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【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府14代・足利義栄――一度も京へ入れなかった将軍 1538年~1568年

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擁立直後から内紛に巻き込まれる

義栄は11代将軍・足利義澄の孫にあたる。初名は義親。
父は義澄の次男・足利義冬(義維)で、足利義輝とは従兄弟の関係である。父がその養父・義稙とその妻・清雲院の不仲にいたたまれなくなり、京都を出ていたため、阿波の平島庄で生まれたとされる。

この義冬という人も苦難の生涯を送った人で、12代将軍・足利義晴の対抗馬として擁立されて激しく争った末、結局は阿波・平島に落ち着き、「平島公方」と呼ばれるようになった。
1565年(永禄8年)、畿内を制圧していた三好政権を主導していた松永久秀と三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が時の将軍・義輝を殺害したのはすでに紹介したとおり。彼らが新たな将軍候補として目をつけたのが、義栄だったのである(このときは義親)。

ところが、まもなく彼らは内紛を始める。原因になったのは、彼らのスタンスの違いだった。あくまで「三好一族」として政権運営をしたいと考え、三好長慶の養子・義継を擁立する三人衆に対し、久秀の価値観は完全な「下剋上」だった。
力によって、もともとの主家である三好氏を自分の支配下に治めようとしているのだから、名前だけであっても三好氏の主君を擁立する気など彼にはなかった。これでは、義輝打倒のように共通の目標があるときならともかく、その後の政権運営では仲良くできるはずもない。

戦国時代に入ってからの足利将軍ほとんど全員と同じように、義栄もまた、このように有力武将たちの思惑に振り回される御輿に過ぎず、自らの意思によって天下を動かすような力は得られなかった。

京に入れないままの将軍就任

このような情勢の中で、三好三人衆はまだ将軍になっていない義栄に久秀追討の命を出させた。これによって久秀と三好三人衆の関係は完全に決裂した。
一方の義親は、阿波の篠原長房(しのはら ながふさ)に連れられる形で、義輝暗殺の翌年には淡路まで進んでいた。さらに長房が摂津の越水城など、松永方の諸城を落とすと、彼を越水城に入らせる。名前を義栄と改めたのはこの摂津でのことである。

そんな中、義栄にライバルが現れる。義輝討死に際して幽閉されていた彼の弟・一乗院覚慶が元服して足利義昭を名乗り、将軍の座を狙ってきたのである。しかし、久秀と三好三人衆が河内や大和など畿内の各地で争ったため、義栄はなかなか身動きがとれないままでいた。
三好三人衆の軍勢が立てこもっていた東大寺大仏殿に対して松永軍が攻撃を仕掛け、それによって大仏殿が炎上してしまったのも、これらの争いの中での出来事である。結果、松永久秀という人は主家である三好家を下剋上で乗っ取ったどころか、将軍まで殺し、そのうえ大仏殿まで焼いて、とこの時代のタブーを片っ端から犯したことによって伝説的な悪名を獲得することになったのである。

ともあれ1568年(永禄11)、義栄はまだ摂津にとどまっていたが、三人衆の後押しを受ける形で、ようやく14代将軍に就任する。

ついに京へ入れず……

一方、越前でそれを聞いた義昭は、義栄が未だ入京できないでいるのをいいことに、上洛の準備を始めた。こうして、その年のうちに義昭は尾張の織田信長に擁立され、義栄よりも先に入京を果たしてしまう。
義昭を奉じた信長の軍が上洛したと聞き、摂津の義栄は三好三人衆ほか篠原長房や畿内の諸将に援軍を求め、織田軍との対決に備えた。
しかしこのとき、義栄は背中に腫れ物を患っていた。そして治療の甲斐もなく、結局将軍でありながら一度も入京できないままにこの世を去ったとされる。

なお、死の原因と場所、日付についてはいくつかの説がある。
他の説を見てみると、『陰徳太平記』では心労により腫れ物を患って死去したとされ、死因こそ同じものの、日付が信長と義昭の上洛以前になっているのだ。
また『平嶋記』によると、富田の普門寺で病気にかかったため、長房に勧められるまま阿波に戻って養生したが、回復の兆しなくそのまま死去したとされる。他にも、久秀に毒を盛られたため、などとする説もある。

松永久秀についてはとくに義輝殺害に無関係だったなど、その後の研究で否定されていることもありますが、初出のまま掲載しました。
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