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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

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京と近江を往復した前半生

12代将軍・足利義晴の子。幼名は菊幢丸、初名は義藤。
義輝が将軍に就任したのは1546年(天文15年)、11歳の時だ。義晴が近江に逃亡中だったため、義輝の元服式と将軍就任も近江で行われた。このころの名は義藤。

その後、細川晴元(ほそかわ はるもと)と六角定頼(ろっかく さだより)に擁立されて上洛するが、将軍に就任して3年目には京都を追われることになる。彼と父が、晴元に敵対する細川氏綱(ほそかわ うじつな)や河内衆の遊佐氏一党らと手を組んだことが原因だ。
その翌年、晴元が河内衆らを破ったと聞くと和睦を結んで一度は帰京。しかし、晴元の家臣でこのころ躍進を続ける三好長慶(みよし ながよし)と敵対することになったため、今度は晴元とともに再び近江へ逃れた。
このように、義輝の前半生は畿内の諸勢力に翻弄されながら京と周辺を行ったり来たりする流浪の日々だった。これは父・義晴のものと重なる。

それでも、義輝はこの数代続いてきたような、周囲に翻弄されるだけのか弱い将軍ではなかった。
追い詰められて逃亡せざるを得なくなった際、それでも「兵と一緒に死に、戦いによって戦功をあげ、後世に名を残したい。運は天にこそあるものだ。ここは退くべきではない」と宣言したというから、世が世であれば勇武の将として諸大名に号令できる器といえたのだろうが――残念ながら、この時代の将軍は地に落ちた権威に過ぎなかった。

そんな義輝がようやく京都に身を落ち着けることができたのは、1558年(永禄元年)の勝軍山城の攻防戦ののち、長慶と和睦してからのことである。
この戦いでは、義輝が勝軍山城に入り持久戦の策をとりながら三好軍と対峙した。しかし長慶が四国勢に援軍を求めたこともあり義輝方は勝機を失い、和平交渉が進められることとなった。和睦成立以降、義輝は将軍の権威を回復するために政治的手腕を発揮していくことになる。

義輝が京を留守にしている間、長慶はここに「三好政権」ともいうべきものを築いていた。
彼は将軍と対立するという立場にありながらも、本城を京都ではなく摂津の越水城芥川山城に置くというスタイルで、東播磨や丹波などを押さえて畿内を制圧した。義輝・晴元が長慶との和睦を結んだことによって、長慶の権威は一層強いものになる。
それは同時に、将軍である義輝の権威が一層弱体化することを意味していた。

将軍権威復活に奔走した後半生

京に落ち着いた後の義輝の後半生は、将軍権威復活のために費やされた。そのために彼が手をつけたのは、まず全国の諸大名と交流を深めることだった。
1559年(永禄2年)に尾張の織田信長に謁見を許し、同じく謁見してきた越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)には贈り物として鉄砲を与えた。豊後の大友義鎮(宗麟)を筑前・豊後の守護に、安芸の毛利元就を同国の守護にそれぞれ任命し、距離を近づけた。
この中でも特に義鎮は、その名前の一字を義輝から拝領しており、それに対し深い感謝を示して謝礼を贈っている。

そのほか、長尾景虎と武田信玄や、毛利元就と大友義鎮など、抗争していた大名同士の関係に積極的な介入を行い、数多くの講和を成立させてもいる。
このような優れた政治的手腕で将軍権威を回復させていった義輝は、「天下を治むべき器用あり」(『穴太記』)と評価されるまでになった。

そんな義輝の上に垂れ込める暗雲となったのが、長慶の腹心として活躍した松永久秀だった。
彼は1564年(永禄7年)に長慶が亡くなると一気に頭角を現し、三好氏の重鎮である三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)とも手を組んで幕府の実権を掌握した。そして、彼らにとって義輝は邪魔な存在になってしまったのである。

1565年(永禄8年)、5月19日の夜に事件は起きた。二条にある義輝の御所を取り囲んだ松永軍が、一斉に攻撃を開始する。多勢に無勢ではあったが、義輝はおとなしく殺されはしなかった。
彼は「剣聖」と謳われた上泉秀綱に新陰流を、また塚原卜伝からは新当流を学んだ当代一流の剣豪であり、その死に様の奮戦は伝説的なものとなった。

義輝は刀を何本も畳に刺したうえで乱入者を待ち構えた。
刀は鋭利なだけに刃こぼれや血、脂などですぐに切れ味が鈍るというから、それの対応策だったのだろうか。傍らの刀を次々と取り替えながら、襲い来る敵を片っ端から斬ったとされる。

だが、どれほどの剣豪であっても、軍勢のすべてを切り倒すことなどできはしない。その戦いぶりに近づくことができないと判断した松永軍の1人が、戸の脇から槍で義輝の足元をすくい、彼が体勢を崩したところに何枚もの障子をかぶせた。
こうして身動きの取れなくなった義輝は、槍で突かれて命を落とすのだった。死に臨んで、義輝は「五月雨は露か涙かほととぎす わが名をとげん雲の上まで」という辞世の句を残している。

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