攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

淀殿 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…うとしません。一方で淀殿が送った使者は丁重にもてなし、何も心配することはないと伝えました。且元は秀頼が大坂城を出ること、淀殿を江戸へ送ること、秀頼が幕府の支配下にはいることの3つの条件を提示しますが、大坂方は裏切り行為として且元討伐を決めます。ここで家康は待ってましたとばかりに大坂方を討つ正当性をもって、武力による解決の道を選びます。この辺りは家康の方が試合巧者だったと言えるでしょう。大坂方が反発することも計算に入れた上で、且元から徳川寄りの条件を出させ、大坂成敗の名目を作っ…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…城すると本丸で秀頼と淀殿に戦勝報告をしました。家康は依然として秀頼政権を支える宿老という立場であることがよくわかるエピソードです。関ヶ原の戦いによって天下人になったという認識はフラットにしたほうが良いでしょう。家康は秀頼の臣下という立場で諸大名の大幅な加増・減封・改易・転封などに辣腕を振るいましたが、封建的主従関係の基本ともいえる領地宛行状を発給することはできていません。やはり、諸大名は秀頼の臣下であり豊臣公儀が続いていたのです。そのため、家康は徳川公儀を確立するために奔走し…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…年)、52歳 8月、淀殿が拾(のちの秀頼)を出産したため、秀吉は大坂城へ帰る 家康を含む渡海しなかった大名が伏見城の普請を担当 家康も翌年上洛し、10月に江戸へ戻った 1595年(文禄4年)、54歳 7月、豊臣秀次が高野山へ追放、切腹(秀次事件) @自ら切腹したのか、秀吉の命によるものかは諸説あり 病の秀吉が起請文を提出させる 秀頼を頂点とした体制の構想=在京を原則とした体制=室町幕府を踏襲 →江戸幕府が当初、豊臣政権ほどの支配力がなかった証拠か 1596年(慶長元年)、55…

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…弟にあたる片倉景綱、淀殿の乳母・大蔵卿局の子である大野治長など、乳母の関係を通じて出世した人物は多数います。そして江戸時代でも、おそらくもっとも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。 けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という言葉があったりしますが、生みの親より育ての親に愛情が向くのは自然なことだし、本…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…配していた秀頼の母・淀殿が怯えてしまい、これに応じる。 こうしてひとまず戦いは終わったかに見えたのだが、謀略という意味では全く終わってはいなかった。この時の和平の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊すること」「堀を埋めること」などがあったのだが、徳川家がつけ込んだのは堀についての条項だった。 この時、豊臣側としては堀とは外堀のことだけのつもりだったのだが、徳川側の交渉担当だった本多正純は全部の堀(総堀)のことである、として工事を強行し、堀をすべて埋めてしまう。天下の堅…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…の妻は豊臣秀吉側室・淀殿の妹である初だ。この境遇からわかるように豊臣氏と関係が深く、それもあってこの重要拠点である大津城を任せられていたのだが、実は早くから徳川家康と通じていたらしい。最初は西軍に従う素振りだった高次だが、家康が会津に出陣するとこれに従い、その後も東軍に味方する動きを見せた。これを知った西軍は大津城を包囲して大砲などで攻撃し、激しい攻防戦が繰り広げられた。 戦いが始まってから数日後、西軍から開城を勧めるため使者が送られてきた。高次にはまだ抗戦する意思があったよ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…った戦いの中で、信繁は三度にわたる家康本陣への突撃を敢行。家康まで後一歩と迫ったものの、側面からの攻撃にこらえきれず、力尽きた。 大坂城は内部からの火で燃え、追い詰められた秀頼とその母で大坂城の実権を握っていた淀殿もまた、自刃して果てた。豊臣政権はその後継者と象徴を失って完全に消滅し、以後長い間武士同士の大規模な合戦は日本より絶えてなくなった。戦国時代は終わったのである。大坂城の炎上は、まさにその象徴であった。 kojodan.jp kojodan.jp kojodan.jp

