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【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

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榎本秋の戦国軍師入門

1564年(永禄7年)に美濃の国(現在の岐阜県の一部)で起きたこの事件(合戦とは言い難い)の面白いところは、戦国時代のドラマチックなエピソードがしばしば全くの架空、もしくは事実を元にした創作であることが多いのに対し、どうやら実際に起きているらしいことだ。
半兵衛は本当に少数の兵だけで、堅城と呼ばれた斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。

なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、については幾つか説がある。
まず当時の斎藤家当主・龍興(たつおき)が酒に溺れて悪政を行い、これを諫めるために行ったという説。また、半兵衛は龍興の側近から常日頃嫌がらせを受けており、特にある時、頭の上から小便を掛けられたのが腹に据えかねたのだという説。さらに彼は美濃3人衆と呼ばれた重臣のひとり、安藤守就(あんどう もりなり)の娘婿でもあったのだが、この守就と他の重臣との対立がきっかけとなった説などなど。

おそらくはこうした事情が幾つも重なって半兵衛は決断したのだろう。彼は守就に相談して説き伏せ、計画を打ち合わせる(この時、守就は協力を断ったとも)。そして2月6日、人質として城内にいた弟の持病が再発したという口実で十数人の供を連れて城内に入る。さらに案内を申し出る城の者たちを無視して広間に入り、そこにいた近侍の武士たちを斬り伏せてしまった。

この騒ぎに龍興は一度は立ち向かおうとするものの、「半兵衛だけで起こした謀反ではないはず」と周囲の者たちに押しとどめられて城外に脱出する。実際、半兵衛の手の者が城の鐘をつくと、これを合図に守就の兵が2千名ばかり駆け上ってきて、城をすっかり占領してしまったのだ。

城を追い出される形となった龍興は半兵衛に対抗するために兵を動かそうとしたが、日頃の行いのせいかなかなか上手くいかない。一方、半兵衛と守就は稲葉山城を占領すると城下の治安を維持し、住民の生活を守った。
そんな半兵衛のところには他の斎藤家臣たちから、協力の申し出や城の譲り渡しの要請などが舞い込んできた。さらに龍興やその父の義龍と対立し、何度も稲葉山城を攻めては敗れていた織田信長からは、城の代償として美濃の半分を与えるので味方になれ、という誘いまでやってきた。

しかし、半兵衛はそうした申し出をすべて断り、これは一時預かったものに過ぎない、と言い切った。あくまで主君龍興に反省して頂くためにやったことなのだ、と言うのである。そして実際、半年後の8月になると半兵衛は龍興を呼び戻して城を返し、自分はさっさと隠居してしまう。

手口も鮮やかなら引き際も鮮やか、後の名軍師・竹中半兵衛のデビューとして実に鮮烈なものとなった。数年後、彼は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の配下としてその知略を大いに振るうことになるのだった。

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