攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

鳥居元忠 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…従者を多く抱えていた鳥居元忠は、斥候※として進軍した際、武田軍から銃撃を受け、生涯歩行困難になったと伝わります。じつは、この徳川家康による諏訪原城攻めには、旧駿河・遠江の国主・今川氏真が徳川方の将として従軍していました。家康は、氏真を徳川軍の将として従軍させることで、自身の駿河・遠江支配は「旧国主のお墨付きを得ている」とアピールしていたのだと考えられます。 徳川軍による攻撃が開始され約1か月後の8月24日、諏訪原城を守る武将たちは徳川軍の猛攻に耐え切れず小山城へ敗走し、諏訪原…

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

…え方だ。証拠として、鳥居元忠や松平真乗(まつだいら さねのり)らは義元の「元」や氏真の「真」を偏諱でもらったと推測されるが、松平が今川から離反しても名前を捨てた様子がない。確かに、江戸時代になると敵対したから偏諱でもらった文字を捨てるという価値観も出てくるが、この時代にはそのような考え方はなかったのではないか……というわけだ。 となると「元」を捨てたかったのではなく、「家」を取り入れたかったのではないか、という話になる。ではその「家」はどこから来たのか。実は本コラムで以前扱っ…

知ってる? 水野勝成

…に起きた黒駒合戦にて鳥居元忠、三宅康貞(みやけ やすさだ)と共に一万の北条勢に二千の兵で応戦する。勝成はこの時、出陣を知らせず単独行動した元忠に抜け駆けだとキレて、結局自分が先陣を切って突入。元忠「解せぬ……」。しかしその結果、約300を討ち取って撃退したという。このとき勝成はまだ10代である。 その3. 兜なしでも一番首 小牧・長久手の戦いに家康陣営で参戦した際、結膜炎の眼痛で兜を付けていないのを父・忠重(ただしげ)に叱責され、反発。「兜がなくて死んでも時の運。一番首を取る…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。 伏見城はかつて秀吉が築いた堅城であり、地の利にも恵まれていた。わずかな兵で籠もった元忠もよく戦い、約10日間ほどにもわたって籠城戦を繰り広げた。しかし、援軍の来ない状況では、兵力の差がどうにもならない。また第一部でも紹介したように、兵の数に対して城の規模が大きすぎると、むしろ弱点を生み出してしまうものでもあった。そうしてついに内部から敵方に通じて火を放つ者が現れた。その火が城を包みこむと、包囲軍はそれに合わ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…その年の内に、家康は鳥居元忠・大久保忠世らに7千の軍勢を与え、上田城を攻撃させた。守る真田勢は2千とも3千ともいい、戦力では圧倒的に不利であった。しかし、昌幸は武田家臣時代にかの武田信玄より「我が目の如し」とまで称された男である。それほどの男が、堂々と大大名を敵に回したのだ。勝算がなければそんなことをするはずもなかった。 この時、昌幸が仕掛けた罠は二つ。ひとつは、守るのに便利な川沿いに兵を置かず、徳川軍があっさり城内になだれ込めるようにしたことだ。肩透かし感もありつつ勢いに乗…

【殿様の左遷栄転物語】駿河大納言の悲劇に巻き込まれた付家老たち

…にしたことで知られる鳥居元忠の子・成次(3万5千石)のふたりは所領の面でも職務の面でも群を抜いている。このふたりは、先述した御三家付きの五人の家老と同格の存在であった、と考えていいだろう。 残念なことに、彼らが仕えた忠長は問題の多い人物だった。大井川に橋を架けたり、寺社の土地を駿府の町の外へ移したりといったかたちで領国経営に熱心であった一方で、家臣の子やそばに仕えていた者たちを殺害してしまったのに、その翌日には自分が殺した彼らをまるで生きているかのように呼んでみせるなど、狂気…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…任せられた徳川家臣の鳥居元忠は奮戦したものの、ついには討ち死にした。 これについては、そもそも家康は三成を挙兵させるための囮として上杉討伐に出陣し、また伏見城に少数の兵だけを残したのだ、という説がある。これに従うなら勝俊の判断は自らが生き残るためなら正解だったといえようが、「自分の家臣は立派に囮を務めて死んだのに、おめおめと逃げて生き延びたやつがいる」と思えば、彼に対する家康の心象がよかろうはずもない。結果、改易ということになってしまう。 ちなみにこの時、勝俊の弟の利房は西軍…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い、鳥居元忠の伏見城篭城