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…が三度にわたる突撃を敢行し、家康の本陣にまで後一歩に迫る活躍を見せたが、やはり個人の武勇では兵力の差を覆しきれずに討ち死にする。大坂城は燃え、追い詰められた秀頼とその母・淀殿も自害して果て、こうして豊臣氏は滅亡したのだった。 これを機に年号は元和と改められ、「元和偃武(げんなえんぶ)」の時代が到来した。偃武とは武器を伏せて収めることであり、つまり合戦のない泰平の時代のことである。実際、これ以後は幕末の混乱期まで、合戦や暴動などがあっても局地的な、小規模なものにとどまったのだ。

【殿様の左遷栄転物語】3章まとめ 後継者問題の難しさ

…とができず、ようやく淀殿との間に生まれた鶴松は1591年(天正19年)に夭折してしまった。そこで甥である秀次を養子とし、関白の座にまでつけて後継者に選んだ。ところが2年後、淀殿が第二子として秀頼を生んだため、両者の関係は非常に複雑になってしまった。 実子を後継者にしたい秀吉と、自らの地位を守りたい秀次の対立が激化し、最終的に、1595年(文禄4年)、謀反の罪に問われた秀次は切腹へと追い込まれる。これに際して、秀次が乱心してさまざまな悪事・凶行に手を染めたことがしばしば語られる…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…側についた京極高次(淀殿の妹・お初の夫として有名)の籠もる大津城攻略に参加していたからである。この城が落ちたのと関ヶ原の戦いの終結は同日(9月15日)であった。三成が敗れたことを知った宗茂は豊臣家の本拠地である大坂城に入り、徹底抗戦を主張したものの受け入れられず、やむなく九州へ戻って柳川城に籠もった。 九州では立花家の旧主人である大友義統(宗麟の子)が、西軍側について兵を挙げていたもののすでに敗れていた。宗茂の籠もる柳川城も加藤・黒田・鍋島といった東軍側諸大名の軍勢に囲まれて…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…室として秀頼を産んだ淀殿である。お江は気の強い女性であったとされ、その怒りを恐れた秀忠はひとりも側室を持たなかった。身分の高い武士なら複数の側室を持つのが当たり前だったこの時代、これは非常に珍しいことだった。 ただ関係を持った女性はいて、子も生まれたのだが、「将軍の子」としての認知はできなかった。これが後の会津藩主・保科正之で、4代将軍・家綱の側近として活躍する。女性関係では、こんな話もある。あるとき、家康が秀忠のところに美人の女中を1人送り込んだ。口実として菓子は持たせたが…

大津城 開城がわずかに早かった城

…高院)が秀吉の側室・淀殿の妹であることが影響している。 秀吉の没後は豊臣政権で権力を握った徳川家康に通じ、信頼関係を築くにいたった。そのため、家康と石田三成の間で「関ヶ原の戦い」が起きると、家康に味方している。この戦いは天下分け目と称され、実質、秀吉の後継者を決める戦いであった。家康は江戸に、三成は近江にいたため、前者を東軍、後者を西軍と呼んでいる。 1600年(慶長5年)7月、西軍・毛利輝元の挙兵に際し、従うふりをした高次も2千の兵を率いて東軍・前田利長に対抗するために出陣…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…坂の陣」で豊臣秀頼や淀殿(茶々)とともに死んでいます。 昌幸の死去 1611年(慶長16年)に昌幸は九度山にて死去します。 昌幸の最後はどんなシーンになるんでしょうね。泣いちゃいそうです。 九度山脱出 1614年(慶長19年)、「方広寺鐘銘事件」という歴史上もっともひどいともいえるような難癖でもって徳川と豊臣の関係が悪化すると、信繁のもとにも呼びかけがあります。 信繁は秀頼からの依頼に応えて、九度山を脱出して大坂城に入城するのですが、この脱出劇はドラマとしてもおもしろくなりそ…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…する。 1615年(元和元年) 49 信繁、家康から寝返りの条件として「信濃一国40万石を与える」と提示されるがこれを断る(諸説あり)。「大坂夏の陣」で家康本陣に突入するも5月7日、討死(安居神社)。幸昌は秀頼を警護していたが、5月8日に秀頼・淀殿母子とともに自刃。 ほんとはそれぞれの側室と結婚した年とか、子どもが生まれた年も入れたかったんですけど、信繁はそういう記録が残るほどの武将じゃなかったみたいで、ぜんぜんわかりませんでした。 (まあ信繁本人の誕生年すら曖昧ですからね)

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