攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

長宗我部元親 の検索結果:

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…病を患っていたのだが、それを押して長宗我部元親を説得し、彼を降伏させることに成功する。外交折衝の達人は病の中でも健在だったのだ。 その活躍を喜んだ秀吉は1585年(天正13年)、正勝に阿波(現在の徳島県)の国を与えるのだが、なんと彼はこれを辞退して子の蜂須賀家政に譲ってしまう。理由としては、彼自身が恩賞をもらうことよりも秀吉の下で様々に働くことを喜んでいたのだとも、この頃すでに病んでいた(翌年病没している)ことから自分の死期を悟っていたのだ、ともいろいろに考えることができる。

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(それぞれ現在の徳島・香川・愛媛)の三国を返上するようにという要求を当然の如く却下する。そこで秀吉は弟の秀長を総大将とする軍を四国に派遣する。それが1585年(天正13年)のことだった。この時、秀吉に臣従していた中国の大名・宇喜多家と毛利家からも兵を出させた。 この時は阿波から侵攻する秀長、讚岐から侵攻する宇喜多秀家・黒田…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

…城(香川県高松市)は長宗我部元親が豊臣秀吉による四国攻めに備えて築いた城である。南に山を背負い、正面は谷で、非常に守りやすい作りになっていたようだ。さらに支城として由良山/池田の二城を築き、鉄壁の守りであるかに見えた。ところが、実際に豊臣軍が襲来すると、由良山と池田の兵は鉄砲の音を聞いただけで全く戦わずに城を明け渡し、あっさりと植田城に逃げ込んでしまう。これを怪しんだのが、豊臣軍の軍師・黒田官兵衛だ。長宗我部軍の行動には裏があるに違いない、と読んだのである。 実のところ、これ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…陸の佐々成政・四国の長宗我部元親らを降伏させて上杉景勝を臣従させ、中国の毛利輝元・東海の徳川家康らを配下としていて、その野望はいよいよ九州にも向かおうとしていた。 天皇の権威をバックに「戦いをやめろ」と命令する秀吉に対し、大友氏は喜んで従い、島津氏はこれを無視した。かたや攻め滅ぼされる直前、かたやこのまま順調に行けば九州を統一できる段階であったから、当然といえる。ここにいたって、大友側の課題は「秀吉が動き出す前にどれだけの時間を稼げるか?」となった。島津氏から見れば、もちろん…

【10大戦国大名の実力】島津家④――秀吉に降伏

…いが起きた。この際に長宗我部元親の嫡男・信親が戦死し、長宗我部氏衰退の大きな要因となったのはすでに述べたとおりである。 かくして1587年(天正15年)、秀吉は自らの出陣によって島津家を倒すことを決意する。豊前小倉に上陸した豊臣軍のうち、10万は秀吉自身に率いられて肥後方面から西回りで薩摩を目指し、15万は弟の秀長に率いられて豊後方面から東回りで日向へ進んだ。しかもこの時期、島津家は脱走者が相次いで戦力を急速に減らしていた(原因は略奪や誘拐で富を蓄えた兵士たちが故郷へ戻ったか…

明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

…のである。直正は『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」としてその名を記されている(しかも彼に続く形で長宗我部元親、徳川家康、松永久秀と名だたる名将たちの名が上がっている)のだが、それはこの時の奮戦のおかげかもしれない。 彼は2年後に50歳で亡くなるまで織田軍と戦い続け、光秀の丹波支配を防いだ。光秀がようやく丹波を統一し終えるのは直正の死の翌年、1579年(天正7年)のことであった。もし、直正による頑強な抵抗がなく、もっと早く丹波攻めが終わっていたなら、光秀の運命は変わっていただろうか。

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…。親族(兄の義妹)が長宗我部元親に嫁いでいたことから、光秀が長宗我部と交渉するにあたって重要な役割を果たしている。しかし信長の対四国方針が転換し、光秀が厳しい状況へ追い込まれたのはすでに紹介したとおり。長宗我部交渉の最前線にいた利三もまた、明智家中で難しい立場になってしまったのではないか。 この四国問題が謀反につながったのであれば、利三が「本能寺の変」にも参加し、先鋒を務めたのは当然のことであろう。この時、主従は運命共同体であったはずだ。彼は「山崎の戦い」にも参加し、敗れた後…

「光秀と信長―天下布武の道―」参加レポート

…っており、その義妹が長宗我部元親の正室、さらに頼辰の娘はが元親嫡男の長宗我部信親の正室という関係を活かして、交渉窓口(取次役)を任された 信長は元親に四国の支配権を認める(「切り取り次第」として元親が自ら奪った領土は長宗我部氏の領土と認める) その後、三好氏の同族ですでに信長に降伏していた三好康長を通じて阿波三好氏は信長に降伏する(背景として彼らが支援していた大坂本願寺の降伏、羽柴軍による淡路の制圧、味方の毛利氏も劣勢という状況も影響) 信長は元親に対して、阿波三好氏との停戦…

【戦国軍師入門】1.戦国軍師とは何者か?

