攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

【戦国武将の御朱印集め】山中鹿之介のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました(京都・日蓮宗)

山中鹿之介(幸盛、鹿介)のお墓がある本満寺の御朱印をいただいてきました。
本満寺は日蓮宗京都八本山のひとつですが、それよりも京都随一の美しさともいわれる境内の大きな枝垂れ桜が有名です。

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寺町通沿いに「山中鹿之助幸盛墓有」と書かれた石碑があります。

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立派な山門です。

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本満寺はこんなお寺

本満寺は1410年(応永17年)に関白・近衛道嗣(みちつぐ)の嫡子、玉洞妙院日秀上人が今出川新町に朝廷より敷地3万坪を与えられて創建した寺院です。1536年(天文5年)の「天文法華(てんもんほっけ)の乱」で焼失し、1539年(天文8年)に12世・日重上人のときに現在地へ移転したとあるので秀吉の都市改造とは関係なさそうです。
江戸時代の1751年(宝暦元年)には、35世・日鳳上人が8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈り、その効果があったことから以来、将軍家の祈願所にもなりました。
境内の墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康の二男・秀康の正室である蓮乗院(れんじょういん)の石廟があります。寺宝には狩野元信筆の日蓮上人画像などがあります。

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本満寺の御朱印は寺務所でいただけます(9:00~17:00、年中無休)。
ちなみに日蓮宗では御朱印とは呼ばず、「御首題」もしくは「御題目」と呼ばれます。

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御朱印帳もわけて、日蓮宗用に御首題帳を用意される方もいますが、ぼくは同じ御朱印帳に書いていただきました(500円)。
調べてみると日蓮宗以外の御朱印が書いてあると略した「妙法」で、専用の御首題帳にお願いすると「南無妙法蓮華経」と書いていただけるようですね。ぼくは他宗派と混在していたので「妙法」でした。
(押していただく朱印は同じようです)

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山中鹿之介のお墓はどこに?

鹿之介のお墓は裏手にまわったところの墓地にあります。

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案内はないのですが、正面の建物の前を右折すると正面にあります。

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なぜ京都に山中鹿之介のお墓が?

「山陰の麒麟児」と呼ばれ、仕えていた尼子氏の再興を最後まで願い「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったとされる山中鹿之助は織田信長の支援を受けて上月城を任されます。
しかし毛利軍に攻められ、籠城するものの、信長に三木城の攻撃を優先するよう命じられた秀吉の援軍はなく、降伏しました。生け捕られ人質となった鹿之助は、備中松山城に在陣する毛利輝元のもとへ移送される途中で謀殺されました。

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(安来市立歴史資料館蔵)

岡山県高梁市で殺された山中鹿之介のお墓がなぜ京都にあるのかというと、鹿之助の長男とされる山中幸元(鴻池直文)が江戸時代以降の豪商・鴻池財閥の始祖となったからで、どうやらその子孫である鴻池家の誰かが、本満寺に墓所を建てたという話です。
真偽は不明ですが、鴻池財閥と山中鹿之助がつながっていたのは知りませんでした。

「天文法華の乱」と現在地への移転時期について

寺伝によれば、1539年(天文8年)に12世・日重上人のときに現在地へ移転したとあります。
ここで「天文法華の乱(天文法難・天文法乱)」について少し理解しておく必要があるので説明すると、京都において日蓮宗(法華宗)というのは当時絶大な力を持っていました。また武装もおこない、他宗派とも争っていました。
1532年(天文元年)、管領・細川晴元と対立した浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)が入洛する噂が広がると、翌年には日蓮宗の門徒集団(法華衆)は晴元とともに山科本願寺を焼き討ちし、さらに勢力を拡大しています。

1536年(天文5年)には比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れたことに端を発し、両者の対立は激化し、最終的には延暦寺が南近江の守護・六角定頼や畿内近国の大寺院を味方につけ約6万の軍勢を動員、京都の日蓮宗寺院、法華宗二十一本山を焼き払いました。これが「天文法華の乱」で、二十一本山は堺の末寺に逃れています。
なおこのときの被害ですが、下京の全域、および上京の3分の1ほどが焼失しており、被害規模は「応仁の乱」を上回っています。

その後、1542年(天文11年)に勅許が下り、十五本山が京都に戻ったのですが、本満寺は近衛家との関係が深いことから、ほかの本山に先駆けて1539年(天文8年)に、関白・近衛尚道の外護によって京都帰還が許されています。
この京都帰還のタイミングで現在地に再建された説と、いったんは別の場所にあって、寺町通の多くの寺院と同じように豊臣秀吉の京都改造計画によって移転してきたという説があります。

いったんは別の場所にあったという説の根拠は天文年間後期に描かれたとされる「上杉本洛中洛外図屏風」の存在です。この屏風絵にも本満寺が描かれており、その位置は、創建地の今出川新町(現在の元本満寺町)から南へ約300mの一条小川付近に描かれているのです。
そのため京都帰還時には一条小川に再建され、のちに秀吉の命により現在地に移転したと考えられます。

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(上杉本に描かれた本満寺の位置は一条小川付近)

京都で再興された日蓮宗寺院

堺から京都に戻った日蓮宗寺院には「本能寺の変」で有名な本能寺をはじめ、その際に織田信忠が宿泊していた妙覚寺、本阿弥光悦や長谷川等伯にゆかりのある本法寺、秀吉の妙顕寺城築城にともないさらに移転させられた妙顕寺などがあります。

こうしていろいろとつながっていくのはほんとうにおもしろいですね。

【戦国武将の御朱印集め】織田信長のお墓がある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました(京都・浄土宗)

今日は京都市上京区寺町今出川にある阿弥陀寺の御朱印をいただいてきました。
ここは織田信長のお墓があるお寺として有名です。

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「本能寺の変」で織田信長が明智光秀に討たれたことはよく知られていますが、その遺体が見つからなかったために羽柴秀吉に「信長は生きている」というデマを流す余地を残してしまい、結果として「山崎の戦い」で光秀が敗れたことはご存知のとおりです。
ちなみに当時のイエズス会の記録では「毛髪も残らず塵と灰に帰した」とあり、また『信長公記』では信長の遺体について明記されていません。

全国には信長の墓と伝わる寺社がたくさんありますが、なかでももっとも遺骸が眠る可能性が高いとされているのがこの阿弥陀寺です。
門前にも「織田信長公本廟」という石碑があります。

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阿弥陀寺はこんなお寺

『信長公阿弥陀寺由緒之記録』によれば、事態を聞きつけた清玉上人が僧20人あまりを引き連れて本能寺に向かっったところ、すでに境内は炎上していて近づくことはできず、しかし裏門近くの竹林で信長の家臣たちが遺体を火葬しようとしていたところに遭遇、家臣らが話すには信長の遺言で死体を敵に渡すなと命じられたものの、連れ出すことは困難であることから火葬しようとしたとのこと。
清玉上人は自分は信長と格別の関係だからと話し、家臣たちが敵と戦っている間に遺体を火葬すると白骨を法衣に包み、本能寺の僧が逃げ出すのにまぎれこんで、寺に持ち帰って埋葬したそうです。その後、二条城(二条御新造)から織田信忠、森蘭丸など112人の遺体も持ち帰って埋葬したと伝わります。

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本堂に安置されている織田信長の木像は本人にもっとも似ているとされ、毎年6月2日におこなわれる「信長忌」のときにほかの寺宝とともに一般公開されます。 

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阿弥陀寺の御朱印

御朱印は庫裏でいただけます(9:00~16:00、年中無休)。

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阿弥陀寺の御朱印は2種類あり、本尊の「阿弥陀如来」と書かれたものと、「信長公本廟」と書かれたものがあります(いずれも500円)。

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ぼくは両方書いていただきましたが、「信長公本廟」のほうは織田木瓜をかたどった朱印が押されます。

信長のお墓はどこに?

