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【江戸時代のお家騒動】里見騒動ーー大久保長安事件のとばっちりと見せしめの改易

【時期】1614年(慶長19年)
【舞台】館山藩
【藩主】里見忠義
【主要人物】里見忠義、徳川秀忠

大久保忠隣との姻戚関係が仇となる

大久保長安事件と、それに続く大久保忠隣の失脚。これのとばっちりを受ける形で改易処分となったのが、外様大名・館山藩主の里見忠義である。
忠義は10歳の時に父・義康が亡くなったため、幼くして里見家を継ぐこととなった。しかし若年ながらも、重臣たちの補佐を受けて領内の検地や諸役の免除を実行。また商業の面でも、領内における貨幣の交換比を定めるなど、数々の政策を執り行った。

そんな忠義が結婚したのは、1611年(慶長16年)のことだ。妻となったのは、大久保忠隣の孫娘だった。こうして大久保家と姻戚関係になった里見家だったが、その他にも忠義の叔母である光性院殿が徳川家康の外孫にあたる松平忠政のもとへ嫁いでいたり、里見家の大家老・堀江頼忠が家康より3000石を与えられていたりと、徳川家との繋がりもあったのだ。
そのため、里見家の安泰は確保されているかのように思われた。しかし大久保長安事件の余波は、忠義のもとまで広がってきたのである。

忠義が突然の改易を言い渡されたのは、1614年(慶長19年)の9月上旬のこと。重陽の節句の祝賀を述べるため江戸に向かい、忠義は里見家の江戸屋敷に入った。ところがその翌日、将軍・徳川秀忠からの使者が訪れ、忠義は所領の没収と伯耆国倉吉3万石への領地替えを命じられたのである。しかも領地替えとはいっても3万石というのは表向きだけで、実際にはわずか4000石しか与えられず、その措置は改易とほぼ同等であった。

これを知った里見家の重臣らは、幕府に赦免を願い出た。ところが受け入れられず、7日後には館山城取り壊しのため、佐貫藩主の内藤政長らが差し向けられた。幕府は里見家の家臣らが城に立てこもって抵抗する可能性も考えていたが、彼らが引き渡しに応じたため、館山城は直ちに破却されたのだった。
結局、忠義はそのまま館山藩に戻ることなく、新たな領地とされた伯耆国倉吉へと向かったのである。

改易理由は「大久保忠隣への合力」「城普請」「牢人の召し抱え」

忠義に言い渡された罪状は、3ヶ条になる。ひとつ目は「大久保忠隣に米や兵の合力を行い、公儀を蔑ろにしたこと」、2つ目は「城の修理に伴い堀をつくり要害を構え、法を軽んじたこと」、そして3つ目は「相応以上の牢人を抱え、謀反の疑いが見えたこと」だ。
ひとつ目については、忠義と忠隣が親密であったことを考えれば、両者の間で米などの食糧が取引されていた可能性は十分にありえる。ただ、それが謀反の準備であったのかどうかまでは定かでない。
2つ目の城の修理についてだが、これは一国一城令をはじめとする「軍事体制の否定」という幕府の方針に逆らったということになる。実際に里見家は城の普請に熱心だったというが、これも謀反の準備だったと言い切ることはできない。

そして3つ目。「相応以上の牢人を抱えていた」ということだが、これについては1590年(天正18年)の小田原征伐で北条氏が滅亡して以降、上総国の家臣団を里見家が引き受けていったために、過分な人数の牢人が安房国に存在する結果になったのではないかといわれている。
この三つを見ると、どれも謀反とするには明確でない罪状ばかりなのがわかる。それでは、このような不明確な理由を取り上げてまで徳川家が里見家を改易に追いやりたかったのはなぜなのか。そこにはやはり、隠された「真の理由」が存在した。

外様大名であることと「見せしめ」が改易の真相

まず第一に、里見家が外様大名――つまり徳川家にとって譜代の大名ではなかったことが注目される。
「関ヶ原の戦い」ののち、家康が関東周辺を譜代大名で固め、外様大名を警戒して遠方へ追いやったことはよく知られている。しかし里見家は、安房国館山藩という江戸を間近に臨む配置にあった。準譜代という立場にあるとはいえ、結局は外様大名だ。関東の一角に置いておくのは、幕府にとって少々居心地が悪いものだったと思われる。

そして第二に、里見家の改易は他の諸大名に対する「見せしめ」の意味が込められていたという。忠義の改易が言い渡されたのは、1614年(慶長19年)の9月――あの「大坂の陣」の直前である。幕府は来る戦いに備えて諸大名らに改めて忠誠を誓わせるため、忠義の改易を通して「脅し」をかけたのだとされているのだ。
実際、忠義の改易の後に50人の上方の諸大名が、秀忠に忠誠を誓う起請文を提出しているという。実は忠隣が処分を食らった後にも、幕府の重臣らに対して同じことが行われており、幕府が重臣や諸大名の統制という政治的な意味を込めて、「見せしめ」の処罰を加えたのではないかと捉えることができるのだ。

忠臣たちは『南総里見八犬伝』のモデルとなる

かくして改易となった忠義は、少数の家臣を伴って伯者国倉吉へとたどり着いた。忠義はここに倉吉藩を成立させたものの、1617年(元和3年)になると姫路藩主の池田光政が因幡・伯者の両国を領有することになったため、倉吉藩は廃藩となった。
再び領地を失うことになった忠義は伯者国の田中村に移され、さらに2年後に堀村に移り住むという流転の人生を送っている。そして1622年(元和8年)、この堀村にて29歳の若さで病死した。ここに里見家は滅んだのである。

幕府に翻弄された末、かつて安房国の大名であったとは思えないような寂しい最期を迎えることになった忠義だったが、それでも里見家の家臣たちは彼を慕っていたようだ。忠義の死の3ヶ月後、彼の命日に8人(あるいは6人、7人ともいわれる)の家臣らが後を追って殉死しているのである。この殉死した家臣らが、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』に登場する八犬士のモデルになったといわれている。『南総里見八犬伝』は、里見家の再興が描かれた物語だ。きっと殉死した家臣らも、主家の再興を願っていたことだろう。

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