攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

北条氏康 の検索結果:

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…か? 武田包囲網? 北条氏康の死により、北条家の外交政策が転換される=甲相同盟 →北条家内部の話として、氏康は娘を嫁がせた今川に協力的で、氏政は嫁の実家の武田に好意的 武田信玄は北条との同盟締結により西進が可能になった 1570年(元亀元年)、29歳 4月、金ヶ崎の退き口 6/28、姉川の戦い 6月、信長の勧めで浜松城を築いて移る 10月、上杉謙信と同盟を模索。武田家臣・秋山虎繁による遠江侵攻という約束違反による不信感から 1572年(元亀3年)、31歳 義昭から家康へ状況を…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…中心に関東を支配する北条氏康と戦っていたのだが、雪斎は早くからこの対立は得策ではないと言い続けていた。そしてついに今川義元・武田信玄・北条氏康の三者に手を結ばせることに成功するのだ。 こうした三国同盟というのは当時では大変珍しいことだった。彼がこれだけ活躍できた理由としては、僧侶という階級は軍学を始めとする学問に詳しく、また各地を自由に歩き回れたことから外交的にも便利だったことがある。 また、軍事面でも彼の活躍はめざましいものがあった。義元のために様々な献策をする軍師としては…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…せてきた。時の当主、北条氏康は鉄砲や兵糧を集めて籠城の構えをとりつつ、同盟を結んでいた武田氏と今川氏に救援要請を送る。それを知った景虎は、援軍が到着する前に城を落とそうと城下に火を放って回ったものの、結局諦めることになってしまう。小田原城の堅さに手を焼き、1ヶ月余りにも戦い続けた末、兵糧も士気も心もとなくなっていたからだ。 さらに1569年(永禄12年)、氏康の息子・氏政に代替わりをしていた頃、今度は武田信玄が小田原城を攻めてきた。この頃には情勢が大きく変化しており、北条氏と…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…濃進出を防ぐ。南では北条氏康・今川義元といった名だたる大大名たちと丁々発止のやり取りを繰り広げた末、甲相駿三国同盟を結んで安全を確保した。そうかと思いきや、義元が織田信長に敗れて今川家がその勢力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の要請に応えて、信長包囲網の重鎮として上洛のため…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…川義元、そして相模の北条氏康は以前から何度も各地で合戦と和睦を繰り返していた関係だったが、今川側の働きかけによって三者同盟が締結された。氏康がこうした同盟を結ぶに至った理由は、関東各地に残る反北条勢力を打倒することに集中したかった、ということであるようだ。この時期には彼らを結集できるような大義名分をもつ名門は関東にはいなかったが、数年後には氏康をおびえさせる強敵が北より現れる。山内上杉家と関東管領を継承した上杉謙信が、関東遠征を敢行したのである。 特に1560年~1561年(…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑤――謙信の死から始まる内乱

…りは上杉景虎で、彼は北条氏康の子である。一時期上杉家と北条家が同盟していた際の人質として越後にやってきたのだが、その容姿と才覚を謙信に気に入られ、養子になったのだという。彼には実家の北条家やその同盟者である武田家などの外部勢力や、謙信に関東管領の地位を譲って越後にいた上杉憲政などが味方した。 この二人はそれぞれに謙信の跡を継ぐだけの力を持っていたが、「軍神」ほどのカリスマは持たず、また上杉家を構成・支持する勢力のどれかと深い関係があったため、それと対立する別の勢力との仲が悪か…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…でいた。 この時期、北条氏康によって公方や上杉氏といった関東地方の旧勢力が排除されていた。これに対し、上杉氏の名跡と関東管領の座を受け継いだ越後の上杉謙信が1561年(永禄4年)頃よりたびたび関東遠征を繰り返す。関東は謙信と氏康の対決の場となっていたのである。義昭はこの謙信の力を借りて小田氏を圧迫した。一度はせっかく攻め取った本拠地の小田城を奪い返されることもあったが、謙信が再び関東へやってくると再奪還し、以後は小田氏を抑え込んだ。佐竹家の勢力は常陸南部にまで及んだのである。…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)が争ったお家騒動。景勝が勝利 戦国時代 1581年(天正9年) 第二次天正伊賀の乱 織田氏と伊賀惣国一揆との戦い。織田軍5万が伊賀を制圧 戦国時代 1581年(天正9年)〜1587年(天正15年) 新発田重家の乱 御館の乱での功績に対して恩賞がほとんどなかった新発田重家が上杉景勝に対して起こした反乱 戦国時代 1582年(天正10年) 本能寺の変 京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃・殺害した事件 戦国時代 15…

