GW中にツイッターで開催されていた「#コロナに負けるな御城印好き達」という企画について、主催者のtakubomayさんにお話を伺いました。
江戸幕府においていわゆる親藩・譜代・外様と呼ばれた大名たちのうち、譜代大名の定義についてまとめてあります。
藤田伝吾は「多聞院日記」によれば筒井順慶との取次役だったとされ、また別の史料「蓮成院記録」によれば明智姓を与えられ、光秀が死んだときに伝吾も自害したそうです。
この連載も最終回となりました。最後に紹介するのは未完となった『見知らぬ海へ』です。主人公は向井水軍の長・向井正綱で、彼は武田勝頼の家臣としてに北条水軍に勝利した名将です。武田家滅亡により徳川家康に仕えることとなりますが、彼は常に「海の家来…
今川義元、徳川家康とふたりの偉大な戦国大名を育てた太原雪斎はこの時代、屈指の軍師ともいわれています。軍師といえば、秀吉には竹中半兵衛や黒田官兵衛といった軍師がいたのに、光秀にはいなかったのでしょうか。
柳生一族が何度も登場する隆慶一郎の作品ですが、柳生をテーマにした短編集もあります。どちらかというとヒール(悪役)な立場に置かれがちな柳生の人々にもきちんと光を当てて、その人間的な魅力がいくつもの作品で紹介されています。
自らの領地の支配者でもあった大名は江戸幕府からの理不尽な要求に耐えながらも、家を残すために創意工夫をもって奔走していました。
参勤交代、御手伝普請(天下普請)など、大名たちには江戸幕府からの大きな負担がのしかかっていたようです。
江戸時代、将軍に拝謁するために登城した大名たちはその家格に応じて控えの間にも差がつけられていました。
江戸時代に入り、戦国大名には格付けがおこなわれ、とくに「関ヶ原の戦い」の前後に徳川家に臣従した大名たちは外様大名として扱われることになります。
織田政権、豊臣政権の下での大名を「織豊大名」(あるいは織田大名・豊臣大名)と呼んだりしますが、これは戦国大名が強大な権力の支配下にあるという点で、江戸時代の大名は織豊大名を踏襲していると考えられます。
武士の誕生から武家の形成、そして戦国大名が登場するまでの流れをまとめています。
足利義輝は剣豪・塚原卜伝から指導を受けた直弟子であり「剣豪将軍」ともいわれますが、個人の武威だけでは乱世を治めることはできなかったようです。なお彼はわずか11歳で将軍職についていますが、父・義晴とともに何度も坂本や朽木谷に逃げており、将軍宣…
「織田氏」と「織田家」はどうちがうのかをおおまかに説明してみます。もともとは源氏や平氏などかぎられたルーツでしたが、江戸時代には434家もの大名家につながっています。
大河ドラマ「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城(正確には緒川古城)はどんなお城かを紹介します。