…ある。徳川家康重臣・鳥居元忠による伏見城籠城戦だ。 元忠は家康が今川義元の人質になったときから仕えており、家康の三河統一などの戦いで活躍している。家康が関東に移封する際には下総国に4万石が与えられた。先鋒として情報収集を行ったりもしており、頼れる家臣だったようだ。 そんな元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城に置かれた。伏見城は豊臣秀吉が隠居する際に築いた城で、彼が亡くなった場所でもある。その後は豊臣政権の権力を握る家康の手に渡っていた。 家康は三成を戦いの舞台におびき寄せる作戦とし…

マンガでわかる島津義弘

…が、伏見城に籠城する鳥居元忠が「主君である家康から聞いていない」と入城を拒否したため、流れで西軍として参戦することになりました。こうした経緯で西軍に参加したものの、わずかな手勢であったことからか石田三成ら西軍首脳は義弘の存在を軽視し、開戦したのちも島津軍はほとんどなにもすることなく撤退戦――つまり今回のマンガで紹介された「島津の退き口」――がはじまることになります。 このマンガに登場する島津義弘を思い浮かべながら、兄弟間の方向性のちがいに悩まされたり、東軍として参加するはずだ…

今月末で拝観休止になる源光庵にいってきました

…原の戦い」の前哨戦で鳥居元忠らが討ち死にした伏見城の床板が移築されています。 手形の血痕がくっきりわかります。 こちらには足形が。 鳥居元忠の位牌がありました。 ほんとに過ごしやすいお寺です。今月末から再来年まで修復工事のため拝観休止となるというのに、お客さんも多くなく、30分以上のんびりしていました。 灯籠の穴も手前が四角、奥が円になっていて、こういう細部へのこだわりを見つけるとうれしくなりますね。 御朱印もいただきました。 拝観再開は再来年の秋 拝観再開は2021年(令和…

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

…城の床板だそうです。鳥居元忠らが討死した籠城戦ですね。足で踏む床板として使っては供養にならないからと、天井に上げています。 京都のいくつかのお寺にはこうした伏見城の床板が天井に貼られてるそうです。もしかしたらここは写真撮影オッケーだったかもしれません。確認するのを忘れてました。庭はオッケーといわれたんですけどね。 kojodan.jp 金碧障壁画がデザインされた御朱印帳とクリアファイルが買えます もし天球院を訪問されるなら、おみやげにぜひオススメしたいのが3つの金碧障壁画がデ…

上田城 徳川氏の猛攻を二度も凌いだ堅城

…怒した家康は、家臣の鳥居元忠、大久保忠世らに7千の兵を与えて、3千人の真田を討たせようとした。兵力差は明らかだったが、真田氏は地の利を生かした戦いをしていく。 真田側は上田城の近くを流れる神川に差し掛かった徳川軍を襲撃。だが反撃を受けてすぐに撤退している。徳川軍が襲撃した部隊を追いかけて城内に入ると、丸太が落とされ、弾丸や矢が雨のように降り注いだ。あわてて退却する徳川軍が神川を越えようとすると、人口堤を破壊して濁流が徳川軍を襲った。これらの策によって徳川軍は1300人ほどの損…

よくわかる第一次上田合戦

…時代からの側近である鳥居元忠あたりは忠実に命令を守ろうとしたのかもしれません。 そういう意味では持久戦に持ち込ませなかったというのが最大のポイントだったのかも。 あと補足すると、じつはこの時点では上田城はまだ未完成でした。 この合戦の前後に上杉勢に普請を手伝ってもらってようやく完成しています(ここでも他人の財布を利用する昌幸ってすごいですよね)。 合戦の経緯は冒頭のイラストのとおりですが、真田軍はわずかな手勢をふたつにわけて、一隊を嫡男、真田信幸が率いて戸石城に布陣します。そ…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する