候補」と見なしていたのではないか。 また、松平広忠が死んで家康が三河に不在だった時期、三河の上級武士たちは家康を通り越して義元と直接主従の関係を結んでいたのだが、家康は1559年(永禄2年)にこの上級武士たちと関係性を結び直していたことがわかっている。もちろんその家康の上には今川の重臣がいて、さらには義元がいるわけだが、家康が通説で語られ…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…義元に助けを求める 太原雪斎が安城城を攻略、生捕りにされた信広と竹千代を交換、そのまま竹千代は駿府に 1555年(天文24年)、14歳 3月、14歳で元服して元信 今川義元から偏諱を賜う @今川家での家康は松平家当主として英才教育された、VIP扱い →そもそも当主の立場なので人質という表現はおかしい →逆張り的に「家康は普通の人、凡人」という評価もあるけど、それなりに優秀だったから義元は一門扱いにしたはず 1556年(弘治2年)、15歳 関口義広(親永または氏純)の娘(築山殿…

「戦国合戦の基礎知識」の動画を公開しました

…つのくませきそう)や太原雪斎(たいげんせっさい)などの名前は知っていましたが、日本にもおもしろい軍師がいっぱいいたんですね。 終わりに 一年前に収録したこともあり、いまとは番組の作り方もけっこう変えてます。当時は短めの番組をたくさんつくったほうがYouTubeでウケるのかなと考えて、この日も3本収録してたのですが、いまはあるテーマについてしっかり語ろうと思ったら時間無制限にしたほうがいいと考えています。 あと3本ほど収録済みで公開できてない動画があるのですが、年内にすべて公開…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…、軍師でもあったのが太原雪斎(たいげん せっさい、崇孚(そうふ))だ。 義元は駿河の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男で、本来は家督を継ぐべき人物ではなかった。そのため出家させられた彼には、同時に教育係がつけられた。それが雪斎だった。彼は今川家の重臣の息子で、最初は駿河の、次は京都の寺で修行をしていた。この頃の名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。しかし氏親によって駿河に呼び戻され、義元(幼名は芳菊丸(ほうぎくまる))と共に寺で過ごす。この生活の中で…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…ンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…。氏親正室の寿桂尼や太原雪斎らに擁立された栴岳承芳(後の今川義元)が勝利 戦国時代 1537年(天文6年)〜1545年(天文14年) 河東の乱 駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦い。その後、1554年(天文23年)に甲相駿三国同盟が成立 戦国時代 1542年(天文11年)〜1548年(天文17年) 天文の乱(伊達氏) 伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも 戦国時代 1550年(天文19年) 二階崩れの変 豊後の戦国…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…は名軍師として名高い太原雪斎の薫陶を受け、後の躍進への土台を作った、という。 今川家臣団における若手武将として働いていた家康の運命が大きく変わるのは、1560年(永禄3年)のことだ。この年、義元は長らく争ってきた織田氏に大打撃を与えるべく、2万を超える未曾有の大軍を率いて尾張へ出陣、家康も参加した。一般にこのときの義元の目的は上洛と信じられていたが、近年では領土争いの延長であったと理解されている。誰もが予想しなかったことだが、この戦いの勝者は織田氏であり、その若き当主・信長だ…

【戦国軍師入門】安祥城の戦い――軍師僧・太原雪斎の交渉術

…分の軍師である僧侶・太原雪斎を出陣させる。この時の戦いは「第2次小豆坂の戦い」と呼ばれ、今川・松平軍の勝利に終わる。しかし、この後に問題が起きる。翌年に広忠が暗殺され、松平の主がいなくなってしまったのだ。そこで雪斎は一計を講じ、織田側が拠点にしていた安祥城を攻めた。 この時、雪斎は「城主・織田信広(信長の兄)を殺さず、必ず生け捕りにするように」と全軍に伝えており、実際に彼を捕まえることに成功する。すると、今度は信広を人質として、織田家に竹千代を返すように交渉したのだ。松平をこ…

【戦国軍師入門】6.占い、勝利祈願をする軍師と、僧侶身分を活用した軍師

…語る今川義元の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい)だが、もうひとり最近注目されつつある人物がいる。彼の名は沢彦(たくげん)。京都の妙心寺に学んだ僧侶だ。織田信長が稲葉山城を岐阜城に改名した際にこの案を出し、さらに「天下布武」の言葉を贈った人物でもある。 信長は配下に有力な武将を多く擁しながらも、参謀的な存在である軍師をおかなかった戦国大名とこれまで言われてきた。しかし最近の説には、この沢彦こそが信長の師として様々なことを教えた人物であり、また軍師として桶狭間の奇襲を始めとする作…

明智光秀と太原雪斎――あるいは光秀と軍師

歴史好きには「雪斎(せっさい)」の名で知られているが、事典などには「太原崇孚(たいげんそうふ)」と記されることが多い。雪斎は号である。今川家臣の子として生まれた雪斎は、10歳にして仏門へ入れられ、その後父の主君である今川氏親の子、芳菊丸(のちの今川義元)の教育係・補佐役としてつけられた。そのままであれば二人は生涯を僧侶として過ごしただろうが、そうはならなかった。芳菊丸の兄が死に、今川家は後継者争いに突入したからである。 この血で血を洗う内紛において芳菊丸を勝利させ、戦国大名・…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…之助 今川家当主。 太原雪斎 伊吹吾郎 義元の軍師。 藤吉郎(豊臣秀吉) 佐々木蔵之介 尾張の農民。のちの豊臣秀吉。 細川晴元 国広富之 室町幕府の管領。 三好長慶 山路和弘 細川家の家臣。 松永久秀 吉田鋼太郎 三好家家臣。 伊呂波太夫 尾野真千子 【架空】旅芸人一座の女座長。 朝倉義景 ユースケ・サンタマリア 越前を支配する戦国大名。 近衛前久 本郷奏多 関白。 芳仁 ベンガル 【架空?】駒の灸の患者。 スタッフリスト 語り・ナレーション 市川海老蔵 時代考証 小和田哲男…

【戦国を彩る名軍師たち】東海一の弓取りを育て、支えた軍師・太原雪斎

閑室元佶が占いの技術で重宝がられ、安国寺恵瓊が毛利氏の外交を一手に担って大名にまでなったように、戦国時代の僧侶はしばしば大名に協力して軍師的な役割を担った。しかし、その中でも政治・行政どころか軍事にまで関与し、一軍の大将になったことさえある僧侶となると、そうはいない。その例外こそが今回紹介する太原崇孚(そうふ、「雪斎 せっさい」の号で有名)である。 崇孚はもともと東海の雄・今川氏家臣の家に生まれたが、幼くして出家し、京で修行に励んでいた。そこを当時の今川氏当主である今川氏親に…

【サイン本プレゼントあり】「日本坊主列伝」のご紹介

…られる「黒衣の宰相」太原雪斎をはじめ、武田信玄のブレーンだった快川紹喜、伊達政宗の教育係だった虎哉宗乙など、戦国武将と僧侶の関係は非常に深いものばかりです。 また今回は戦国時代の前後に活躍した僧侶も含めた一覧となっています。 目次から抜き出すとこんな僧侶たちが紹介されているのですが、天皇の地位を狙った道鏡や、源義経を守った武蔵坊弁慶など鎌倉時代以前の僧侶、南光坊天海や以心崇伝など江戸幕府のブレーンとなった僧侶たちが見事に並んでいますね。 1 古代~鎌倉 道鏡 行基 空海 蘆屋…

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