攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

参勤交代 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…、自分も見たいので(参勤交代で江戸詰のため)自分がいる江戸で開催することが求められたわけです。 ただ注意が必要なのは、お抱え力士がいた藩は全体からするとごく少数だったということです。まあ新聞社のすべてがプロ野球チームを持ってるわけでもないし、自動車メーカーのすべてがJリーグクライブのスポンサーになってるわけでもないので、これは現代でも同じですね。ちなみにお抱え力士の場合はユニフォームの代わりに番付表に藩の名前が載ったそうです。 お抱え力士がいた主な藩として、江戸前期には紀州・…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…(『三川日記』)ほか参勤交代中に奥州・三戸宿で乱心した様を「馬鹿殿と皆々指ささぬ者なかりけり」(『萬日記』)と記録されています)や藩内の風紀紊乱などが漏れ伝わるようになり、再び松前家の移封・雄藩との領地入れ替えが幕閣の議題として取り沙汰されはじめ(『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』)、彼らの蝦夷地領有は風前の灯となります。 そんな中、昌広の隠居により1850年(嘉永2年)に藩主を20歳で継いだのが12代・松前崇広(まつまえ たかひろ)でした(図3)。 図3.松前藩十二代藩主・松…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…、秀吉が聚楽第や伏見城、大坂城に大名屋敷をつくらせて大名を集住させたのも、のちに江戸幕府が参勤交代制を取り入れたのも守護在京制の効果を認めていたということなのかも。 今回の動画ではあくまでも一例として「畠山氏における遊佐氏」を取り上げましたが、もう少しいろいろ勉強した上で、あらためて守護代をテーマに撮り直してもいいかなと思ってます。学べば学ぶほどわからないことが増えて、いろんな関連テーマに興味がわいてくるので、歴史はほんとうにおもしろいですね。 www.youtube.com

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…付ける制度ともいえる参勤交代が制度化されたのは、1635年(寛永12年)の武家諸法度大幅改定時のことである。また、自らが病気がちになると、それまでのように将軍を頂点として何もかもが集中するようなシステムから、譜代の名門大名から選ばれた老中や若年寄といった役職のものたちが合議によって政治を執り行っていくシステムヘの転換を図った。さらにこの以前から、宗教関係は寺社奉行に、経理関係は勘定奉行に、と権限と役職の整理を行っている。 キリスト教の禁教は家康時代から進められていた。秀忠の時…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…しなければいけない「参勤交代」や、幕府の命で城など大規模土木工事をしなければいけない「御手伝普請」などはその代表格といえる。 幕政を取り仕切るのは、天下統一以前から徳川家臣だった譜代の大名や旗本・御家人が主で、彼らが幕府の重要ポストを独占した。天下統一以後に徳川支配下に入った大名たちは外様大名と呼ばれ、長く幕政にかかわることを許されなかった。これもまた、大名統制のひとつの手段といっていいかもしれない。 巨大な官僚制度というべき江戸幕府体制は長く平和を維持させたが、やがて経済の…

【江戸時代のお家騒動】喜連川騒動 足利氏に連なる名家はなぜ改易となったか?

…代寄合(大名と同じく参勤交代をする義務がある旗本)ということで、それほど大きな存在ではない。しかし、過去にさかのぼれば「室町幕府の将軍家である足利氏に連なる名族」ということもあって、本来大名の条件である所領1万石を満たしていないにもかかわらず大名扱いされるなど、異彩を放つ存在でもあった。もともと将軍の呼び名である「公方」で呼ばれていたこともその一部といえよう。 さて、事件は三代藩主・喜連川尊信の時に起こった。彼は1619年(元和5年)に先代藩主である頼氏の長男・義親の子として…

【江戸時代のお家騒動】江戸時代お家騒動、3つの特徴

…幕府は謀反を防ぐため参勤交代(1年交代で江戸と地元を往復しなければならない、という義務)などさまざまなやり方で大名の財政を苦しめたため、「戦っている場合ではない」ということもあったろう。そのため、後継者をめぐる争いや藩内の主導権をめぐる争いがあったとしても、武力ではなく政治面での闘争に終始するのが一般的だった。最終的な決着も「敗れた側がまとめて処罰される」「失脚した藩主や家老が他家預かりとなる」「藩主が家老たちにより押込め(監禁)されて隠居へ追い込まれる」という、ある意味で穏…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…たそうです。なぜなら参勤交代制がはじまり江戸に諸大名が集まるようになってしまったので、どの大名家かを識別するために彼らと取引を行う商人や大名行列を見物する町人が買い求めたんだとか。現代のタレント名鑑とか野球選手名鑑みたいな感じで、ちょっとおもしろいですね。 ほかにも以下のようなポイントがあります。 いつからいつまでを対象とするか 江戸時代に存在した藩、といってもその江戸時代の始まりと終わりが曖昧なのも問題です。一般的には徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した16…

