攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

姉川の戦い の検索結果:

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…ない。そして、例えば姉川の戦いなどでの徳川軍団の活躍に「これはちょっと徳川家へのよいしょが入っているのではないか?」という疑いがあるように、「家康が戦に強い」というのは「天下人になるような人は強いに決まっている」「家康様は強くて当然」という後世からの改変が入っているのではないか、と疑えてしまうのだ。 だからといって、家康が戦に弱かった、と言ってしまうのも無理がある。家康は三河一向一揆によって家臣団が切り崩されても、そこから立て直すことができた。武田信玄や勝頼らに圧されても、ギ…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…いことに気づきます。姉川の戦いのように信長の援軍として参加した合戦、武田信玄に攻め込まれての防衛戦など、巻き込まれた合戦の数があまりに多い。三英傑でくくられる信長や秀吉と比べても圧倒的に武力制圧による領土拡張が少ないですよね。 関ヶ原の戦いや大坂の陣が有名すぎて、家康が意外と合戦してないということは考えもしなかったのですが、この時代の人の中でも「外交カードとしての合戦」の優先順位がかなり低かったのかもしれません。べつにだから平和主義者だったとは思わないのですが、信長や秀吉とは…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

姉川の戦いと言えば、織田信長と朝倉義景・浅井長政の間で起こった戦いとして有名です。この戦いに徳川家康はどのように関わっていたのでしょうか? そして、この戦いを経て状況はどのように変わったのか。家康の足跡をたどります。 織田信長vs浅井長政・朝倉義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…の退き口 6/28、姉川の戦い 6月、信長の勧めで浜松城を築いて移る 10月、上杉謙信と同盟を模索。武田家臣・秋山虎繁による遠江侵攻という約束違反による不信感から 1572年(元亀3年)、31歳 義昭から家康へ状況を心配する御内書 御内書原本は不明だが、11月に側近の朽木輝孝宛の返書が残っている @つまりこの時点では義昭は信長・家康側にいて、信玄の西上作戦に義昭は関わっていない証拠 →信長包囲網の再検討が必要。そもそも信玄の出陣は上洛目的だったのか? 12月、三方ヶ原の戦い …

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…ースもあるのですが、姉川の戦い(1570年)で敗れた浅井家・朝倉家の滅亡は3年後、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田家の滅亡は7年後、上述の今川家にいたっては桶狭間の戦い(1560年)からなんと9年後に滅亡と、いずれもしぶとく戦い続けています。そのほか今回は大内家や龍造寺家などの事例も榎本先生に調べてきていただきました。 www.youtube.com 北条家(小田原征伐)や豊臣家(大坂の陣)のように大軍で居城を攻められての籠城戦の場合はそのまま滅亡になっているものの、野戦…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…めたといわれます。 姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠設楽原の戦い、高天神城の戦い、小牧・長久手の戦い 浜松城に在城したのは29〜45歳までの約17年間です。この17年間は家康にとって非常に深い期間だったと思われます。つまり、織田信長との同盟、武田信玄の侵攻、武田勝頼との攻防、織田信長の死、羽柴秀吉との争いなどたくさんの出来事があったからです。これらの出来事のすべてに対してここ浜松城から出陣し、大物武将と激突したのです。詳しいことは別のコラムに譲りますが、三方ヶ原の戦いでは家康…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…秀吉の軍師として、「姉川の戦い」を始めとする浅井・朝倉との長い戦いや、中国地方への侵攻などで活躍する。この間の出来事として様々な逸話が現代に残っている。 例えば、「姉川の戦い」の時のことだ。近江の国の姉川で両軍が対峙した時、浅井・朝倉の連合軍に対して、織田軍は大きく横に広がった鶴翼の陣を敷いた。しかし、これでは敵の突撃に耐えられず信長のいる本陣を攻められてしまうと考えた半兵衛は、秀吉の部隊の布陣を変えさせる。まず前面に騎馬部隊の半分ほどを展開させてもう半分に円陣を組ませ、さら…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…ヶ崎撤退戦、そして「姉川の戦い」、1573年(天正元年)の小谷城攻め、1574年(天正2年)の伊勢長嶋一向一揆討伐、1578年(天正6年)からの中国地方攻め、そして1582年(天正10年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。 また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