信長のお墓は墓地に入ってまっすぐいくとあります。
墓地へも案内板がちゃんとありますので迷うことはないと思います。

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周囲には森蘭丸などのお墓もあります。
また清玉上人のお墓も同じ墓地にあります。

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清玉上人と信長の関係

妊娠中の清玉上人の母親が道端で倒れたところを、信長の異母兄である織田信広が助けました。
母親は清玉上人を出産後に亡くなったので、清玉上人は織田家の中で育てられ、阿弥陀寺の住職になりました。
清玉上人が開いた阿弥陀寺には信長をはじめ、正親町天皇や多くの武将らが帰依しました。信長らの援助もあり、今出川大宮付近に八町四方、13の塔頭を擁する大伽藍だったそうです。

「本能寺の変」後、「山崎の戦い」で明智光秀を討った羽柴秀吉が信長の遺骨が阿弥陀寺で供養されているという話を知り、自らが後継者であることを世に示すために信長の葬儀を執りおこなおうと遺骨の引き渡しを求めます。
しかしすでに葬式はおこなったと清玉上人は秀吉の申し出を断ったため、秀吉は寺領を四分の一に削り、現在地に移転させました(移転は都市改造計画の一環で阿弥陀寺にかぎった話ではないと思います)。
阿弥陀寺は参詣者も減り、困窮しましたが、森蘭丸の弟である森忠政とその子孫が寄進して寺を支えたそうです。ちょっといい話ですね。

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【戦国武将の御朱印集め】織田信長を祀る建勲神社の御朱印をいただいてきました(京都)

 城団のオリジナル御朱印帳が届いたので、最初にどこで御朱印をいただこうかと迷ったのですが、うちの近所でしかも織田信長を祀っている建勲神社にしました。
ここは船岡山城跡でもありますしね。

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建勲神社はこんな神社

建勲神社は織田信長を主祭神とし、明治天皇の命により創建された神社です。「建勲」の神号は明治天皇が下賜されたそうです。
ちなみに正式には「たけいさおじんじゃ」と読むのですが、みんな「けんくんじんじゃ」と読んでますね。

この船岡山は平安京造営の際、四神相応の玄武(北の基点)としていわゆる碁盤の目の町並みをつくる基準になりました。「応仁の乱」の際は西軍の陣地・船岡山城として築城されましたが、すぐに廃城となっています。
その後、織田信長が「本能寺の変」で討たれると、後継者として名乗りを上げた羽柴秀吉によって信長の廟所と定められました。その由来もあり、ここに信長を祀る神社が創建されたわけです。

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建勲神社の御朱印

御朱印は社務所でいただけます(9:00~17:00、年中無休)。

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建勲神社の御朱印は2種類あり、こちらは通常の「建勲神社」と書かれたものです(300円)。「天下布武」の朱印がカッコいいです。

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御朱印をいただく際、墨が移らないように半紙が挟まれる事が多いのですが、建勲神社では上の写真のとおり、信長の「でかした」スタンプが押された紙が挟まれていました。このスタンプは寺町の田丸印房さんで売ってるやつかなあ。

もうひとつは見開きで書いていただく「天下布武龍章御朱印」で信長の花押が入っています(500円)。

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両方の御朱印をいただくことは失礼にあたらないんですかと尋ねたところ、ぜんぜんそんなことないですよとおっしゃってくださったので、両方書いていただきました。

ほかにも「敦盛」が書かれたものなどが書置きでありました。

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建勲神社には「桶狭間の戦い」で信長が今川義元から戦利品として奪ったとされる重要文化財「義元左文字(宗三左文字)」があり、また「薬研藤四郎」の再現刀が奉納されるなど、信長にまつわる刀剣が所蔵されていることから、刀剣バージョンの御朱印(御朱印色紙)もあります。こちらは書置きでした。

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「へし切長谷部」の特別御朱印もはじまりました。

御朱印帳も販売されてます。やっぱり「天下布武」を使えるのは強い。

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全国にある建勲神社

京都だけでなく、建勲神社は山形県天童市と兵庫県丹波市にもあります。もちろんすべて織田信長を祀っています。
いずれも織田信長の次男・信雄の子孫で、四男・信良の系統が小幡藩→高畠藩→天童藩と移り、廃藩置県を迎えました(天童織田家)。そして五男・高長の系統が宇陀松山藩→柏原藩と移り、廃藩置県を迎えました(柏原藩織田家)。

織田信雄は「小牧・長久手の戦い」で秀吉と戦い、連合を組んでいた家康に無断で和睦し、さらに「小田原征伐」で武功をあげながら三河・遠江への転封を嫌がって改易となり、「大坂の陣」後に大名として復帰するなど、波乱万丈の人生を送っていますが、織田の血脈をこうしてつないだことは評価されるべきでしょうね。

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船岡山城として攻城も

冒頭に書いたとおり、いちおうここも城址です。
山頂西側には少しだけ広場があるのですが、ここからは京都タワーまで眺望できるので、「応仁の乱」のときは木もなかったでしょうからかなり見晴らしが良かったんでしょうね。

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下の写真の左端に京都タワーが見えているのがわかりますか。

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散歩ついでにけっこう夕方に出かけたのですが、これから京都市内を中心にいろいろと戦国武将にゆかりの寺社をめぐって御朱印集めをはじめようと思います。

船岡山城の情報はこちら。

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大文字山(如意ヶ岳)にのぼってきました

二条城の天守台からもよく見える「大」の跡――五山の送り火、いわゆる「大文字焼き」の火床にいけるのをご存知でした?
近くにいけるとかそんなレベルじゃなく、「大」の線上に立てるくらい、まさに「現地」にいけるんです。

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正式名称は「如意ヶ岳(にょいがだけ)」といいます。
初心者向けのトレッキングコースとして紹介されることも多いくらいで、道中は山道といえどかなり整備されているのでスニーカーでも十分のぼれます。

右足首をリハビリ中のぼくで40分くらいだったので、健脚な方なら20〜30分程度で、体力に自身のない方でも1時間もあればのぼれると思います。

銀閣寺裏からのぼる

登山口はいくつかあるのですが、銀閣寺の裏からのぼるのが一般的みたいです(というかいちばん近い)。
銀閣寺の門前を左に曲がって、そのまま道なりに進むと看板が出てきますので、右に進みます。

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上の写真の奥に見えている赤いコーンのところは「駐輪禁止」と書いてありましたが、その少し先にある案内板(下の写真)の前あたりは駐輪できるっぽいです。

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さらに道なりに進んでいきます。
このあたりは地面も舗装されているので歩きやすいのですが、けっこうな勾配なので水分は必須です。
(途中、湧き水もありました)

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苔むしてる感じが良いですね。

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ようやく登城口

この小さな橋がスタート地点です。

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途中の様子を写真で紹介しますが、初心者向けとはいえトレッキングコースなので山にのぼり慣れていない素人にはそこそこきついです。

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真ん中あたりで「鹿ヶ谷の陰謀」で知られる「鹿ケ谷」の地名が出てきます。
平安時代に起きた平家打倒の陰謀事件ですが、平清盛が反対派を粛清するためにでっち上げたという説もありますね。

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このあたりからは平坦なところと急坂なところが交互に出てきます。

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最後の石段はかなりきついですが、その先にご褒美があると思ってがんばりましょう。

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京都市街を見渡せる最高の眺望が

ようやく到達です!