「戦国みにまる-甲相駿編-」でひとり遊びしてみた

…北条家の大名カード(北条氏康)を出せば勝てるのですが、持ってなかったのでぼくが高天神城の奪取に成功です。やったね。 続いて玉縄城に小山田信茂を守将につけて出します。高天神城を獲れたので余裕ができたのと、城カードを残したまま終わってしまうとマイナスポイントになるので出せるときに出しとくという考えです。(このへんの戦略性がうまいなと思いました) こうやって見ると右さんは城カードを抱え込みすぎててヤバそうです。一方の左さんは城カードが1枚もないのでこれもやりづらそう。 戦力2の小山…

掛川城 今川氏の終焉をむかえた城

…もできず、彼女の父・北条氏康が信玄に激怒したと伝わる。それほど氏真たちにゆとりはなかったのかもしれない。泰朝を頼って掛川城に逃げ込むと、遠江侵攻を進めていた家康が掛川城を包囲し、城下に火を放って攻撃をはじめた。しかし、年が明けても落城しない。家康は総攻撃に打って出た。南の松尾曲輪や南東の大手を落とし、城内は籠城によって耐えるしかない状況だった。 その間、氏康が家康との交渉を進めており、1569年(永禄12年)の5月、氏真の助命を条件に開城されて戦いは終わった。以後、氏真は北条…

八王子城 戦国の終わりを告げた城

…さである。この城は、北条氏康の三男・氏照によって1582年(天正10年)頃に築城されたと考えられている。城は深沢山に建てられた。深沢山は北浅川と城山川に挟まれた扇状地にある、険しい独立峰である。さらにここは小田原道、秩父道、河越道といった街道の合流地点にもなっているため、交通の要衝でもあった。豊臣秀吉の進撃に備えて築城されたと言われている。 その予感は1590年(天正18年)に現実のものとなり、秀吉による小田原征伐が行われた。秀吉は戦の前に、関東の諸大名たちに惣無事令を発して…

斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

…の座をついたばかりの北条氏康は僅かな兵で援軍に駆けつけるや、城を取り囲む敵軍を夜襲によって散々に打ち破ってしまった。扇谷上杉氏はこの時に滅亡している。 この戦いの結果、関東のパワーバランスは完全に北条氏へ傾くことになった。美濃で斎藤道三と高政親子の関係が悪化して光秀がやきもきしていた1554年(天文23年)の頃には、山内上杉氏の当主・上杉憲政は関東を追われて北陸へ逃げ込んだあとだし(1552年(天文21年)のこと)、古河公方の足利晴氏も古河城を攻められ、幽閉の憂き目にあってい…

明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

…い。義元は武田信玄や北条氏康らとも張り合った、戦国時代を代表する名将の一人であったのだ。 そもそも、今川家は源氏の名門である。室町幕府で将軍職を継承した足利家の分家、吉良家のさらに分家で、「足利が絶えなば吉良が、吉良が絶えなば今川が将軍を継ぐ」と言われたほどの家だ。本拠地は駿河で、戦国大名としての躍進を始めたのは義元の父、氏親の代。彼が家督を継承するにあたっては内紛があり、叔父に当たる北条早雲(伊勢新九郎)の助けがあり、それがまた戦国大名・北条家の出発であったことはよく知られ…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…してからは武田信玄や北条氏康、織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねましたが、そのほとんどが義を重んじ出兵したものだったと言われています。 謙信の旗印「毘」の文字は自らを生まれ変わりと信じ厚く信仰していた「毘沙門天」からとったもの。その戦ぶりから越後の龍とも呼ばれました。そんな謙信が本拠地とした春日山城は変化に富んだ地形を上手に利用した難攻不落の城 として威風堂々たる堅城だったそうです。 謙信の誕生から最期までも看取った春日山城は、後を継いだ上杉景勝が会津に移封されると静か…

河越城 奇襲によって大軍を破った戦い

…、相模国小田原城主・北条氏康がわずか8千人で8万もの大軍を討ち破っている。 UMA1001 | 市立博物館にある模型[川越城] まずは戦いが起きた背景を確認しておきたい。当時の関東では北条氏が領地を拡大しつつあった。相模を領していた北条氏は領地を広げ、武蔵へと手を伸ばしている。近隣の大名はそれを不安視し、それまで内紛をしていた武蔵の扇谷上杉氏と上野(こうずけ)の山内上杉氏が手を結んだ。 両家は同じ祖を持っており、鎌倉山ノ内、鎌倉扇谷にそれぞれ居を構えたため山内上杉氏、扇谷上杉…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する