徳川慶喜 の検索結果:
…。今回は徳川家康から徳川慶喜まで歴代征夷大将軍15人の正室(御台所)という視点から江戸時代を見てみました。 youtu.be 結論として3代・家光以降、大半が京都の皇族(宮家)や摂関家から嫁入りしていましたが、なかには皇女もいたり、その時々の幕府と朝廷のパワーバランスが垣間見えます。皇族も途中までは天皇との血筋が遠い伏見宮家からでしたが、10代・家治の正室には当時の天皇と非常に近しい血筋の閑院宮家から来ているなど、時代によって違いが見られます。 あるいは急遽将軍職に就くことに…
…う)へ、そして将軍・徳川慶喜へと伝えられる。そして、これを受け入れた慶喜は朝廷に政権の返還を申し出た。1867年(慶応3年)10月のことだ。これによって260年を超える江戸幕府による統治は名目上終わりを迎えたことになる。しかし、現実には数百年の間実際の統治を行ったことがない朝廷に政権担当能力はなく、引き続き幕府が行政を行うことになった。 そもそも、慶喜としては討幕派に白旗を揚げるために大政奉還したのではなくむしろ逆で、来るべき天皇を中心にした新政府において徳川氏が重要な役割を…
…足しており、幕府軍の士気は低い。一方の長州側は追い詰められた状態だったので士気が高く、また兵の練度も装備の質も幕府方を圧倒するものだった。しかも、自ら大坂まで出向いて遠征軍の指揮を執っていた家茂が病に倒れ、そのまま亡くなってしまったのである。 代わって将軍に就任した徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)がどうにか戦いを終わらせたために第二次長州征伐は幕を閉じたものの、この戦いは実質的に長州藩の勝利であった。このことはただでさえ低下していた幕府の威信に致命的なダメージを与えたのである。
…さらに将軍候補として徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を擁立していた一派に対して激しい弾圧を加え、排除してしまう(安政の大獄(あんせいのたいごく))。 この豪腕が様々な問題を解決したのも事実だが、一方で諸勢力の反感を買うことにもなる。特に問題が複雑だったのが尊皇攘夷(そんのうじょうい=天皇を敬い、異国を排除する)思想発祥の地である水戸藩の場合だった。朝廷から幕府の経由なく直接「異国を排除するために働くように」という命令書が下り、しかもその命令書を返還するよう幕府に求められたのだ。…
…されていた一橋慶喜(徳川慶喜)を推す者たちが激しく争った。価値観は時代の趨勢によっていくらでも変わるもの、という一例になるかと思う。 豊臣との縁切りのための廃嫡 とはいえ、まだまだ動乱の余波が収まらぬ江戸時代初期には少なくない数の争いがあり、本来嫡男でありながら廃嫡されてしまった者がいた。特に本連載で注目するのは、「天下人が豊臣から徳川に移り変わったため、豊臣とかかわりがあったり、他大名とかかわりがあったりする嫡子が廃されてしまう」ケースである。 先述したように、幕府は江戸時…
…とも一目瞭然ですし、徳川慶喜が将軍を辞任後に長生きしたこともわかります。 やりたかったこと、やろうとしていること 台本もしっかりと用意しましたが、いざ司会進行をしてみるとなかなか台本どおりに進めるのはむずかしかったです。ただある程度は自由に脱線しながら話したほうがおもしろくなるなとも思いました。 ぼくが歴史やお城の専門家ではないこともあり、攻城団TVではサイト同様に初心者が楽しめる、ただ興味さえあれば気後れせずに視聴・参加できる番組を目指しています。そのためにも自分の知識をひ…
「ねじ上げの酒飲み」式将軍就任 幼名は七郎麿(しちろうまろ)。武家政権の時代の最後を飾る征夷大将軍。幼少期から英明を謳われた人物ではあるが、衰退していく巨大組織を救うことはできず、また討幕に向かって突き進んでいく時代の流れを変えることも不可能だった。 彼は御三家の水戸藩・徳川斉昭の七男で、一橋家に養子として入って一橋慶喜を名乗った。本来は江戸で育てられるしきたりなのだが、斉昭の教育方針で水戸育ちになった。幼少期は大変な腕自坊主だった。その一方で厳しくしつけられており、「寝相の…