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「大」の字は中腹(標高約300m)くらいにあるのですが、京都市街をすべて見渡すことができます。
御所周辺の緑とか、京都タワーもよく見えます。

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自販機もなにもないので、ふもとで飲み物は買っておいてください。ぼくはここでおにぎりを食べましたがすごくおいしかったです。
(もちろんゴミは持ち帰りましょう)

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このひとつ一つを「火床(ひどこ)」といって、大文字には75個の火床があるそうですよ。
ほかの「妙法」は「妙」が103個で「法」が63個、「船」は79個で、「鳥居」は108個、「左大文字」は53個の火床があるとか。

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大の字の頂点を「字頭(じがしら)」と呼ぶそうですが、階段でのぼっていけます。
基本的に火床に沿って階段が設けられています。

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次の写真は左のはらいをしたから見た眺めですが、山の斜面に沿って火床が並んでいるのがわかると思います。
(帰りはここから降りました)

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ちなみに「五山の送り火」当日は入山禁止ですが、終わったあと安全が確認されると解除されるので、深夜から早朝にかけてじっさいに燃やされた「消し炭」を求めて大勢の人がのぼってるらしいです。

五山の送り火とは

「五山の送り火」の起源は弘法大師説や足利義政が始めたとされる説など諸説あります。
「大」の字は弘法大師が書いたのを再現してるなんて話も聞いたことがありますが、じっさいのところはよくわかりません。
ただ江戸時代に「五山の送り火」がおこなわれていたことは記録に残ってるそうなので、二条城から見えたという話はウソじゃないかなと。

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如意ヶ嶽城と中尾城

「大」の字は中腹と書きましたが、そのまま山頂までのぼると如意ヶ嶽城があります。
「応仁の乱」の頃に築かれた城で、どうしてこんなところに城を築いたのかというと、ここは京と近江を結ぶ最短ルートだったからです。

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またもう少し低いところに中尾城があります。
細川晴元が三好長慶に敗れたことにより京を追われ、近江・朽木谷に逃れていた12代将軍・足利義晴がふたたび入京するために築いた最前線の城が中尾城です。

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しかし義晴自身は城が完成した翌年に病死したため、ここには嫡男の13代将軍・足利義輝が入城しますが、1550年(天文19年)11月21日に起きた「中尾城の戦い」で三好軍に攻められると、義輝は城を自ら焼いて近江に撤退しました。

山麓にはこんな看板があります。

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「応仁の乱」以降の京は、それこそ信長が常駐しなかったこともあり、「本能寺の変」や秀吉の聚楽第まであまり注目されませんが、三好長慶と足利将軍との対立などちゃんと学べばおもしろそうですね。

「二条城夏季ライトアップ2019 -Directed by NAKED-」の見どころを写真と動画で紹介

今日から8月15日まで開催される「世界遺産・二条城 夏季ライトアップ」(二之丸庭園夜間特別公開)のメディア向け内覧会が開催されたので参加してきました。

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今回の内容は以下のとおり発表されています。唐門や二の丸庭園のライトアップのほか、二の丸御殿・大広間の障子に妖怪をテーマとしたプロジェクションマッピングが実施されます。

  • 特別名勝 二之丸庭園ライトアップ
  • 国宝 二之丸御殿プロジェクションマッピング
  • 重要文化財 二之丸御殿唐門ライトアップ
  • 清流園ライトアップ
  • 星空友禅展示(新規)
  • 光り輝く京友禅と星空のプロジェクションマッピングで,二之丸御殿台所内に光の空間を演出
  • 願い七夕(新規)
  • 子ども達の願いが書かれた七夕飾りをライトアップし展示

またルートは東大手門から入り、唐門をくぐって二の丸庭園に出て、本丸櫓門前を北に曲がって進み、清流園を歩いて、展示収蔵館のほうに抜けるという流れです。
(途中、台所や休憩所横のレクチャールームでも展示があります)

ではおもな見どころをたっぷり撮影してきたのでご覧ください!

「二条城夏季ライトアップ2019 -Directed by NAKED-」の見どころ

東大手門からはじまる妖怪の世界

今回は妖怪をテーマにしていることから、全体をブルーの照明にしているそうです。

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中に入ると大型の行灯が並んでいます。

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やはり唐門はライトアップに映える

金色の装飾がきらびやかな唐門は夜のライトアップでこそ魅力が全開になります。

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期間中は人の往来があるのでなかなか無人の構図で撮影することはむずかしいと思いますが、おそらく終了時間近くにいけば撮影できる可能性が高いと思います。
(唐門は出口の東大手門からも近いので、ひととおり見終わってからまわるくらいでいいかも。最終入場は21:00なので、そこから終了時間の21:30の間ならこの付近は空いてると思います)

二の丸御殿・遠侍と車寄せの幽玄さがいい

唐門をくぐると二の丸御殿です。遠侍と車寄せがライトアップされていて、地面にも妖怪が投影されます。

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大迫力のプロジェクション・マッピング

大広間の障子に投影されたプロジェクション・マッピングです。
妖怪たちの七夕をテーマにした映像で、映像が2分30秒、インターバルが1分となっています。

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去年も同じような百鬼夜行をテーマにしたプロジェクション・マッピングをやっていたので、NAKEDの方に完全新作なのかと質問したら、75%新作で、妖怪列車などはあえて同じモチーフを使ってるとおっしゃってました。

動画も撮ってきました。


京の七夕プロジェクションマッピング2019(二条城二の丸御殿)

蹴鞠の演出は江戸時代、ちょうど見学している場所あたりで蹴鞠をやっていたからだとか。
(寛永行幸の際は能舞台があった場所ですね)

二の丸庭園の鏡面反射は必見

二の丸庭園のライトアップは何度見ても感動します。
風がない日は水面の鏡面反射がほんとうに美しいのでぜひご覧になってください。

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色とりどりの風鈴の音色も素敵

風がない日は庭園の水面を見ればいいし、風があるときはこの本丸内堀沿いに並んだ風鈴が見事な音色を聞かせてくれるでしょう。
この場所は南北に抜けているので少し待ってると風が吹くと思います。

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香雲亭では琴の生演奏が

清流園にある香雲亭では今年も琴の生演奏がおこなわれます。
(琴の生演奏は19:30〜、20:00〜、20:30〜の3回)

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並木道では天の川をイメージしたライトアップ

桜や紅葉など毎回さまざまなライトアップがされる北側の並木道ですが、今回は天の川をイメージしたライトアップがされています。

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また北大手門もライトアップされているのでここも見逃さないようにしたいですね。

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台所では京友禅の展示も

台所前には地元の子どもたちによる七夕飾りが展示されています。

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そして台所の中には星空をテーマにした京友禅の展示があります。

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なおこの台所内は9日と10日の2日間にかぎり「妖怪モノノケ市」としてフリーマーケットが開催されます。

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説明を聞きながらの内覧会でしたが、約1時間ほどでした。
ゆっくり写真を撮ったり、人の流れが途切れるのを待ちたい場合はもう少しかかるかもしれませんね。

過去の経験から言うと、地元の方や近くに宿泊される方はできるだけ20時以降に入城したほうが空いていると思います。

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この「世界遺産・二条城 夏季ライトアップ」は8月1日から15日までです。
初日は先着2000名に特製のうちわが配布されます。 

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余談ですが、今回の写真はすべて最近購入したスマホ(Google Pixel3)での夜景モードで撮影しました。三脚もなしでスマホだけでここまできれいに撮影できるのはびっくりしました。

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二条城で「松鷹~桃山の遺風~」のギャラリートークを聞いてきました

昨日は雨の中、二条城の展示収蔵館で開催されたギャラリートークに参加してきました。

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今回も松本学芸員による解説で、基本的には先日の解説会で伺った話との重複もありましたが、それ以外のことをメモとして共有しますね。
(松本学芸員はお話も上手なので、同じ内容でも何度聞いてもおもしろいです)

  • 二条城における復元模写は「古色復元模写」という方法を採用していて、絵の具の変色や汚れなど経年変化も含めた現状を模写している(おおよそ制作から100年後を想定)
  • 「松鷹図」、とくに南西隅にいる岩の上に乗った鷹は人気なので全国の美術館に貸し出されていることが多く(フィラデルフィアで開催された狩野派展にも出張した)、いつでも二条城で展示できるわけじゃない
  • 「松鷹図」の狩野山楽説を唱えたのは川本桂子さんが最初(1990年頃)、若い方では静岡県立美術館の学芸員も山楽説を主張
  • 狩野探幽は「画壇の家康」という異名がある
  • 個人の「くせ」をもとに画家を特定する手法・技術を確立したのは二条城の模写事業の初代監督をつとめた土居次義(どい・つぎよし)先生で、イタリアの美術史家ジョヴァンニ・モレッリが考案した「モレッリ法」をアレンジして取り入れた
    • 「モレッリ法」では手足の指、爪、耳の形などに特徴を見出すが、日本の障壁画は山水図や花鳥図が中心であるため、木の皺の線、水の流れの線、陰影の付け方で判断する
    • ただし二条城では塗り直し、描き直しと修復されているのでオリジナルの線がわからない(二条城にかぎらず金碧障壁画はだいたい修理の手が入っている)
    • 鳥は比較的オリジナルの線が残っているので今回の特定に用いられた(そのほか松の全体的な形や構図の取り方も参考)
  • 二条城二の丸御殿は桃山様式の障壁画と、探幽が作り上げた新様式(余白を復活させた)の両方の時代様式の絵が見れる貴重な場所
  • 修復事業については現在の技術、そして倫理の観点から表面の傷は直せないため残したままになっている
話をそのまま文字起こししているのではなく、要約・補足しつつ書いています。

