大友宗麟 の検索結果:
…らない。しかし、兄の大友宗麟が弟の死後に敵対しない宣言(大内の家督に手を出さない代わりに九州に手を出さないでね、という内容)を毛利に送っているあたり、宗麟は弟を見捨てたのでは?という気もする。・そもそも末期の大内氏は内紛によって求心力を失っていたであろうと考えられる。そこでどうにか家をまとめていた晴賢が死んでしまうとどうにもならなかったのだろう。むしろ滅亡まで2年持ち堪えた(毛利がせめてくるまでの間に内紛で勝手に潰れたりしなかった)のは大内氏の勢力の確かさを物語るものであろう…
…、当時の大友家当主・大友宗麟(出家後の名前。その前は大友義鎮)を支えて大いに活躍する。その名は立花道雪(たちばな どうせつ)。しかし、これは名門立花家の門跡を継いで、さらに出家した後の名前で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。 彼はその生涯において九州各地を転戦し、様々な戦いを繰り広げているが、その姿は実に特徴的なものだった。道雪は馬ではなく輿(こし)に乗って戦場を往来したのだ。これについてはひとつのエピソードが伝えられている。 それはとある夏の日のこと、道…
…中でも、九州の大名・大友宗麟に仕えた角隈石宗(つのくま せきそう)はちょっと異色な軍師だ。彼は「軍配者(ぐんばいしゃ)」と呼ばれる、軍配を持って占いなどを行うタイプの軍師だった。とにかく石宗の存在は際だっており、なんと彼は兵法や天文学・気象学といった知識に加え、妖術を駆使して合戦で活躍した、というのだ。 彼は一心に祈ることで空から脇差(小型の刀)を降らせ、また祈らずとも風を自由に吹かせることができた。谷に脇差を投げ込んだ後、風を巻き起こしてそれを手元に戻すこともできた。さらに…
…うひとりいた。それが大友宗麟(よしむね)の子、義統だった。 すでに述べたように大友家は古くから九州に大きな勢力を持っていた有力大名で、戦国時代には九州三強のひとつにも数えられていた。しかし宗麟の時代に一時拡大するも没落し、秀吉に従うことになった。しかもその後の朝鮮出兵の際に、義統が味方を救わずに逃げてしまったせいで秀吉の怒りに触れ、ついに取りつぶしの憂き目にあう。以来、彼は毛利輝元の元に預けられていたのだが、「関ヶ原の戦い」にあたっては西軍に参加して毛利の兵を借り、かつての領…
…8年(永禄11年)、大友宗麟の3万の大軍が来襲し、絶体絶命の危機に陥る。この時、龍造寺に味方する武将は佐賀城に19将しかいなかった。 誰もが諦めかけた中、直茂は籠城しての徹底抗戦を主張し、ひとりこの場で死のう、と叫んで畳を刀で斬って見せる。これに応じて隆信も、我も汝と同じ、と叫んで立ち上がり畳を斬ったため、諸将も覚悟を決めた。この時は直茂と諸将による必死の抵抗に、毛利の脅威が近づいているという大友側の事情が重なって和睦となる。交渉の結果、龍造寺から人質を出すという事実上の敗北…
…すけ)を攻撃すると、大友宗麟(おおとも そうりん)は救援のために出陣しようとする。しかし、この時に2人の軍師・角隈石宗(つのくま せきそう)と立花道雪を始めとする部下たちが強く反対する。占いによって合戦の吉凶を占う軍師である石宗は不吉を理由に、またその弟子である道雪も占いを無視することの危険さを理由に、主君を説得する。 この時に道雪は、島津を攻めることは時期尚早と見て、それも主君を制止する大きな理由となっていたようだ。それでも宗麟は結局総勢4万5千の大軍を動かして出陣してしま…
…攻めてくると、統増は大友宗麟の命令を受けて大友氏の居城・丹生島城に招集される。こうして鶴崎城が城主不在となったため、妙林尼が実質の城主として兵を動かすことになったのだ。鶴崎城の守りの薄さをカバーするため、妙林尼は兵に命じて落とし穴や柵を備えさせることによって、防御面の不足を補った。正面には城内の鉄砲をあるだけ並べ、敵の襲来に備える。 いざ島津軍が攻めてくると、その兵力の差は圧倒的だった。しかし妙林尼が事前に仕掛けておいた落とし穴の効果は絶大で、敵がそこにはまったところへ鉄砲で…
