攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

赤松氏 の検索結果:

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…氏の名を継がせた。 赤松氏 播磨の武家。村上源氏の流れを汲み、鎌倉時代初期に播磨の地頭になったが、この頃は赤松はまだ名乗ってなかった。赤松則村(のりむら)が鎌倉時代末期に幕府を滅ぼすのに早くから参加し、しかも尊氏が挙兵するとこちらにも素早く味方して、室町幕府で大きな地位を占めた。 一色氏 足利一族。だから当然清和源氏。足利泰氏(やすうじ)の子が三河吉良荘一色に住んだところにはじまる。南北朝時代の動乱では九州で戦ったがなかなかうまくいかず、最終的には本州に戻った。 山名氏 清和…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…にはここを居城とする赤松氏によって増改築され、以後何度かその主人を変わった。播磨・美作・備前三ヶ国の境にあたり、かつ因幡にも通じることから、中央から中国地方の奥に進むにしても、あるいはその逆をたどるにしても、必ず押さえておかなければいけない要地といえる。戦国時代後期、羽柴(豊臣)秀吉の率いる織田軍が中国侵攻を進めた際には毛利氏傘下の赤松政範が拠点としていたが、秀吉によって攻め滅ぼされる。 その後、秀吉の命を受けて上月城主として入ったのが、尼子勝久(あまご かつひさ)だ。彼はか…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…吉の乱により滅亡した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮(あんぐう)を襲い、南朝の皇胤である自天王(じてんのう)と忠義王(ただよしおう、後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件 室町時代 1467年(応仁元年)〜1477年(文明9年) 応仁の乱(応仁・文明の乱) 細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐり約11年間にわたって継続した内乱。1493年(明応2年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる 室町時代 1476年(文明8年)〜1480…

【クーデターで読み解く日本史】南朝の残党を隠れ蓑にした実力者の暗闘――禁闕の変

…り深い陰謀の影を指摘されることもある。嘉吉の乱後に台頭した畠山氏を追い落とすために山名氏・細川氏らが密かに南朝残党を支援したといい、またやはり嘉吉の乱で滅亡した赤松氏残党が山名氏らの指示を受けて(赤松氏討伐に活躍し、その旧領を獲得したのが山名氏であった)禁裏襲撃に参加した、というのだ。 この説によるならば、禁闘の変とは南朝残党を利用した守護大名同士の暗闘であった、といえる。このような事件が起きてしまうくらいに将軍の権威は低下しており、それはやがて来る破滅の前兆だったのである。

【クーデターで読み解く日本史】謀殺将軍にふりかかった謀殺の罠――嘉吉の乱

…もちろん、その犯人は赤松氏であった。満祐やその子の教康(のりやす)らは刀に刺した義教の首を掲げ、屋敷に火を放って、本拠地へ戻ったとされる。犯行の動機は義教への不信感であった。当時、義教が赤松氏の庶流である赤松貞村(あかまつ さだむら)に2ヶ国守護の座を与えようとしている、という噂が流れており、これに危機感を覚えた赤松氏は将軍暗殺という暴挙に踏み切ったのである。 この緊急事態に対応したのが、暗殺の場から命からがら逃げ出した管領・細川持之である。彼は義教の子の千也茶丸(せんやちゃ…

【クーデターで読み解く日本史】守護打倒を夢見た国衆たちの蜂起――播磨の国一揆

…一揆勢力が播磨守護の赤松氏と対決するようになった。播磨の国一揆である。一揆の蜂起は11月頃に始まったもので、一部徳政が認められるなど守護側にも歩み寄りの姿勢が見られた。しかし翌年、突如として赤松氏が手のひらを返して弾圧の構えを取ったため、両者は1ヶ月あまりもの間激しく争った。結局、守護・赤松満祐が軍勢を率いて京より戻ったこともあり、一揆による武力反乱は鎮圧されることになった。 播磨の国一揆が正長の土一揆と分けて注目されるのは、後者の焦点が年貢問題であり、つまり経済的な動機に拠…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府12代・足利義晴――各地を転々とした、名ばかり将軍 1511年~1550年