新しい知識として「モレッリ法(モレッリ式鑑定法)」というのが出てきました。

モレッリ法とは

19世紀のイタリアの美術史家ジョヴァンニ・モレッリ(Giovanni Morelli)が芸術作品の作者を特定するために編み出した鑑定方法。
絵画作品において、人物の耳や指先といった小さく目立たない部分にこそ画家の特徴・癖があらわれるとし、それらの体系化と比較対照が、署名のない作品の作者を割り当てたり、真作/偽作を判断するのに有効であると主張しました。
モレッリ法は痕跡から犯人を追跡する探偵や指紋鑑定による身元確定になぞらえられる一方、無意識にあらわれる兆候に個人の隠れた本質を読みとる点から、精神分析を発見する以前のフロイトが注目していたとされている。

こうした技術で美術史家の方々は真贋を見極めたり、作者を特定(推定)されているんですね。

最後に、今回二条城では大広間四の間の「松鷹図」を狩野探幽ではなく狩野山楽によるものだと断定することにしたわけですが、同じように「探幽または山楽」と併記されてきた、式台の間の「松図」についても山楽と断定するのか質問したところ、現時点ではまだ「松図」については結論が出ていないとのことでした。

国宝・二の丸御殿「大広間四の間」特別入室は8月26日(月)まで、展示収蔵館での原画公開は9月8日(日)までとなっています。
二条城を代表する障壁画「松鷹図」の原画と模写の両方を見比べることができる貴重な機会です。まだ日程的に余裕がありますので、ぜひ京都までお越しください!

なおこちらの解説会のレポートも未読の方はあわせて読まれることをオススメします。 

blog.kojodan.jp

kojodan.jp

p.s.
川本桂子さんの名前で検索するとこの2冊が見つかりました。
山楽の名前があるので下のほうの本かな。 

狩野永徳 (新潮日本美術文庫)

狩野永徳 (新潮日本美術文庫)

 
新編 名宝日本の美術 (21) 友松・山楽 (小学館ギャラリー)

新編 名宝日本の美術 (21) 友松・山楽 (小学館ギャラリー)

 

夏の京都で水遊び! 下鴨神社の「みたらし祭」にいってきました

下鴨神社のお祭りというと上賀茂神社と合同でおこなう例祭「葵祭」が有名ですが、全国的に知られている「葵祭」だけじゃなく、じつは「みたらし祭(御手洗祭)」というのもあるんです。
こちらは毎年7月中旬におこなわれるのですが、観光客はほとんどいなくて地元の人が多い印象です。

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でも地元民目線ですけど、このお祭りはすごく楽しくて毎年参加してるのでちょっと紹介させてください。
とりあえずどんなお祭りなのか見てもらったほうが早いと思います。

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〜御手洗祭のながれ〜

  1. 履き物を脱ぎ、受付で献灯料を納め、ロウソクを受け取ります。
  2. 身体を清める気持ちで、心静かに御池に入ります。
  3. 清らかな「斎火(いみび)」をロウソクに点して、御神前に供え、お祓いの神様に一年の無病息災をお祈りします。
  4. 御池から上がったら「御神水」を頂き、内側から全身を清めます。

足を浸け、お水を飲んで身を清め、心身とも爽快に一年を過ごしましょう。

流れは簡単です。まず靴も靴下も脱ぎます。
さらにズボンのすそをひざ上までまくりあげます。むしろ短パン推奨です。

受付で献灯料(ひとり300円)を払ったらロウソクを受け取って御池に進みます。

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ぼくは去年経験してるのでこの先の状況を知っていますが、はじめての人はけっこう驚くと思います。

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そのまま御池に入ります。

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水深はどんどん深くなっていきます。

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ぼくの身長(191cm)で膝下まで浸かるので、40〜50cmくらいの深さです。
子どもはびしょびしょになってました。

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じっさいにはこの御池の中で、受付でもらったロウソクに火をつけて、それを消えないように慎重に運んでお供えします。

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でもまあそんなことはどうでもいいんだよってくらい、みんな楽しんでます。
とくに天気がいい日は膝まで水に浸かるのは気持ちいいですしね。

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そのあと靴を履いて、御神水をいただきます。

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「二葉葵」は下鴨神社の神紋ですね。
この茶碗というか湯呑みは購入できます(1000円)。

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ちなみに葵紋というと徳川家の「三葉葵」が有名ですが、徳川家の祖・松平氏は賀茂神社の氏子だったことから葵紋を用いたそうです。

そのあとお祓いをしてもらいます(200円)。

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まあぼくは去年もこれを書いて、その数週間後に足を骨折してるから効果があるのかどうかはわかりませんが、両足骨折が片足ですんだのかもしれないので、とりあえずポジティブシンキングでいきます。

冒頭に地元の人が多いと書きましたが、いちおう説明には英語と中国語が用意されていました。

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「葵紋」ほど大掛かりじゃないですし、このためだけに京都に来るのももったいないですけど、毎年やってますし、すごく楽しいお祭りなので日程があえばぜひ。

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今年は7月28日までやってます。

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みたらし祭りの由来

下鴨神社のサイトの説明を読むと、もともとは貴族の行事だったみたいですね。

平安期の頃、季節の変わり目に貴族は禊祓いをして、罪、けがれを祓っていた。土用の丑の日に御手洗池の中に足をひたせば、罪、けがれを祓い、疫病、安産にも効き目があるといわれている。毎年、土用の丑の日に境内御手洗池に祀られている御手洗社において「足つけ神事」が行われる。老若男女が集まり、御手洗池で膝までを浸し、無病息災を祈る。

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ぼくはまた来年も行くと思います!

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最後に参加される方へのメモとして。

  1. すそをまくりあげられる服装で(できれば短パンで)
  2. 足を拭くタオルを忘れずに
  3. 水筒やペットボトルを持参すると「御神水」を持って帰れます

令和最初の祇園祭(宵山)にいってきました

最近では観光客が増えすぎて京都市民がいかなくなったといわれている祇園祭ですが、ぼくも山鉾巡行はKBS京都のテレビ中継で見ることが増えましたが、毎年昼間に出かけるようにしています。
やっぱりお祭りは気分もアガるし楽しいですからね。
今回はスマホを買い替えたので、デジカメは持たずにPixel3だけで写真を撮ってきました。ほんとは夜景モードを使いたかったんですけど、夜は人が多すぎるので諦めました。

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祇園祭とは

今年で1150年目を迎える祇園祭ですが、そもそも祇園祭は京都八坂神社の祭礼で、869年(貞観11年)に疫神怨霊を鎮める祇園御霊会(ごりょうえ)がその起源とされています。2019−869=1150というわけですね。
全国的に疫病が流行したため、その退散を祈願して長さ6mほどの矛を、当時の国の数にちなみ66本立てて、牛頭天王を祀ったことにはじまります。
66国というのは令制国や律令国というやつで、尾張とか三河とかぼくらにとってなじみある「旧国」というやつです。なお対馬・壱岐は「嶋」として扱われたので、それを含めると68になります。

祇園祭はその後、970年(天禄元年)以降、毎年の恒例行事となります。
平安時代はだんだんとにぎやかになり、室町時代や戦国時代には現在のように山鉾が登場していたことが「洛中洛外図屏風」などに描かれています。山鉾の数は年々増えて、15世紀には58基の山鉾が現在とほぼ同じ姿で京の街を巡行していました。
しかし「応仁の乱」により京の街とともにそのほとんどが焼き尽くされてしまいます。1500年(明応9年)に町衆が結集して山鉾を再興させ、前祭26基・後祭10基の山鉾が巡行しました。
その後も京都には宝永の大火(1708年)や天明の大火(1788年)、蛤御門の変(1864年)など大火に見舞われるたびに被害を受けましたが、町衆の力により今日まで継続されてきました。

山鉾紹介(一部だけ)

蟷螂山(とうろうやま)