…令が下ると農民を動員して三々五々集合地に向かうという構造だったのだ。 こうした構造に風穴を開けた中で代表として名前が上がるのが織田信長だ。彼は武士たちを農村から引き離し、自分の居城の近くに住まわせた。さらに、専業の兵士を導入し、自在に軍団を動かせるようになった……いわゆる兵農分離説である。このような構造改革は多くの戦国大名の手で実践されたが、そうでない例もある。四国を制圧した長宗我部元親の主戦力となったのは「一領具足」といわれる文字通り戦道具一式をもった半農半兵の人々だった。

【本能寺の変の謎の謎】状況が光秀を導いた!?

…勢力を持っていたのは長宗我部元親で、信長は光秀に命じて彼と外交交渉をさせていた。ところが、長宗我部による四国統一が見えてくると、信長は突如として長宗我部のライバルである三好氏を支援するようになったのだ。当然、光秀による交渉は中断する。このようなケースでは「外交交渉が断絶したのでそのまま攻撃を担当」ということもあったが、その役目が光秀に任されることもなかった。 これでは光秀の面目は丸つぶれであり、そもそも織田家中で今のまま重臣として遇されるかも怪しい緊急事態である。かくも状況に…

土佐の風雲児、長宗我部国親が活躍した時期はちょうど「麒麟がくる」前半と重なる!

…たのはまだ若い嫡男の長宗我部元親。幼い頃にはひ弱な印象を与えて「姫若子」などと呼ばれたが、ちょうどこの年に果たした初陣での活躍の素晴らしさから「土佐の出来人」と呼ばれるようになった若武者である。彼の活躍はめざましく、土佐どころか四国を統一せんという勢いでその支配領域を増やしていく。やがて彼の活躍に目をつけた織田信長との間で外交交渉を行うことになり、その取次役を任されたのが誰あろう明智光秀であった。光秀と長宗我部の結びつきは深く、しかしそのことが「本能寺の変」の一因になったとい…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…リートセット第1弾 長宗我部元親ちょうそかべもとちか 長宗我部元親 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月2日 コンプリートセット第1弾 後藤基次ごとうもとつぐ 後藤又兵衛 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月2日 コンプリートセット第1弾 毛利勝永もうりかつなが 毛利勝永 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印…

#コロナに負けるな御城印好き達 企画について、takubomayさんに聞いてみました

…お城が中心のようで、長宗我部元親の岡豊城の御城印は激レアだと思います! 御城印企画お声かけられたので、改めて整頓!重複してるのは抜けて、私が登城したのは27城でした☺️岐阜が多いので、愛知方面にも足を伸ばしたいですー!でも一番行きたい所は長野です(笑)お気に入りの御朱印&御城印帳もついでにアプ!城の記念メダルも集めたい~#コロナに負けるな御城印好き達 pic.twitter.com/1c2om2iz8R — シヴァ@神木工房*裁縫忍 (@amanojyaku1830) 202…

本能寺の変の謎(明智光秀による犯行なのか、黒幕がいるのか)

…勢力としては、朝廷、長宗我部元親、毛利輝元、足利義昭、斎藤利三、羽柴秀吉、徳川家康、本願寺顕如、高野山、イエズス会、堺商人、黒田官兵衛などが挙げられています。 織田信長―戦国の覇王 (学研まんが伝記シリーズ)P.116 斎藤利三積極関与説 四国征伐回避説、ともいわれます。 光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)がかなり深く関わっていることは、当時の記録である山科言経(やましなときつね)の日記や、利三がただの斬首ではなく身体を引き裂く車裂きという残虐な処刑方法がとられた記…

植田城 知将の読み合いが行われた戦

…----黒田官兵衛と長宗我部元親が智略を巡らせ合った。1585年(天正13年)6月に豊臣秀吉がおこなった「四国征伐」のおり、土佐の戦国大名・長宗我部元親と秀吉の軍師・黒田官兵衛がぶつかっている。 長宗我部氏は土佐の国人であったが、当時の当主・元親に変わったころから勢力を拡大していった。1585年(天正13年)の春には四国を統一するにいたっている。秀吉は天下統一の妨げになると考え、伊予・讃岐を返上すれば、土佐・阿波を安堵するという条件で長宗我部氏の臣従を促した。だが長宗我部氏か…

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