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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?

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理由の四つ目として、織田信長以降の専業武士の登場と、それによる軍団の機動力強化を挙げてみたい。
戦国時代の兵というのは、一般的に半農半兵の兼業兵士であった。普段は畑を耕し、有事になれば召集され、戦場に赴くわけだ。このようなスタイルの兵士としては四国を統一した土佐・長宗部氏の「一領具足」が広く知られているが、実際のところ、他国の兵たちも大体似たようなものだったようだ。

あるいは、農民が税の一環として徴兵されて従軍するのも一般的だった。
戦場における兵たちの略奪が一般的だったのも、彼らのうち少なくない数が「食い詰めた農村の若者が出稼ぎとして大名の遠征に参加する」存在だったからでは、とされる。彼らは報酬として村々を略奪するわけだ。飢餓が当たり前だった中世の農村事情からすれば、口減らしの意味も含んでいたのだろう。

このような兼業武士や農民たちは軍事的な視点で見ると多様な欠点を備えている。
彼らを晩秋から春にかけての農閑期以外に集めるのは難しい。農繁期に出陣しようとして無理やり軍団に組み込むと、農地の生産力が落ちてしまう。これはそのまま大名にとっての収入減につながる。あまりにも長い間(年単位)で彼らを遠征につき合わせても、同じ問題が発生する。耕し手がいなくなって田畑が荒れれば、困るのは大名たちだ。
これは敵を攻撃するにあたっては大きな枷になるが、防御側に立たされた際には重要なアドバンテージになる。
攻撃を仕掛けてくるタイミングはどうしたって限られるし、また城に籠もって攻撃を防ぎきれば相手は「時間切れ」になって引き揚げざるを得なくなる。山城の防御力も活かされる、というわけだ。

この状況を変えたのが織田信長だ。彼は先祖代々その土地に根付いてきた家臣団を農村から切り離して城下町に住まわせ、専業兵士にしたのだという。武士たちからは抵抗もあったようだが、信長は地元に家族を残してきた者の屋敷を焼き払うなど強硬な姿勢によってこの政策を断行している。
結果、織田軍団は農業のサイクルにとらわれない機動性と持久性を獲得した。しかも、信長は楽市楽座に代表される経済政策によって巨大な経済力を獲得しており、潤沢な補給を前線に送れたので、遠くに送った軍団を長期間戦わせることもできた。この体制は信長が不慮の死を遂げた後もその後継者となった豊臣秀吉に継承され、以後のスタンダードとなっていく。

防御側はそれまで持っていたアドバンテージを失い、もう籠城をし続けても援軍が来なければ(その結果として後詰決戦の形に持ち込めなければ)勝てないことになってしまったわけだ。山城がその価値を失い、平城や平山城に移り変わっていったのもわかる話である。

こうの補足
兵農分離についてはこんな本もあるみたいです。未読ですが、おもしろそうなテーマですね。
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