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全山鉾の中で唯一のからくり仕掛けで、ぼくはここのちまきを毎年買ってます。
(今年は間に合わなくて買えなかった)

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おみくじもからくり仕掛けになってます。

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四条傘鉾(しじょうかさほこ)

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織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行します。
地元小学生16名が披露する「子供棒振り踊り」は国選択無形民族文化財に指定されています。

菊水鉾(きくすいほこ)

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町内の金剛能楽堂内に古くからあった「菊水井」にちなんで名付けられたとか。
鉾頭には16弁の金色の菊花があります。

函谷鉾(かんこぼこ)

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「くじ取らず」のひとつで毎年全体では5番目、鉾では長刀に次いで2番目と決まっています。
鉾頭には三日月があります。

長刀鉾(なぎなたほこ)

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四条烏丸の目立つところにあるので人混みもすごいです。
アーケードに隣接して建てられているので、横断歩道から撮るのがいいかも。

間際から見上げるとこんな感じです。

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鶏鉾(にわとりほこ/とりほこ)

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鉾頭には三角形があるんですが、これは鶏の卵が諌鼓の中にあることを表しているそうです。
室町通のちょっと広めの場所にあるのでテレビ中継も多いです。

白楽天山(はくらくてんやま)

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唐の詩人・白楽天にちなんだ山で、真松は山の中で一番高いそうです。

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木賊山(とくさやま)

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木賊を「とくさ」と読むのは知りませんでしたが、シダ植物の名前だそうです。

太子山(たいしやま)

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聖徳太子を祀っていることから名付けられています。
唯一、真松ではなく真杉を立てています。

油天神山(あぶらてんじんやま)

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菅原道真を祀っていることと、油小路通にあることから名付けられたとか。

芦刈山(あしかりやま)

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世阿弥の作といわれている謡曲「芦刈」にちなんだ山です。
御神体衣装は山鉾最古で、ふだんは国立博物館に保存されています。

また芦刈山の胴懸(どうかけ)は「豊公獅噛鳥獣文様」で、「豊公」とあるから豊臣秀吉に関係しているのかなと思ったら、どうやら秀吉の陣羽織を参考にしてつくったそうです。
(胴懸はいくつか種類があるとか)

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岩戸山(いわとやま)

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岩戸山も「くじ取らず」で、22番目に決まっています。
いわゆる「天の岩戸」の神話にちなんだ山です。

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岩戸山にのぼってみた

長刀鉾をはじめ、山鉾のなかにはのぼらせてくれるところがあります。
かなり人気なことに加えて、そもそもの場所が狭いので、どこも行列がすごいんですけど、たまたま岩戸山が空いていたのでのぼらせてもらいました(300円)。

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天井など外から見えないところもすごくきれいです。

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こんなふうに視界が広がります。ずーっと奥に放下鉾の鉾頭が見えますね。

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いい体験をさせてもらいました。
知らない人たちにめちゃくちゃ写真を撮られますけど、一度のぼってみることをオススメします。

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祇園祭のおおまかな流れ

7月17日の前祭(さきまつり)で23基の山鉾が巡行した後、24日の後祭(あとまつり)では10基の山鉾が巡行します
山鉾巡行の順番は前祭の先頭が毎年必ず「長刀鉾 (なぎなたほこ)」であるように「くじ取らず」として決まっているものがいくつかありますが(正確には9基)、そのほかはくじで決まります。今年は2年連続で「蟷螂山(とうろうやま)」が一番(=長刀鉾の次)を引きましたが、こうした「くじ取り式」が月初にあるなど、1か月かけて行事(山鉾行事)がおこなわれます。

一般には祇園祭では山鉾巡行がメインイベントだと思われがちですが、じつはそのあとにおこなわれる「御輿渡御(みこしとぎょ)」がもっとも重要な行事です。
前祭での山鉾巡行が終わると八坂神社から中御座・東御座・西御座と3基の御輿が出発し、御旅所へ向かう「神幸祭(しんこうさい)」がおこなわれます。中御座には素戔嗚尊(すさのをのみこと)、東御座には櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、 西御座には八柱御子神(やはしらのみこがみ)が奉られていて、そのまま四条寺町にある御旅所で7日間とどまったのち、ふたたび八坂神社に戻る「還幸祭(かんこうさい)」がおこなわれます。
山鉾巡行は神様を楽しませるための「神賑(かみにぎわい)」の行事で、「神幸祭」にあわせておこなわれる山鉾巡行を「前祭」、「還幸祭」にあわせておこなわれる山鉾巡行を「後祭」と呼びます。
余談ですけど「後祭」は「後の祭り」の語源ですね。

この御輿渡御のルートは一定ですが、一度だけ二条城前(堀川通)を通ったことがあり、「洛中洛外図屏風」に描かれています。
それは1615年(慶長20年)の「大坂の陣」があった年で、凱旋した家康を讃えたということだそうですが、京の町衆は秀吉びいきだったはずなのに、そういう配慮はするんだなとびっくりしました。

なぜ信長の家紋、織田木瓜があるの?

すべての山鉾の提灯に描かれているのが、この木瓜紋です。

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家紋に詳しい人なら、木瓜紋を見て「織田信長が振興したの?」と思うかもしれませんが、これは八坂神社の神紋(神社の家紋みたいなもの)です。
牛頭天王を祀る神社は基本この木瓜紋で、八坂神社と並ぶ牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)である津島神社を崇敬していた織田家は木瓜を家紋としたそうですよ。

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なお祇園祭の期間中、町衆の方々は祇園祭のときは神紋の形に似てるからと、きゅうりを食べなかったそうです。

1000年以上もつづいているお祭りですから、当然ぼくらが知っている歴史上の人物も大なり小なりかかわっています。
太子山のように聖徳太子を祀っているとかわかりやすいのもありますが、こうした家紋つながりとか、秀吉の陣羽織を参考にした胴懸のこととか、ちいさな関係性を見つけるとうれしくなりますね。

仁和寺の「青もみじライトアップ」を見てきました

現在、京都にある真言宗御室派総本山仁和寺では「青もみじライトアップ」が開催されています。

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仁和寺といえば「徒然草」の「仁和寺にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。」の一節を思い出す人も多いんじゃないかと思いますが、立命館大に通ってたぼくにとっては龍安寺や金閣寺と並んで大学の近所にあった大寺院で、入学当初はこっちの方面に住んでたこともあり、毎日山門である「二王門」の前をバイクや自転車で走っていました。

ただ一度も中に入ったことはなく、今回「仁和寺千年の歴史で初となる青もみじのライトアップ」ということで出かけてきました。

撮影できるスポットはおもに3ヶ所

仁和寺の境内は広大ですが、今回はその一部が夜間開放されており、撮影スポットも

  1. 五重塔
  2. 九所明神
  3. 金堂

の3ヶ所です。
混んでなければ30分程度ですが、週末など混雑すると待ち時間がけっこうかかるかもしれません。
ただし撮影スポットにはスタッフが常駐して、誘導を試みてくれるのでこの仕組みはいいなと思いました(守らない人もいましたが)。

たとえばこれは九所明神の写真ですが、このようにみんなが正面から撮影できるように5人ずつ撮影エリアに入るように案内してくれます。

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五重塔も幻想的できれいにライトアップされていました。
今回はスマホでも撮影しやすいライティングの設定になっているそうです。ぼくは今回、安物のデジカメで撮影したのであんまりきれいじゃないのですが、三脚も長時間でなければ利用可能なので一眼レフ+三脚の人が多かったです。スマホより多かったかな。

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僧侶が撮影モデルに

金堂前では仁和寺のお坊さんが撮影時にモデルになってくれます。
「後ろ向いてください」とか「建物だけ撮りたいのでちょっとだけどいてください」といったリクエストにも柔軟に対応してくれるので、あらかじめ撮りたい写真のイメージを決めておくといいと思います。
ここも撮影は順番待ちで「ひとり1分」となっています。

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入場料は高めですが、二王門の修復にあてられます

今回、大人2000円とちょっと高めの料金設定になっていますが、これは修復中の二王門(重要文化財)の費用にあてられるそうです。
こんなふうに使途がはっきり明示されていると文化財修復に貢献できてると実感できるのでいいですね。
(たぶん混雑緩和のために安くしなかったというのもあると思います)

写真がひどすぎて紹介できませんでしたが、ほかにも入口である二王門から五重塔や金堂に向かうルートにある勅使門や中門もライトアップされています。
仁和寺は二王門→中門→金堂と約300mのまっすぐな参道が有名ですが、暗闇の中にライトアップされた門はとてもきれいでしたよ。

今回の「青もみじライトアップ」は6月16日までなので、気になってる方はお早めに!