…年の内に一橋派として徳川慶喜を擁立した者たちや尊王攘夷派などを徹底的に処罰する「安政の大獄」を起こすが、それによって恨みを買ってしまい、1860年(万延元年)には暗殺されてしまう。これが「桜田門外の変」だ。 生まれる前に父を亡くしていた家茂にとって直弼は父親のような存在だったのか、彼のいうことなら素直に聞いたとされる。それだけに直弼の死には強い衝撃を受け、しばらく食欲を失ったという。その後に幕政の第一線に立ったのは老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)で、この人はすっかり地に落…
…喜(後の15代将軍・徳川慶喜)であった。慶喜は少年のころから才覚を高く評価されており、また家慶は彼の父の斉昭を頼りにしていたようだから、そのバックアップに期待する部分もあったのかもしれない。しかし、結局この話は流れてしまう。どれだけ頼りなくても、将軍の子がいるのにそれを廃して御三卿・御三家から連れてくるのはあまりにも問題がある、と判断されたのだろう。 対外問題と継嗣問題にはさまれて 家定の時代、幕府はふたつの問題を抱え、混乱していた。ひとつは先代から引き続いて頭痛の種になって…
…江戸幕府15代将軍・徳川慶喜がキーパーソンとして登場していますが、来年の「鎌倉殿の13人」にも源頼朝が、また再来年の大河ドラマ「どうする家康」の主人公は徳川家康と、それぞれ幕府をひらいた歴史上の重要人物が登場することになっています。 もはや将軍の存在を抜きにして中世・近世は語れないわけですが、その参考書としてもきっと役に立つ一冊になると思います。今回はこの「将軍の日本史」をエムディエヌコーポレーションさんより5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも榎本先生のサイン入…
…将軍 大伴弟麻呂から徳川慶喜まで1000年を超える征夷大将軍の歴史(とはいえ、途中で性質を少なからず変えてはいるのだが)を語るにあたって、まずは征夷大将軍という役職が誕生した古代、奈良時代末期から平安時代にかけてみていきたい。この時代の将軍と以後の将軍との大きな違い、それは「古代の将軍は幕府の長ではない」ということである。鎌倉時代以降の将軍は実質的な権限が備わっているか否かという違いはありつつも、武家政権にそのトップとして君臨する存在であった。しかし、古代の将軍は天皇から軍事…
…も当時のままなので、徳川慶喜がさわったかもしれないと思いながら見てみてください。(たぶん将軍自ら取っ手にふれることはないと思うんだけど) 二条城からは黒書院、大広間にある、あの大きな釘隠しも展示されていました。本物をはずして持ってきてるとすれば、いま二条城には釘隠しがはずされたところがあるってことですよね。廊下の裏側の柱なら見えないから、そのあたりのを取り外したのでしょうか。 甲冑や刀剣好きの方も満足できるはずです。第2会場では大量の甲冑、そして刀剣が展示されていました。伊達…
…後の将軍、第15代・徳川慶喜に嫁いだ公家のお姫様。慶喜と婚約していた姫があばた顔になり、その身代わりとして嫁ぐことになりましたが、篤姫と同じく御所が炎上した「嘉永の大火」で輿入れが一度、延びています。やっと嫁いだと思ったら、今度は義理の祖母・徳信院直子(祖母といっても慶喜との年齢差はわずか7つ)と慶喜の「恋人同然」の仲の良さに嫉妬を覚える日々が続き、ついには自殺まではかり......。「篤姫」と「和宮」と違い、夫との夫婦仲はなんだか微妙ですが、徳川幕府滅亡の影にこういうお姫様…
…将軍、第15代将軍・徳川慶喜が誕生します。もともと慶喜は水戸徳川家の生まれで、それが一橋家を相続し、さらに将軍となるわけで、かなり数奇な運命をたどった将軍といえます(しかも在任期間は約1年しかない)。大政奉還などはみなさんもご存知のとおりですが、慶喜はなんと大正時代まで生きてるんですね。77歳まで生きたので、徳川歴代将軍の中でも最長命でした。 ――ということで、ざっと徳川将軍家の歴史を見てきましたが、家康(初代)が安定政権を目指してつくった仕組みの御三家をぶち壊したのが、その…