攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

黒田家 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…梅まつり来訪記念版 黒田家代官屋敷資料館 300円 印刷 縦15cm、横10.5cm 2024年2月4日 大津野田城 御城印 初鹿野傳右衛門版 島田市博物館 1680円 印刷 A6 2024年1月26日 滸我御所 御城印 レストラン SUNROSE、和心 いちえ、日本茶飯事 特むし茶 鈴木園、お休み処 坂長 300円 印刷 はがき大 2024年1月4日 福智山城 御城印 通常版 福知山城(京都府福知山市) 【閉店】福知山城 おみやげ処 700円 印刷 はがき大 2024年1月…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…地位を継いだ。政職は黒田家を重臣として厚遇し、小寺の姓を名乗らせていた。秀吉との縁ができるのは、織田家が勢力を拡大して中国地方への進出をうかがい始めた頃だ。この頃、中国地方には毛利家が一大勢力を築いており、多くの小大名たちが毛利につくか織田につくかの選択を強いられた。 そんな中、官兵衛は家中の意見をまとめると小寺家の代表として1575年(天正3年)に信長に接触し、播磨への進出にあたって先導役を務めたい、と申し出る。信長は官兵衛の才能を見抜くと大いに喜び、中国方面の指揮をとる秀…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…といえる。 しかし、黒田家の兵は既に家督を譲ってある息子の長政が連れて行ってしまったため、官兵衛に動かせる軍勢はない。そこで彼は広く兵を募集する。集まってきた者たちは食い詰めた浪人や百姓、町人などで、まさに寄せ集めを絵に描いた状態だったようだ。 そこで彼は集まった者たちに気前よく金銀を分配してやり、またひとりひとりの前に歩み寄って誠心誠意激励したので、兵たちの意気はいやがおうにも上がってゆく。中には小ずるいものがいて分配金を二重三重に取ったものもいたが、官兵衛はこれを知っても…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…ある。それ以外にも、黒田家など他家へ仕官した者もいたようだ。ちなみに、宗茂の弟で高橋家を継いでいた直次も関ヶ原の戦い後に改易となったが、1613年(慶長18年)に旗本として復興している。その過程で「立花」に改姓し、子の代には加増されて大名になり、筑後に三池藩立花家が成立した。 将軍が信頼した勇将 宗茂にとって次の大きな転機となったのが1614年(慶長19年)~1615年(元和元年)の大坂の陣――幕府と豊臣家の関係が悪化した結果、冬の陣、夏の陣と二度にわたって幕府勢が豊臣家の本…

【江戸時代のお家騒動】黒田騒動 忠臣の中の忠臣・栗山大膳、命懸けの直訴

…藩の支藩を成立させ、黒田家による支配をより一層強固なものにしようとしていた。 しかしそんな長政にも、憂慮しなければならない事柄があった。わがままで不行跡が目立つ嫡男・忠之のことだ。長政の男子は4人いたが次男はすでに亡くなっていたため、三男の長興に5万石、四男の隆政に4万石をそれぞれ相続させて支藩をつくり、残りの領土を新たに藩主となる忠之に与えようと長政は考えていた。ところが先述したように、忠之の品行は良くない。病に倒れた長政は自分の死後のことを憂えて、死の淵にありながらも重臣…

初代藩主と藩祖のちがい

…るのですが、前田家や黒田家のように江戸幕府の創設前後まで存命しており、藩主家の地位を確立するために大きな功績を果たした人物の場合は例外的に初代藩主と別の人物が藩祖となるようです。 つづいて彦根藩を見てみましょう。井伊直政も「関ヶ原の戦い」後に佐和山藩主にはなっていますが、彦根藩が立藩する1615年(元和元年)にはすでに死去しています。当然、彦根藩主になれるはずがないのですが、佐和山藩と彦根藩は藩庁の移転(佐和山城→彦根城)に伴う藩名変更だからか、一般には直政を彦根藩の藩祖とし…

2.譜代家臣団の成立

…っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有力な外様大名の前田家、島津家、伊達家、黒田家、浅野家、毛利家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などにも松平を名乗ることが許されている。これらは毛利家を除いて、明治維新まで松平姓を使い、本来の姓を使わなかったという。 次回「(3)江戸幕府における譜代大名の役割」につづきます。

5.支配者としての大名たちの苦悩

…くような家もあった。黒田家や前田家などが有名な例なのだが、この二家は御家騒動を起こしながらもどうにか家を存続させている。悲劇の家となったのが、東北の雄として戦国時代に名をはせた最上家だ。この家は江戸時代初期のトラブルの末に、ついには大名ではいられなくなってしまったのだ。 最上家を躍進させた最上義光は、伊達政宗の叔父にあたる人物で、内乱の続く最上家をまとめると、たびたび甥の政宗と戦いながら勢力を広げていった。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、西軍の上杉勢による攻撃にさらされながらもよ…

日本一の槍を呑み取った母里太兵衛(黒田節)

…国時代末期に実在した黒田家のとある武士の逸話がもとであるとされる。そのため、福岡藩黒田家に使える武士たちの酒宴には欠かせない歌として愛されたという。 さて、その黒田節のモチーフになったのが今回紹介する母里太兵衛(もり・たへえ)、本名は友信(とものぶ)である。 黒田孝高(いわゆる官兵衛)・長政の2代に仕えて戦功を立てた歴戦の将で、いわゆる「黒田24騎(25騎とも)」の1人にも数えられている。一度口にしたことはのちに過ちとわかっても翻さないような、頑固一徹かつ剛直な男であったとい…

【戦国合戦こぼれ話】九州の関ヶ原――暗躍・黒田如水

…で成果を挙げている。黒田家の兵はほとんど彼が連れて行ってしまったから、本来は関ヶ原の余波が九州で戦いを起こしたとしても、如水には何もできなかったはずだ。 ところが如水は自らの資産を潤沢に用いて兵をかき集め、あっという間に九千もの軍勢を用意すると、次々に西軍方の武将を倒していく。そしてついには、北九州の名門・大内氏の復興を図る大内義統を石垣原の戦いで破り、九州の情勢を一気に東軍有利としたのである。 このように九州における如水の活躍は東軍にとって大きな益になるものだったとされてい…

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