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ninnaji.tokyocameraclub.com

今月末で拝観休止になる源光庵にいってきました

「そうだ 京都、行こう。」のCMにも使われた京都の源光庵にいってきました。

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鷹峯(たかがみね)にある源光庵は上の写真のように丸い窓「悟りの窓」とその横にある四角い窓「迷いの窓」で有名です。
正式には「鷹峰山寶樹林源光庵」といい、大徳寺の徹翁義亨(てっとうぎきょう)の隠居所として1346年(貞和2年)に創建されました。当初は「復古堂」と呼ばれていたとか。

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山門の2階にある窓も丸いですね。
鯱も乗っていて、小ぶりながら立派な山門です。

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この立派な本堂は江戸時代中期の1694年(元禄7年)に卍山道白(かいざんどうはく)により曹洞宗に改宗された際に建てられたそうです。

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悟りの窓、迷いの窓

本堂には悟りを表す「丸い窓」と、迷いを表す「四角い窓」とふたつの窓が並んでいます。

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丸い窓を「悟りの窓」といい、「禅と円通」の心が表されているそうです。円は大宇宙を表現しているとか。

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四角い窓は「迷いの窓」といい、「人間の生涯」表すとともに生老病死の四苦八苦を表しているそうです。

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窓の向こうには枯山水庭園が見えます。

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血天井

前に訪問した妙心寺天球院もそうでしたが、京都の寺院には血天井がけっこうあります。

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これは戦士した者たちを供養するために床板を天井に上げたもので(そのまま床に使うと足で踏むことになるので天井に使った)、源光庵の天井板には「関ヶ原の戦い」の前哨戦で鳥居元忠らが討ち死にした伏見城の床板が移築されています。

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手形の血痕がくっきりわかります。

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こちらには足形が。

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鳥居元忠の位牌がありました。

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ほんとに過ごしやすいお寺です。
今月末から再来年まで修復工事のため拝観休止となるというのに、お客さんも多くなく、30分以上のんびりしていました。

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灯籠の穴も手前が四角、奥が円になっていて、こういう細部へのこだわりを見つけるとうれしくなりますね。

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御朱印もいただきました。

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拝観再開は再来年の秋

拝観再開は2021年(令和3年)10月末頃だそうです。
うまくいけば、まだ紅葉のシーズンですので、悟りの窓から赤く染まった木々を見ることができそうですね。ぼくもいまから再訪するのが楽しみです。

なお源光庵のあたりは琳派の祖である本阿弥光悦が徳川家康から拝領した土地で、いわゆる「光悦村」と呼ばれる芸術・文化の一大拠点でした。
現在も周囲には光悦ゆかりの光悦寺のほか、吉野太夫が寄進した朱色の山門(赤門)がある「常照寺」などがあります。

二条城で「梅と牡丹の障壁画~廊下を彩る花たち~」のギャラリートークを聞いてきました

今日は二条城内にある展示収蔵館へ行ってきました。
現在は第1期「梅と牡丹の障壁画~廊下を彩る花たち~」として黒書院東廊下、通称「牡丹の間」にある原画が公開されているのですが、展示されている障壁画について学芸員が解説してくれるギャラリートークが開催されたのです。
(解説してくださったのは中野学芸員)

とてもおもしろい内容だったので、メモできた範囲でみなさんにシェアしますね。

まず今回、展示収蔵館で公開されている「牡丹図」と「梅図」ですが、じっさいの位置は以下の場所になります。

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「牡丹図」は「牡丹の間」の北側と西側(四の間との境)にあり、現在も模写がはめこまれています。「梅図」は東側(台所や中庭のある面)にありましたが、現在は一般的な障子になっていて模写はありません。

「牡丹図」は新旧異なる様式で描かれている?

二の丸御殿内の障壁画は1626年(寛永3年)の寛永行幸にあわせて狩野探幽らが新規に描いたものとされています。
一般的にこうした障壁画はひとつの様式で描かれるものですが、この「牡丹図」については北側と西側で様式が異なっています。北側の二面は水辺と地面が描いてあり、牡丹の根もとが確認できます。さらに金雲が描かれており、モチーフが重なり合って奥行きのある空間が表現されています。こうした様式は狩野永徳が中心となった桃山期の狩野派の様式です。

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一方、西側は地面を描かず、ふすまの下辺からいきなり枝や幹が描かれています。これは狩野探幽が描いたとされる大広間の「松図」などに代表されるように寛永期の狩野派の様式です。

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このように立体的・重層的な旧様式と、平面的な新様式が見て取れることに加えて、北側の障壁画は金箔のサイズが小さいことからも時代が古いことを示唆しています。

ただし、なぜこのように様式が異なる障壁画が同じ部屋に存在しているかはわからないそうです。
また作者についても現時点では定かではありません。黒書院は探幽の弟の狩野尚信が中心となって描いていますが、尚信は一の間や二の間といった主要部を担当しているので「牡丹の間」は別の人が書いている可能性が高いです。

仮説としては、この旧様式の「牡丹図」二面は徳川家康が最初に創建した二条城御殿のものかもしれないという話をされていました。家康が築城した際は永徳の嫡男である狩野光信が中心になって障壁画を描いたはずなので様式的には符合しそうですね。
なお「おじいちゃん子だった家光が家康の思い出として残した」というのはありがちなストーリーですが、寛永行幸の準備は(後水尾天皇に娘を嫁がせたこと含め)大御所・秀忠が中心だったので、ちょっとご都合主義な妄想っぽい気もします。

じつはこの旧様式も新作で、あえて新旧異なる様式で描いたことに意味があるのか、今後なにかわかればいいんですけどね。

この「牡丹図」は現在も二の丸御殿内の当時の位置に複製画がはめこまれているので、見学した際にチェックしてみてください。ただし西側は四の間が開放されている場合は見れません。北側はガラスで保護されていますが、いつでも見れます。

「梅図」はもともと納戸に描かれていた

もうひとつの「梅図」は明治時代に移されており、もともとは別の場所にありました。
「梅図」はモチーフによって「紅梅図」と「白梅図」にわけられますが、「紅梅図」は大広間の納戸に、「白梅図」は遠侍の納戸にあったことが指図や引手金具などの痕跡から判明しています。
(その前はさらに別の場所にあった可能性もゼロではないとのこと)

「牡丹の間」に移されたのは1886年(明治19年)ということなので、1884年(明治17年)7月に「二条離宮」となったあとのことですね。

この2種類の「梅図」にも新旧異なる様式が見て取れますが、やはり理由は不明です。
なお作者については狩野探幽の師匠である狩野興以とされます。ただ中野学芸員は「白梅図」のほうは遠侍を担当した甚之丞の可能性もあるとおっしゃってました。

鳥の下書きが見えた?