…れば、時の当主である大友宗麟が強力にキリスト教化を推し進めたせいで内部不和も目立ち、衰退が激しかった。それでも紹運や道雪といった名将たちが活躍することでどうにか持ちこたえている――それがこの頃の大友氏の姿であった。ちなみに、紹運の子は請われて道雪の婿養子となって立花氏を継承し、立花宗茂(たちばな むねしげ)と名乗る。そしてこれが後の岩屋城の悲劇の伏線となるのだ。 そんな中、ついに島津氏が筑前に攻めてきたのは、1586年(天正14年)のことである。この時期、大友氏は中央の豊臣秀…
…ろう――九州の大名、大友宗麟は大坂城について「天下無双の城」と語っている。 秀吉の死後はその跡継ぎである秀頼が入り、ここを居城とする。しかし関ヶ原の戦いで天下の実権は徳川家康に移り、やがて豊臣氏と徳川氏(江戸幕府)の対立が加速。二度にわたる合戦の末に豊臣氏は滅び、大坂城もまた炎の中に消えた。戦後しばらくして、幕府が城の再建に着手する。幕府は大名たちに命じて工事に取り掛からせ、約10年の月日を費やして大坂城を完全に再建した。これは縄張も大きく異なり、かつ江戸時代風の自亜の城であ…
…、北九州に覇を唱える大友宗麟が、伊東氏の残党を救援するべく日向へ侵攻してきた。これに対して義久は弟の義弘・家久をひきつれて出陣し、両軍が高城をめぐって激突することになった。この戦いで島津軍は大友軍をおびき寄せて叩くことに成功し、撤退する敵を追撃して大きな打撃を与えた。特に大友軍は耳川という川を渡るところで大損害を受けたため、一般に耳川の戦いと呼ばれる。 これ以後、大友氏は衰退を始め、代わって肥前の龍造寺氏が急成長を始めた。この一族はもともと小弐氏の家臣だったが独立し、龍造寺隆…
…いた。戦国時代終盤、大友宗麟のもとで全盛期を迎えたこの家は、その宗麟が進めたキリスト教化によって内部に混乱をきたし、また九州南部から躍進した島津家の圧迫に苦しんで、急激な衰退を迎えていたのである。これを支えていたのが宗茂のふたりの父――養父の道雪と実父の紹運だった。最終的には道雪は病没し、紹運は島津の大軍に対して小勢で挑んで玉砕した。しかし、彼らの稼いだ時間が功を奏した部分もあって、豊臣家支配下の諸大名の軍勢が九州に来援し、大友家は滅亡を免れることになった。 この戦いの中で宗…
…芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の講和を進め、両者に三好氏の本拠を攻めさせるなど、政治的な動きを活発に見せるようになる。兄の遺志を継いで、将軍の政治的権威を回復させようという意図があったのだろう。 しかし、これらの行動は信長に咎められ、「殿中の掟」という規則を定められることとなった。「殿中の掟」は9条からなり、義昭の政治的な行動を束縛するものであった。上洛という同じ目的において協力しあったふたりだったが、この頃からその関係に亀裂が入り始める。一度は信長が和解を申し出て、義昭もそれ…
…う血筋を頼って豊後の大友宗麟(義鎮)のところへ逃れた。 この頃の宗麟は西欧からもたらされたキリスト教思想に心酔し、周辺勢力を平らげてのキリスト教国家建設への理想に燃えていたから、日向侵攻の大義名分が生まれたこの情勢変化は渡りに船だったのかもしれない。義祐を迎え入れ、大軍を率いて日向に進んだ。義祐はこれに従軍したとも、あるいはしなかったともいう。だが、島津は強かった。天正6年、大友軍は「耳川の戦い」で大敗し、この戦い以後、島津・大友のパワーバランスははっきりと島津側に偏った。そ…
…キリシタン大名である大友宗麟・有馬晴信・大村純忠の名代として四人の少年――宗麟が伊東氏と血縁があったことから大友家名代として選ばれた伊東マンショ、晴信の従弟で純忠の甥にあたる千々石ミゲルが正使となり、彼らと同じ年頃で有馬のセミナリオ(神学校)でともに学んでいた中浦ジュリアン・原マルチノが副使となり、遠くヨーロッパまで旅をすることになったのだ。 彼らはスペインで国王フェリペ二世(当時フェリペ一世としてポルトガル国王兼任)、そしてまたローマでローマ教皇グレゴリオ十三世とそれぞれ謁…
…ろが、豊後の大大名・大友宗麟と晴純の交渉において、宣教師に助けられたことから方針を撤回、布教が許されたという。このできごとはルイス・フロイスの『日本史』に記されているが、同時に熱心なキリスト教徒であった大友宗麟による働きかけがあったとも書いてある。そのため、宣教師の親切さに感銘を受けたというよりは、大大名の圧迫を受けて方針を変えたと考えたほうがいいのかもしれない。 やがて義貞は洗礼を受けてキリスト教徒となり、その子である晴信もまた父にならった。といっても、晴信は当初キリスト教…