…信長は激怒。同年には姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破るも、両者に決定的な打撃を与えるには至らなかった。その後、信長はいわゆる「信長包囲網」で苦しみつつ、ゆっくりと浅井氏を追い詰めていく。姉川の戦い後に得た横山城に入れた木下藤吉郎(豊臣秀吉、ここでは秀吉で統一)らを使って、近江の国人衆や浅井家臣団に対する切り崩し工作を進めていたのだ。 1573年(天正元年)、武田信玄の病死によって最大の脅威から開放され、また将軍・足利義昭を京より追いやった信長は、いよいよ浅井攻め、小谷城攻…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…今川氏との戦いや、「姉川の戦い」などに加わっている。とくに旧主君である今川氏の掛川城(静岡県掛川市)を攻めた際には、和睦が成立してなお徳川に不審が強く、城を明け渡そうとしない今川氏真を説得したという(『寛政重修諸家譜』)。ところが、今川氏が滅んで徳川氏が三河・遠江の盟主となっても、奥三河の情勢は安定しなかった。永禄8年、隣接する甲斐(山梨県)・信濃を治める武田信玄が侵略を開始したのである。 徳川氏の戦略において、信濃との国境に面する山家三方衆は対武田の最前線と位置付けられてい…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

…連合軍が迎え撃った「姉川の戦い」で敗れもしたが、数年にわたって信長にとってかなり厄介な存在だったのは事実であろう。しかしついに朝倉氏とともに織田の軍勢に敗れ、居城の小谷城を攻め落とされて死ぬことになる。だが、妻のお市は信長のもとへ戻り、長政とお市の間に生まれた3人の娘が歴史の重要な場面へ顔を見せることになる……。 長政は「信長を裏切った男」の中でも、光秀と並んで特に有名なうちの一人と言っていいだろう。信長が完全に油断していた背中を狙った、という点で似ているといってもいい。動機…

明智光秀と朝倉義景ーーあるいはあやふやな朝倉家臣伝説

…だが、信長と義昭の関係が悪化する中で再び出番がやってくる。信長はライバルとなりうる義景を打倒するべく兵を挙げるが、その背後を義兄弟・浅井長政につかれて辛くも生き延びる。信長が体制を整えて反撃を試みた「姉川の戦い」には、義景も大軍を送り込んで長政を助けるも結局負けてしまう。しかし信長もこの戦いで浅井・朝倉を倒すことはできず、両者は信長包囲網の一翼を担って長年にわたり信長と戦う。戦況は次第に信長有利と移り、ついに義景は本拠地・一乗谷の朝倉館に攻め込まれ、滅びてしまうのだった……。

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…70年(元亀元年)の姉川の戦いに参戦していたとも)、やがて家康第一の側近として頭角を現した。その活躍としては、家康が豊臣政権によって与えられた新領地・関東の経営を始めとして、行政官的なものが多かった。それに加え、家康が豊臣政権を打ち倒して江戸幕府を作り上げる過程での各種の謀略にも関わったとされる。 正信に対する家康の信頼は抜群で、両者の関係はしばしば「水魚」に例えられ、また何度も話し合わずとも、少しの言葉のやり取りで理解し合うことが出来たとされる。正信のほうもこれに応えて大い…

【戦国を彩る名軍師たち】夭折の天才軍師・竹中半兵衛

…進言は非常に的確で、姉川の戦いなどでも彼のお陰で秀吉は活躍できたというし、その後の中国出兵でも調略などを中心に大いに働いたという。もう一人の「両兵衛」である官兵衛が野心家であったのとはまったく対照的で、たとえば以下の様なエピソードに二人の違いが現れている。 あるとき、官兵衛は秀吉が所領を増やしてくれないと証拠の紙を手に不満を漏らした。すると半兵衛はその紙を燃やし、「そんな紙があるからあなたは不満を持つのだ」と言った、というのだ。 このように性格が正反対であったにもかかわらず、…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

… 4 7月30日、「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が交戦する。 1571年(元亀2年) 5 1572年(元亀3年) 6 父・昌幸が武藤家を継いで武藤喜兵衛を名乗る。 12月、「三方ヶ原の戦い」で武田軍が徳川軍を破る。 1573年(天正元年) 7 武田勝頼、昌幸らを長篠城救援に派遣する。 4月、武田信玄が病死。武田勝頼が家督を継ぐ。 1574年(天正2年) 8 1575年(天正3年) 9 「長篠の戦い」で叔父(昌幸の兄)にあたる信綱、昌輝が戦死したため、昌幸が…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する