修復の過程で「紅梅図」に鷹のような鳥の絵の下書き(墨線)が発見されました。
金箔から透けていて、今日じっさいに展示収蔵館でガラス越しに見ましたが、肉眼でも確認できました。ちょうどこの絵があった大広間の納戸の真裏にあるのが「四の間」の有名な「松鷹図」です。

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ちょうどこの絵と同じように向かって右に顔を向けている鷹のような下書きでした。
不採用だったのか、失敗作だったのか理由はわかりませんが、紙が貴重な時代だったため上から金箔を貼って再利用したそうです。
この時代の幕府がそんなケチくさいことをするのかとも思いましたが、コストの問題よりも納期(スピード)の都合で捨てずに使ったのかもしれませんね。

ちなみに「松鷹図」は探幽または狩野山楽の作といわれているので、「紅梅図」は興以ではなく山楽の可能性もあるのかも。

「牡丹の間」は部屋なのか廊下なのか

二の丸御殿はぜんぶで33部屋あるといわれていますが、最初の平面図で色が塗られた部屋を数えてみると31部屋しかないと思います。
これに「蘇鉄の間」と「牡丹の間」を加えると33部屋になるわけです。つまり部屋とみなされているということがわかりますが、寛永行幸の際にもこの「牡丹の間」は公家衆が食事をするために使われています。

さらに二の丸御殿を見学した方ならわかると思いますが、ほかの廊下では廊下側の面(室外面)は戸襖になっていてそこに障壁画はありません。三つ葉葵の引手金具が印象的ですね。
しかしここで紹介したように黒書院だけは「四の間」と「三の間」の廊下側に「牡丹図」が描かれています。

ちなみに「牡丹図」は長押の下ですが、長押の上には藤の絵が描かれています。
黒書院は各部屋で季節を表現していますが、この東廊下(牡丹の間)では牡丹と藤を描くことで晩春から初夏を表現しており、やはり通路でありながらも部屋に準じた扱いだったと思われます。

梅雨時の攻城は美術鑑賞中心で

今回の展示「梅と牡丹の障壁画~ 廊下を彩る花たち ~」は6月16日(日)までです。
とくに今回展示されている「梅図」については初公開であることに加えて、模写が二の丸御殿にないのでこの期間中に本物を見るしかありません。

梅雨時は山城などのアウトドア系は危険でもありますし、屋内中心の二条城に来て展示収蔵館も見学してみてはいかがでしょうか。
せっかくなので期間中に二条城ガイドツアーを開催してもいいかなと思っています。

展示収蔵感は別料金(200円)です。

kojodan.jp

二条城桜まつりに行ってきた

4月9日に二条城桜まつりを見に行ってきました。今年もすごくにぎわってましたよ。

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毎年出かけているのですが、少しずつ改善されていてすごいです。
たとえば唐門のプロジェクションマッピングは最初の頃はもっと時間が長かったのですが(たしか5分くらい)、2年目か3年目くらいから短くしました。今回も1分くらいでしたが、これによって渋滞がかなり緩和されています。

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もちろんプロジェクションマッピングの作品をつくる側からしたら壮大なストーリーを演出したい気持ちもあると思うんですが、渋滞が起きると満足度がすごく下がるので正しい判断だと思います。

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また今年からは「桜の園」に遊歩道が新設されていて、桜の中を歩けるようになっていました。
去年までは外から撮影するだけだったので場所の取り合いなども起きていましたが、順路が設定されたことで周辺で撮影する人とうまく整理できてたように思います。

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遊歩道の出口(南中仕切門のあたり)には謎のオブジェも展示されていました。
まあこういう光る球体はみんな好きなので写真撮りますよね。

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西橋周辺はオプションエリアとして開放

そして今回は追加料金(300円)が必要なオプションエリアが用意されていました。
これも混雑緩和に貢献していたように思います。

南中仕切門から南側を歩いて、西橋前休憩所までが開放されています。
夜にここを歩くのははじめてかも。

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この歩くのにあわせて反応する仕掛けは別のイベントでも使われてました。

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昼間に二条城を訪問された方ならわかると思いますが、西側のこのエリアにも桜が少しだけあります。
(どちらかというと梅とかイチョウが多いのですが)

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北側はライトアップでフェイク桜

北側に移動します。
まずは清流園エリアから。香雲亭の脇に桜が一本だけあるのですが、これが手前の池に反射してすごく幻想的でした。

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このあたりも少しだけ桜がありますが、どちらかというと秋の紅葉がすごいエリアですので、ライトアップで演出されてましたね。
これはこれでけっこう素敵な感じでした。

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北大手門です。
ちょっと距離はありますが、この真っ直ぐ伸びる感じは東大手門では味わえないのでぼくはけっこう好きな構図です。

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北大手門に向かって右側のエリアが飲食スペースになっています。
そこに数本だけ枝垂れ桜があります。

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背が低くかなり近づいて撮れるので、にぎわってました。

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「二条城桜まつり」は入場料が600円、オプションエリアに入るとプラス300円で合計900円ですが、写真を撮りながら歩いてると1時間ちょっとは楽しめるのでかなり満足度は高かったです。
(夜間イベントについては一口城主や年間パスポートを持っていても有料です)

おそらくまた夏にライトアップイベントをやると思うのですが、楽しみです。

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「二条城桜まつり」は今週日曜日まで

「二条城桜まつり」は14日(日)までですが、桜はおそらく昨日の雨で散ったのも多そうですし、今週も日曜が雨予報なので、おそらく土曜日くらいが最後の見頃かなと思います。

枝垂れ桜はちょうど満開かもしれませんね。

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日中は桜が散ってると残念ですが、夜に関していえば唐門のプロジェクションマッピングやライトアップだけでも十分楽しめると思いますよ。

news.kojodan.jp

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【お寺まるごと美術館PROJECT】妙顕寺で酒井抱一「観世音図」を見てきた(夜桜ライトアップも)

ここもうちの近所ですが、妙顕寺へいってきました。

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妙顕寺といえば、秀吉が聚楽第の前に築いた京都の居城、妙顕寺城を思い浮かべた人も多いかと思いますが、その妙顕寺です。もともとはいまの二条城の近くにあったのですが、妙顕寺城を築城するために現在地へ移転させられました。

現在、妙顕寺跡には城址碑があるだけです。

kojodan.jp

でもそもそもは鎌倉時代の1321年(元亨元年)に創建された、京都における日蓮宗最初の寺院です。日像上人が後醍醐天皇から賜った勅旨は重要文化財に指定されていて、宝物殿で見ることができます。

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ちなみにここも「天明の大火」で伽藍の大半を焼失しています。現在の建物はこのときに再建されたものがほとんどだそうです。
この大本堂は中を見学することもできます(撮影不可)。

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訪問したのは2日だったので桜はまだ咲きはじめでした。
(そのあと6日に再訪したらほぼ満開になってました)

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立派な玄関です。

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方丈が拝観受付になっていますが、とても大きいです。

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坪庭があったり、水琴窟を体験できたり、インスタ映えしそうな丸窓があったり(覗いた景色はさほど映えないのが難点)、大きなお寺なので見どころもたくさんあります。

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これは「孟宗竹の坪庭」です。竹の影がいい感じです。
ネスカフェのCMに使われたことがあるとか。

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写真右下にあるのが水琴窟で、柄杓で水をかけると音が鳴ります。

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こちらは「光琳曲水の庭」と名付けられていますが、尾形光琳が作庭したわけではありません。
ただしかつては妙顕寺に光琳が設計した庭があったそうです。「天明の大火」で庭も焼失したため、のちに光琳が描いた「松竹梅図」の掛け軸をもとにつくられました。

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丸窓からのぞくこともできます。
常緑樹の松なので季節感はあまり出なそうですが、雪が降ったらきれいでしょうね。

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これが大客殿。

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大客殿から眺めることができるのが「四海唱導の庭」です。
桜の横にあるのが勅使門、奥に見える大きな建物が大本堂です。天皇家だけが通れる勅使門があるのは、後醍醐天皇に認められたお寺だからですね。

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大本堂へわたる廊下から見た桜です。

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平日ということもあってか、拝観者は10人くらいしかいなかったので写真も撮り放題でした。

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記念写真用の部屋まで用意されています。
バックにあるのは大本堂の天井と同じ柄です。妙顕寺の天井は昭和に入ってから修理されたそうで、このときに檀家の家紋が描かれました。

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寺宝には酒井抱一や狩野安信の作品が

宝物殿は撮影禁止ですが、酒井抱一の「観世音図」や狩野安信の「釈迦之図」「龍之図」「虎之図」などが展示されています。
酒井抱一は尾形光琳の後継者、江戸琳派の祖といわれた人ですが、そもそも姫路藩主・酒井忠以の弟という名家の出身です。

狩野安信は狩野探幽や狩野尚信の弟で、狩野貞信が亡くなったため宗家を継いだ人物です。安信の三作は金碧障壁画ではなく水墨画の掛け軸ですが、こういう人たちの絵がふつうにあるのが京都の大寺院のすごいところです。Wikipediaの安信のページにも記載されてないのですが、ほかにもきっとたくさんあるんでしょうね。

ほかにも狩野山楽の「楼閣山水図屏風」などが妙顕寺にはあるはずなのですが、今回は展示されてませんでした。この絵は山楽の基準作例とされてるそうなので、いつか見てみたい。

