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【江戸時代のお家騒動】喜連川騒動 足利氏に連なる名家はなぜ改易となったか?

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【時期】1647年(正保4年)
【舞台】喜連川藩
【藩主】喜連川尊信
【主要人物】喜連川尊信

幕府・藩・農民それぞれの記録でまったく食い違う騒動の実態

喜連川家は所領が5000石、立場としては交代寄合(大名と同じく参勤交代をする義務がある旗本)ということで、それほど大きな存在ではない。
しかし、過去にさかのぼれば「室町幕府の将軍家である足利氏に連なる名族」ということもあって、本来大名の条件である所領1万石を満たしていないにもかかわらず大名扱いされるなど、異彩を放つ存在でもあった。
もともと将軍の呼び名である「公方」で呼ばれていたこともその一部といえよう。

さて、事件は三代藩主・喜連川尊信の時に起こった。
彼は1619年(元和5年)に先代藩主である頼氏の長男・義親の子として生まれ、義親の早世によって1630年(寛永7年)頼氏から家督を譲られたという経歴の持ち主である。

喜連川騒動を概観すると「家中でお家騒動があり、最終的には幕府が介入してこれを鎮めた」ということになる。
ところが、事件の詳しいあらましということになると幕府、喜連川藩、農民という三者の残した史料がそれぞれに食い違い、何が真実なのか見極め難くなっているのが実情なのだ。

まず幕府の認識は「喜連川家の家臣・二階堂主膳と高四郎左衛門の対立が家中を二分する争いに発展したため介入。尊信の責任が大きいとこれを咎め、隠居を命じた」ということになっている。
一方、喜連川藩の史料には幕府の認識に加えて「尊信が乱心したことを隠し、仮病を使って江戸へ参勤させなかったことが後に発覚。幕府に虚偽の報告をしたとして家臣らが処罰された」という話が記されている。

ところが、農民側の史料ではまったく別の背景が語られている。尊信は乱心してなどいなかった、というのだ。
事件の黒幕は藩の権力を握る筆頭家老・一色刑部。彼は12歳で藩主となった尊信の後見人として活躍してきたが、尊信が成長すると意見が合わなくなってきた。この対立が発展してついには尊信を閉じ込めてしまい、幕府には「藩主が乱心したために閉じ込めました」とウソの報告をした、というのである。

ここで登場するのが元武士で当時は農民の、伊右衛門、平左衛門、半左衛門の3人である。
彼らは喜連川家と以前から交友があり、尊信の家臣・梶原平左衛門の助けを借りて極秘に尊信と面会、閉じ込められている事実を知る。そして、尊信の願いで幕府にこのことを明かして欲しいと頼まれ、2人の仲間を増やし喜連川を後にした。

5人は、尊信家臣の高野修理(当時は喜連川藩を出て浪人となっていた)を頼って老中・松平信網と面会するが、証拠がないため何もできず一度喜連川に戻っている。
その後、5人は尊信の忠臣たちと尊信の娘・万姫を連れて再び江戸へ赴き、老中や幕閣に訴え出て幕府が評定に動き出す。下った判決は幕府史料のものとほぼ同じだが、尊信が隠居に追い込まれるということはなかった――というのがこの物語の結末である。
どの話が真実なのか、それともすべてが偽りなのか。今となっては確かめる術もない。

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