間部詮房とともに将軍・家宣を支えたのが新井白石です。白石は同時に儒学者として、家宣の師でもありました。
6代将軍・徳川家宣の時代も甲府藩主時代の家臣たちが幕府の直臣として取り立てられました。 なかでも高崎藩5万石の大名にまで出世した間部詮房は有名ですね。
側近、それも右腕と目されるほどに寵愛されると周囲のやっかみも生まれるというもの。新井白石らによる柳沢吉保への誹謗中傷はあまりにもひどいものでした。
5代将軍・徳川綱吉の側近というと牧野成貞、柳沢吉保らの名前が浮かびますが、吉保よりも格上の側用人がふたりいたことをご存知ですか?
江戸時代は良くも悪くも安定した官僚組織であったため、陪臣からの立身出世はむずかしかったのですが、仕えていた藩主が将軍家の後継ぎとなった場合にかぎりスライドしてして幕府の直臣となるルートがありました。
付家老という微妙な立場について、当初はその役割や意義が理解されていたのでしょうが、平和な時代がつづくと不公平感が強まって独立運動に発展してしまいました。これは現代における人事の難しさとも言えます。
付家老ではないものの対馬藩宗家の家老・柳川調興が独立を画策して起こした「柳川一件」は大名と家老――とくに江戸育ちの藩主と国を預かる家老――の関係性を象徴する事件かもしれません。
御三家ではないが、北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家という親藩大名の付家老たちの紹介です。松平忠直、松平忠輝がともに幕府から重い処罰が下された背景には付家老も関わっていた可能性があります。
安藤家とともに紀伊藩の付家老をつとめた水野家では幕末期の水野忠央がとくに有名です。彼は大名として独立するためにあの手この手の画策をおこないました。
紀伊藩の付家老をつとめたのは安藤家と水野家です。なかでも初代付家老である安藤直次は大坂の陣での徴兵において空手形を発行し、のちのトラブルになったようです。
今回は尾張藩と水戸藩の付家老たちについてまとめました。付家老となった経緯も立場も異なる彼らですが、代替わりが進むとともに独立志向が強まっていくのは共通しているようです。
大名として独立したい付家老と、独立させたくない御三家。付家老を取り込みたいものの、御三家を監視するために独立は許さない幕府。この三者の微妙なバランスは幕末までつづきました。
御三家以外にも付家老は存在しました。徳川家光の弟にあたる忠長には朝倉宣正・鳥居成次がつけられていましたが、忠長が失脚すると監督不行届が咎められ、連座して処罰されることになります。
付家老の待遇は小藩の大名以上ではありながらも家格は旗本以下という、なんとも微妙な立場でした。御三家をサポートする重要や役割でしたが、幕政に関与できないジレンマもあったようです。
第3章では後継者問題のむずかしさ、とくに順当に長男が相続できなかったケースを紹介してきましたが、子どもが生まれないから養子を迎えたものの、その後に実子が生まれたため内紛発生――というのは「応仁の乱」に代表されるように「あるある」なんですよね。