展示の脇におもしろい図があったので、メモして帰ってきたので共有しますね。
(こういうのは写真を撮ればすぐなんだけど、撮影不可なので書き写しました)

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狩野家や尾形家、本阿弥家などが朝廷や幕府と仕事上のつながりがあったことはよく知られていますが、日蓮宗とも関係が深いこと、また相互に婚姻関係があったことなどがまとめられています。

御朱印もいただいてきました。

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お寺まるごと美術館PROJECT

妙顕寺でも「お寺まるごと美術館PROJECT」として現代アートが展示されています。
あまり主張が強すぎなくていい感じです。

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この作品は夜に来ると光るそうです。

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この「おべんとう曼荼羅」という作品はじつにシュールでした。

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現在は夜間ライトアップ中、夜間拝観も可能

ちなみに夜はライトアップされていて、夜桜を楽しめます。夜間拝観もやってます。
(ただし宝物庫の公開は昼間のみなので注意)

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大本堂の脇にある桜はちょうど見頃でした。

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方丈の手前です。

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外側から見た勅使門ですね。

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上京区の西陣エリアは妙蓮寺や妙顕寺のほか、水火天満宮など桜がきれいなところが多く、ライトアップしてくれてるお寺もたくさんあります。
それでいて地元の人くらいしか見に来てないので、かなり穴場だと思います。

www.shikaishodo-myokenji.org

【お寺まるごと美術館PROJECT】妙蓮寺で長谷川派の障壁画を見てきた

うちの近所にある妙蓮寺が「春の宝物殿特別公開」として、寺宝の長谷川派の金碧障壁画を公開されているので見に行ってきました。

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妙蓮寺は鎌倉時代に日蓮の弟子、日像(にちぞう)によって創建されたお寺です。
現在地に移転したのは1587年(天正15年)、豊臣秀吉の都市改造のときで、このあたりは「寺之内通」といって、妙顕寺城の場所から移転してきた妙顕寺などお寺がたくさんあります。

桜はもうちょっとで満開といったところ。

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宝物殿に展示されている寺宝の障壁画は長谷川等伯一派の作品と紹介されています。
なんでもこの障壁画を書いた時期、等伯は手を怪我してたらしく、本人は指示を出す程度で、大半は弟子たちが描いたのではないかということでした。

家に帰って調べたら、Wikipediaには、1604年(慶長9年)の暮れに本法寺の天井画を制作中に高所から転落し、利き腕である右手の自由を失ったとありました。
ただし妙蓮寺障壁画の製作年が1595年(文禄4年)頃ともあったのでよくわからないです。

ただし「松櫻之図」「鉾杉之図」「柳之図」といずれも見事な障壁画で、ぐるぐると3回も見返してました。残念ながら撮影禁止だったので、買ってきた絵葉書の写真で紹介。

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松桜之図

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鉾杉之図

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柳之図

おそらく「柳之図」は妙蓮寺の山号「卯木山(うぼくさん)」にちなんでこの寺のために描いたのでしょうね。というのも妙蓮寺はもともと柳屋仲興という酒屋の屋敷内に建立されたのですが、そこから「柳」の漢字をふたつにわけて「卯木」とし、「卯木山」という山号がつけられたそうです。左右逆ですが。

個人的には「鉾杉之図」がちょっとクリスマスツリーみたいでかわいいなと思いました。

ネットではこれらの障壁画は秀吉の伏見城にあったものという記述も見つけましたが、真偽不明です。等伯が秀吉の依頼で描いたのは祥雲寺(現・智積院)障壁画くらいだと思っていたのですが、これが1592年(文禄元年)頃完成なので、1597年(慶長2年)の木幡山伏見城にどこかの絵を任されていても時系列ではおかしくはないですね。
あと、このMIHO MUSEUMに収蔵されている「柳橋水車図屏風」は「伝」長谷川等伯筆の注釈付きですが、伏見城御殿を飾っていたと書いてありますので、可能性はゼロじゃなさそうです。

www.miho.or.jp

また等伯の長男といえば早逝した長谷川久蔵ですが、次男の長谷川宗宅が描いた「吉野桜図屏風」も展示されています。
これは絵葉書もなくてイメージを伝えられないのですが、六曲一双の見事な屏風絵でした。ぼくの目には十分すぎるくらい美しく見えたのですが、久蔵と比べられるというのは辛かったでしょうね。

ほかに本阿弥光悦が書いた「立正安国論」の書写なども展示されています。
本阿弥光悦と長谷川等伯は日蓮宗のお寺にはほんとによく出てきます。

あとこれも撮影不可だったのですが、書院を飾ってる幸野豊一筆の襖絵が見事でした。
4つの部屋にそれぞれ春夏秋冬の移り変わる四季をテーマにした絵が描かれています。この襖絵はすべて金箔ではなく銀箔の上に描かれてるんですが、見慣れていないせいもあってとてもきれいでした。モチーフも鹿の絵とか珍しいのが見れます。
(廊下の写真だけ貼っておきますが、この奥の右側の部屋にあります)

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庭園もよかったです。

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「十六羅漢の石庭」と呼ばれる枯山水庭園ですが、妙蓮寺の僧だった玉淵坊日首(ぎょくえんぼうにっしゅ)が作庭したものです。
なぜ日蓮法華宗の妙蓮寺に禅宗式の枯山水があるのかはよくわからないそうです。

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中央にある大きな青石は臥牛石(がぎゅうせき)と呼ばれ、豊臣秀吉の寄進とか。

あと写真が苦手な人のために「ここから撮ると映えるよ」とガイドがありました。助かるなあ。

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御朱印もいただいてきました。

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お寺まるごと美術館PROJECT

現在、妙蓮寺をはじめ上京区のお寺が合同で「お寺まるごと美術館PROJECT」を展開中です。
寺宝の公開とは別に、現代アートが展示されています。ざっと写真でご紹介。

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最後のはミキサー車をミラーボールみたいにしてて、すごく洒落てるなと思いました。

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現在は夜間ライトアップ&夜間拝観も

ちなみに夜はライトアップされていて、夜間拝観も可能です。
(ただし宝物庫の公開は昼間のみなので注意)

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紅葉(?)の瓦

鬼瓦や軒丸瓦に3つの紅葉(?)が彫られていました。

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なんでこの柄なんでしょうね。今度聞いてみよう。

本法寺で長谷川等伯の「大涅槃図」を見てきた

現在、京都市上京区にある本法寺で「平成31年 春季特別寺宝展」がおこなわれています。

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通常はレプリカが展示されている長谷川等伯筆の「大涅槃図(佛涅槃図)」が毎年春のこの時期にだけ本物(真筆)が展示されるので、拝観する人が増えます。
(拝観料も1000円にアップしています)

写真撮影は禁止ですが、1月に見たレプリカの記憶と比べると、むしろこちらのほうが色彩が豊かな印象を受けました。
とくに錫杖(しゃくじょう)がはっきり確認できたので、これだと薬袋の話は信じがたいなと思いました。 

blog.kojodan.jp

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この「佛涅槃図」は箔をつけるために後陽成天皇に見ていただいてから、本法寺に奉納されたそうです。
その後、京都では江戸時代に「天明の大火」が起きて市内の大半が焼けることになりますが(二条城の本丸御殿もこの大火で焼失)、この絵は土蔵で保管されていたので焼失をまぬがれました。

しかし、再建した本法寺はこの巨大な絵を展示できるような大きな建物を用意することができず、そこから約200年、日の目を見ることがなかったそうです。
現在このように毎年、春になれば開帳されるというのはじつに恵まれているわけですね。

御朱印をいただいた

御朱印をいただいたら、智積院のとなりでした。いずれも等伯にゆかりの深いお寺なので、なんとなくご縁を感じます。

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桜はもうすぐ見頃です

仁王門を入ったところの桜が咲きはじめていました。
来週くらいが見頃かなあ。

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春季特別寺宝展の開催期間は4月21日(日)までです。
(毎年3月14日~4月15日の開催ですが、今年は期間が変更になっています)

eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp

「佛涅槃図」のほかにも狩野元信が描いた「十六羅漢図」が展示されています。

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