…ると発表したところ、大友宗麟が「待った」をかけたからだ。「そんなことは前例がない」というわけだ。 宗麟の目的は多年に渡って睨み合ってきた相良氏への嫌がらせだったが、それだけではない。大友氏は代々に渡って「義」の字を受け、「修理大夫」の官職も授けられてきた。そこに、伝統でも実力でも劣る相良氏が同じ扱いを受けるのは納得がいかない、格が違う、という思いがあったのだと考えられる。この時、義輝自身は宗麟の抗議を退けたが、結局義陽は10年以上もの間この名を使えなかった。宗麟が認めなかった…
…一般的に、彼は豊後の大友宗麟に仕えていた大谷盛治の子だとされている。しかし彼の出自には諸説あり、近江国出身とするのが有力だとも言われていて、定かでない。彼が初めて史料に登場するのは、19歳の時である。16歳の頃より羽柴秀吉に仕えていたとされる吉継は、馬廻衆として1577年(天正5年)より彼の中国攻めに従った。播磨国に侵攻し、秀吉が上月城、三木城と攻めていく中で、吉継もその戦いに加わっている。 1583年(天正11年)、織田信長の死後、その後継者をめぐって賤ヶ岳の戦いが勃発。吉…
…名・大友氏だ。当主の大友宗麟は1554年(天文23年)に将軍・足利義輝から肥前守護に任じられていたため、1565年(永禄8年)に肥前を攻撃するべく重臣に3万近い兵をつけた。交戦したものの、隆信と結んだ毛利元就の助けがあり、隆信は宗麟と和平を結んでいる。 しかし、宗麟は再び兵を出した。8万ほどの兵(4万とする説もあり定かではない)で佐賀城を囲んでいる。局地的な争いがあり、龍造寺氏が地の利を生かして大友方を撤退させることが多かった。そんな状況に業を煮やした宗麟は、弟の大友親貞(親…
…リートセット第1弾 大友宗麟おおともそうりん 大友宗麟 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月2日 コンプリートセット第1弾 長宗我部元親ちょうそかべもとちか 長宗我部元親 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(印刷) 縦14.8cm、横10.5cm 2020年6月2日 コンプリートセット第1弾 後藤基次ごとうもとつぐ 後藤又兵衛 ネット通販(戦国魂) 通販 2640円 墨将印 書置き(…
…を支援する九州豊後の大友宗麟らとの戦が続いていました。 大友宗麟とは博多湾の支配権を大友氏へ渡すことで和睦し、尼子の残党軍を一掃することで毛利家の地盤を盤石なものとしました。 尼子と戦をしている間に当主を譲っていた息子の隆元が急死するという悲劇に見舞われ、隆元の嫡男であり元就の孫である輝元に家督を継がせます。 そして一代で毛利家を西の大大名にまで成長させた毛利元就は自ら築いた王国を見守るようにして、1571年6月14日にふるさとの吉田郡山城で死去しました。75歳まで生きたこと…
…物である石宗は主君・大友宗麟にもかなり信頼されていたようだが、やがてその両者の関係にヒビが入っていく。きっかけは宗麟がキリスト教に傾倒していったことのようだ。石宗は軍配者として日本古来の宗教に親しかったせいか、それとも別の理由があったのか、その態度を激しく非難したため、宗麟との仲が悪化した、というわけだ。 やがて1578年(天正6年)、宗麟は勢力を拡大するべく日向国へ兵を向ける。これに対して石宗は「宗麟が厄年(49歳)であること」「日向のある未申(ひつじさる)は凶の方角である…
…説でもあります。 (大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとか、いろいろファンキーな説です) ただし信長はイエズス会から資金提供を受けていたといっても、当時のイエズス会には資金力がなく、会を維持運営するのにも事欠くありさまだったことからも、信長を財政的に援助するのは不可能だったと思われます。 信長がそれまでの戦国大名と異なり、経済力がずば抜けていた点に着目した説なんでしょうが、現在では提唱した立花京子さん自身もこの説を否定していることからも、候補からはずしていいで…