…父と別れて播磨守護の赤松氏のもとへ預けられることとなった。義晴を播磨に送り出した後、義澄は病没してしまうので、これが今生の別れとなった。義晴は逃げ込んだ先の播磨で養育されることになるが、そこも決して安全とは言えなかった。守護代の浦上氏が勢力を伸ばし、播磨守護である赤松義村を居城・白旗城から追い出したのである。このとき義晴は9歳であり、義村につれられて衣笠氏のもとへ逃れたという。 そのころ京都では、大内義興が領国へ戻り、将軍・足利義稙が阿波に出奔したため、管領である細川高国が政…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府6代・足利義教――偶然で将軍になり、「万人恐怖」と呼ばれる 1394年~1441年

…った。前述のとおり、赤松氏は3ヶ国の守護を務める名門だったが、義教が赤松氏の庶流である赤松貞村(あかまつ さだむら)を溺愛し、満祐の有する3ヶ国を全て彼に与えるという噂が流れていた。実際に一度、義持が将軍だった時代にも同じような理由で所領を取り上げられそうになったことがあり、満祐の不安は極まった。暗殺計画に及んだのは、満祐にこのような理由があったからだとされている。 作戦は見事に成功した。満祐や教康らは討ち取った義教の首を剣に突き刺し、それを高く掲げて堂々と京都より退去してい…

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…磨(兵庫県)の名門・赤松氏から分かれたものであり、摂津有馬郡有馬荘を名の由来とするものであり、本項で紹介する有馬氏とはまったくの別族である。 さて、肥前国有馬の周辺には肥後(熊本県)の菊池氏、北九州に広く勢力を持った少弐氏と名門武家がいて、有馬氏もこれらに従っていた。その勢力拡大の契機は、1491年(延徳3年)。戦国時代初期の有馬貴純(生没年不詳)の時、この頃衰退していた少弐氏の復興を図る少弐政資が松浦氏を攻めた際に同調したことにある。下松浦氏を攻めた貴純はこの功績を政資に評…

【江戸時代のお家騒動】有馬氏の出世 騒動を起こさずに主家を吸収合併

…有馬氏は播磨の名門・赤松氏の支流である。播磨守護である赤松則祐の子・義祐が摂津国有馬郡に配されたことで、有馬氏を称するようになったのだ。八代目・則頼の時には一時所領を失うなど危うい時もあったが、その後の織田信長の中国攻めにおいて、これを担当した羽柴秀吉の補佐にあたった。この時、則頼が中国路に詳しかったことが秀吉の助けとなり、その功績として播磨淡河に3200石、後からさらに1万5千石の加増を受けている。 有馬氏が異例の出世を遂げるのは、則頼の子・豊氏の時だ。豊氏は姉婿にあたる遠…

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…ふたりの息子が播磨の赤松氏と阿波の細川氏に引き取られています。 足利義稙の将軍職再任 上洛を果たした義稙は将軍職に再任します。京を追われてから15年、43歳での復帰となりました。前回クーデターを起こされた反省もあり、義稙も10年ほどはおとなしくしていたのですが、畿内最大の実力者であった管領・細川高国と対立したため、義稙は京から堺に逃げます。義稙はその後も再起を図りますが、最終的に阿波で死去しました。 12代将軍・足利義晴(よしはる) 父の宿敵であった義稙に代わって擁立されたの…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…生まれである。祖先は赤松氏の流れで、山城国に移り住んだのち、朝倉氏に仕えるようになったと伝わっている。 吉家は朝倉氏の宿敵である一向一揆との戦いをはじめ、武将としても活躍したし、加えて外交官としての働きもめざましかった。一向一揆を追い詰めるためには越後国の上杉氏との関係が重要であるのだが、朝倉氏においてその外交を担当したのはもともと朝倉一族の重鎮・朝倉宗滴で、その死後には吉家に役目が受け継がれたのだ。ほかにも武田信玄との外交交渉も彼の担当になっているなど、家中における彼の重要…

三木城 長期籠城の末に飢えた城

…室町時代の頃から守護赤松氏の支配下にあった。守護は職名であり、幕府から警備、治安維持を任された存在だった。時の流れとともに権力が強化されていき、次第に強い力を持っていく。 ヨッシー | 別所長治像[三木城] 長治の居城の三木城(兵庫県三木市上の丸町)は丘の上に築かれた平山城(平野の中にある山、丘陵を利用して建てられた城)である。別所氏は赤松氏の一族であり、播磨の東部を支配していた。 そこに一石を投じたのが、尾張の戦国大名・織田信長であった。信長は各地に家臣を派遣して、領地の拡…

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