6.譜代大名の懐事情

…費の例としては、まず参勤交代だろう。江戸と自分の領地との往復を義務づける参勤交代制度は、すべての大名にとって頭の痛い問題だった。譜代大名も例外ではない。個人が移動すればすむ現代の出張とは違って、当時は大名の権威を知らしめるために大行列を組まなければならなかった。多ければ1000人以上にもなり、単純に旅費がその人数分だけかかるのだから、出費はかなりのものだった。中には途中で旅費が尽き、工面できるまでその地に滞在したという大名もいる。出羽国鶴岡藩を治めていた酒井忠徳は、江戸から領…

4.出世と譜代大名

…トップに立つ将軍や、参勤交代で江戸にやってくる諸大名、行政を実際に行なう旗本たちとの関係も自然と深まっていくことになった。そうした「コネクションづくり」こそが、「中央」コース最大の特徴ではなかったか、と推測される。「中央」コースの例は、すでに綱吉の時代から見られるのだが、その数を増やすのはしばらく後になってからのことだ。これは、幕藩体制が安定度を増し、諸大名ににらみを利かすよりも内部に目を向けるほうが老中として重要になった、ということなのかもしれない。 時代によって変わる出世…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…らなかった。 軍役と参勤交代 譜代大名といっても、幕府の家臣であることは変わらない。外様大名などと同じように各種の義務があり、それが負担になることも多かった。代表的なものが軍役である。石高に応じて幕府に武器や兵を提供し、有事に備える。特に江戸幕府が開かれた直後は豊臣家が健在で、いまだ戦乱の可能性が消えていなかった。大名の軍役は幕府が戦力を確保するにも重要な要素だったのだ。特に譜代大名や旗本・御家人といった徳川家直属の家臣たちは幕府からの信頼が厚く、確実な戦力として計算されるの…

5.支配者としての大名たちの苦悩

…り、やがて交代寄合(参勤交代の義務を負った旗本)となって、幕末まで続くこととなる。 積み重なる借金と藩政改革 時代が進む中で藩財政の赤字は慢性化していった。既に述べたように、幕府による大名統制が多大な財政負担を強いたため、これはある程度仕方がないものといえる。これに対して、諸大名は倹約の励行や家臣の知行・俸禄を減らすなど、支出の削減に努めた。特に有名なのが「借上」で、これは知行・俸禄の一部を「藩が借りる」という形で一時的に支給停止したり、商人に与えた免税特権を一時的に停止した…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

大名の肩にのしかかる参勤交代制度 「格」の問題に振り回されて多大の浪費を迫られたのは主に外様の大大名だったが、一方、大名のほぼすべてが大きな負担を背負い、頭痛の種としていたのが、大名が江戸と国元を一年交代で移動する参勤交代制度であった。 関ヶ原の合戦前後、諸大名は徳川家への臣従を示すため、江戸へ自主的に人質(証人)を送った。その後、幕府は証人制度として大名から一定の人質をとっていたのだが、大名たちによる反乱の可能性が薄くなってくると廃止された。その一方で自発的に行われていた大…

3.戦国大名から外様大名へ

…いる。 その一方で、参勤交代や、衣服や輿の種類を武家の格ごとに定めたり、あるいは「何らかの事件が起きた場合に独自の判断で行動したりしないこと」「徒党を組んで何かたくらんだりしないこと」と、謀反につながりそうな行動を規制したりと、大名を統制する具体的な施策も規定している。これによって江戸幕府は諸大名の動きを抑え、二百数十年にわたる安定を得た。裏返せば、大名たちが生き残るには、この武家諸法度に従っていくしかなかった、ともいえる。 大名が最も恐れた改易と減封 生き残りを望んだ大名が…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

… 寛永12年に家光が参勤交代制を発布し「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て 「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなったと言われています。 健康に気を使う政宗でしたが、晩年は体調不良を訴え始め病気がちになります。 1636年4月、参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ宿泊した郡山では何も食べられなくなり江戸に入った頃には絶食状態が続き腹が腫らんでいました。 病をおして参府した政宗に家光は伊達家上屋…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

…も気に入ったそうで、参勤交代の際にも持ち歩いていたといわれています。 苔がいい感じですね。 先日訪問した総見院の掘り抜き井戸も清正が朝鮮から持ち帰った石でつくったものと案内されていましたし、黄梅院にも清正が持ち帰った石がありました。これは日本に帰国する際は(多くの兵が戦死したために)船が軽くなってしまったので、大量の石を積んで持ち帰ったことが原因です。 軒丸瓦などに細川家の家紋「九曜紋」が入っています。 竹林のある片隅にひっそりとたたずむ高桐院は庭、茶室、水墨画と見どころ満載…

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