攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

梶原景時 の検索結果:

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…00年(正治2年) 梶原景時の変 源頼朝の死後、腹心であった梶原景時が御家人66名による連判状によって幕府から追放され、一族が滅ぼされた事件 鎌倉時代 1201年(建仁元年) 建仁の乱(城長茂の乱) 梶原景時の庇護を受けていた城長茂(じょう ながもち)ら城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱 鎌倉時代 1203年(建仁2年) 比企能員の変 2代将軍・源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事件 鎌倉時代 1203年(建仁3年)〜1204…

榎本先生の最新刊「執権義時に消された13人」について対談しました

…れます。 具体的には梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱、牧氏の変……と変や乱が繰り返され、そのたびに有力御家人や将軍候補が表舞台から退けられていきました。まさに生き残りゲームの様相を呈した中で、最後の勝者となったのが北条義時でした。でもそれは綱渡りの勝利であり、誰が勝ってもおかしくない状況でした。ちなみに「変」とか「乱」といった呼称も勝った側の正当性を誇示するためにつけてるだけで、大義がどちらにあったかはまた別の話です。 脱線のようでいて本質っぽい話も ついついいろんな…

【サイン本プレゼントあり】「執権義時に消された13人」のご紹介

…物として、北条時政・梶原景時・阿野全成・比企能員・源頼家・畠山重忠・平賀朝雅・宇都宮頼綱・泉親衡・和田義盛・源実朝・後鳥羽上皇・三浦胤義の13人が紹介されています。ぼくはひと足先に読ませていただきましたが、とてもおもしろかったです。 今回はこの「執権義時に消された13人」を株式会社ウェッジさんより5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも榎本先生のサイン入りです!)応募は簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の編集を担当された牧元さんと著…

【クーデターで読み解く日本史】勝敗を分けたの二枚舌――和田合戦

…ちの挙兵を伝えたのは梶原景時の変や牧氏事件で北条氏に協力した三浦義村(みうら よしむら)だ。彼は和田氏と同じ三浦一族で、はじめ和田氏に味方するという文書まで書いたが、後になって北条氏側につき、義時に義盛らの挙兵について密告したのである。 やがて鎌倉を舞台に和田勢と幕府勢が激突。2日間にわたる激しい戦いの末に、実朝の発した「義盛を討伐させよ」という命令がターニングポイントになって和田勢は劣勢に追い込まれ、ついに打ち破られたのである。和田氏の滅亡後、侍所別当の職は義時のものになり…

【クーデターで読み解く日本史】父と娘が天下をかけて知恵くらべ――牧氏事件

… ×北条時政・牧氏 梶原景時、比企能員を倒した北条時政・政子親子だったが、やがて二人の関係は雲行きが怪しくなり、ついには対立するようになる。 その背景には、時政とその後妻・牧氏による「娘婿の平賀朝雅(ひらが ともまさ)を将軍の座に就かせたい!」というもくろみがあった。そのためには現在の将軍である実朝を排除しなければならず、これがついに時政と牧氏による実朝暗殺計画にまで発展した。また、これに先立つ形で朝雅と武蔵国の武士・畠山重保(はたけやま しげやす)が対立すると、時政は重保と…

【クーデターで読み解く日本史】逆らう者は将軍でも間答無用――比企能員の変

…条時政 ×比企能員 梶原景時を排除したことによりますます力を強める北条氏だったが、まだまだ強力なライバルはいた。将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の側近中の側近であり、頼家の妻・若狭局(わかさのつぼね)の父である比企能員(ひき よしかず)だ。若狭局はこの頃すでに頼家の子・一幡(いちまん)を産んでいた。順当に考えて、頼家の跡は彼が継ぐことになるはずである。そうなった場合、比企一族は「将軍の身内」としてこれまで以上に大きな力を振るうのは目に見えていた。 そんな中、頼家が病に倒…

【クーデターで読み解く日本史】寵臣も後ろ盾を失えば孤立無援――梶原景時の変

…年) ○鎌倉幕府 ×梶原景時 征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなったのは1199年(正治元年)のことである。源氏の家督と将軍の座を継いだのは嫡男の頼家(よりいえ)だったが、彼はまだ若冠18歳で騎慢な性格が目立つ部分があり、また妻の実家である比企氏(ひきし)ばかりを重用するなど、その統治者としての力量には疑問符がついた。 そこで頼朝の妻・政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)をはじめとする老臣たちは裁判で判決を下す権限を頼家から取り上げ、重臣たち12人が会議…

【歴代征夷大将軍総覧】摂家将軍・親王将軍――鎌倉時代②

…節がある。すなわち、梶原景時(かじわらかげとき)・比企能員(ひきよしかず)・畠山重忠(はたけやましげただ)・和田義盛(わだよしもり)といった有力御家人が北条氏によって攻め滅ぼされた一方で、二代将軍・源頼家を排除した際には13人の宿老による合議制を形成したし、その後執権として大きな力を持つようになってからも、しばらくは御家人たちの意見をうまく取り入れようとする姿勢が見られたのだ。 そもそも鎌倉幕府そのものの窮地になりうる事件もあった。1221年(承久3年)には後鳥羽上皇が武家政…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府2代・源頼家――父の権威を継承できなかった御曹司 1182年~1204年

…だ。頼朝以来の寵臣・梶原景時ら側近ばかりを重用する。乳母および妻の実家である比企氏にも深く接近する。狩りに執着し、世間にそしられる。蹴鞠に熱中する。領地争いの裁定という大事な仕事に対して、絵図の真ん中に線を引いて終わりというような乱暴な処理をする。ある御家人の妾を奪ったばかりか、その男を殺害しようとし、命がけで立ちはだかった母に制止される……どれも、成立したばかりの大組織の長としてはやってはならないことばかりだ。 結果、頼朝の死からわずか3ヶ月後、母方の祖父にあたる北条時政を…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府初代・源頼朝ーー心を鬼とし、武家政権の礎を築く 1147年~1199年

… このとき、平氏方の梶原景時が山中で頼朝を発見したものの、なぜか逃がしてしまったので、頼朝は九死に一生を得ることになった。その後、勢力を回復した頼朝は景時を傘下に加えると「一番の部下」というほどに大変重用した。平氏征伐に向かった源義経につけられて彼とたびたび対立して讒言し、ついに頼朝・義経兄弟が決別する原因を作ったとされることでも有名である。すなわち、頼朝は弟よりも景時を信じたわけで、このときの一件が大きかったのかもしれない。そしてなぜ景時が頼朝を逃がしたのか。これは謎とされ…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する