決して順風満帆とは言えなかった生い立ちですが、人質として、同盟相手として、家臣として、常に近くにいる有力者に必要とされたのが徳川家康です。 信長・秀吉はもちろん、幕府を開く際には室町幕府のしきたりを取り入れるなど、過去から多くのことを学んだ…
征夷大将軍をめぐる旅もついに江戸幕府へとたどり着きました。明日からは徳川家の歴代将軍を紹介していきますが、まずはざっくりと江戸時代について俯瞰してみましょう。
信長に救われ、信長と争った室町幕府最後の将軍が足利義昭です。挙兵のタイミングさえ見誤らなければ、信長をたおして将軍中心の政権樹立に成功していたかもしれませんが、それはそれで新たな群雄割拠の時代になっていた気もします。
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13代将軍・足利義輝の暗殺後に三好氏によって擁立されたのが足利義栄です。彼は摂津で将軍に就任すると、一度も京に入ることのないまま病死した悲劇の将軍でもあります。
剣豪将軍としても知られる足利義輝は父とともに逃亡していた近江の地で将軍に就任します。三好長慶と対立したためなかなか京に入れなかった義輝ですが、幕府の権威を回復するため尽力したすぐれた将軍でした。
足利義澄の子として11代将軍に就任した足利義晴はその人生の大半を京の外で過ごしています。幼少期は播磨で育ち、将軍就任後も近江へ逃亡することが多く、畿内の権力争いに翻弄された将軍でした。
鎌倉・室町・江戸の武家政権において唯一、将軍職を再任したのが足利義稙ですが、名前も義材→義尹→義稙とたびたび改名しています。 (今回は第二期についての紹介です)
「明応の政変」によって擁立された11代将軍が足利義澄です。しかしその経緯からもわかるように擁立者である細川政元の傀儡だったために反目し合うようになり、最後は京を追われることになります。
近年、戦国時代のはじまりは「応仁の乱」ではなくその後に起きた「明応の政変」であると言われています。このクーデターによって将軍の座を追われたのが足利義材ですが、彼はただひとり二度将軍となった人物でもあります。
その誕生が「応仁の乱」の原因となったとも言われる足利義尚ですが、悲劇の人でもあります。権力を離さず干渉することが多い両親を避けるように、遠征先の近江から京に戻らず、そのまま25歳の若さで病没しました。
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政治に無関心で趣味に生きたとされる足利義政ですが、じっさいには政治にも関わろうとしていたようです。しかし彼の歴史的な業績はなんといっても銀閣寺に代表される東山文化でしょうね。
暗殺された父の跡を継いで、9歳で将軍となった足利義勝でしたが、わずか8ヶ月で死去しました。赤痢による病死だったものの父・義教が多方面から恨みを買ったためと噂されたそうです。
仏門の身からくじ引きで将軍に選ばれ、「万人恐怖」と評されるほどの恐怖政治をおこない、そして最後は暗殺された、破茶滅茶な将軍が足利義教です。この頃から室町幕府は滅亡に向かいはじめていたのかもしれません。