攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

尾張藩 の検索結果:

【家康の謎】しかみ像っていつ描かれたの?

…れがのちに「徳川義直(家康の子で尾張藩祖)が描かせた」ものになり、三方ヶ原云々という話も入ってきて、ついに先ほど紹介したようなエピソードが形成された、と推測されている。 なお、脱糞のエピソードも後世の創作であろうと考えられている。こちらについては、『改正三河後風土記』という江戸末期の史料に、三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦い(武田軍から二俣城を守るための戦い)での出来事として似たような話が収録されており、これを元に作られたのではないか、という。 blog.kojodan.jp

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…および家臣団の多くは尾張藩の徳川義直へ引き継がれた。 藤井松平については、家康と同じ時代の松平信一(まつだいら のぶかず)が武将として活躍し、信長から桐紋の羽織を与えられて家紋も桐にしたとか、信長の名をもらって「信一」と名乗ったともいう。慶長年間に常陸土浦藩3万5千石を与えられる。この家系は老中・松平信之(まつだいら のぶゆき)も出して下総古河藩9万石まで出世したが、信之の嫡男が発狂して所領没収となる。家としては信吉の弟が備中庭瀬藩3万石を与えられて存続し、出羽国上山藩3万石…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…れていることもあり、尾張藩に資料は残っておらず、このように参加した各藩の大名家に伝わっているんだそうです。幕府が工程管理するために用意していてもおかしくないと思いますし、あまりに性善説で放任主義な気もしますが、関ヶ原後(そして大坂の陣以前)という時代背景を考えると、大名たちは幕府の評価を高めるために競って工事を進めたでしょうから細かく管理監督をしなくても完成したのかもしれないですね。 ちなみに名古屋城築城の際、細川家も小倉藩として参加しています。その後、加藤家が改易となって細…

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…家宣は自らの跡を時の尾張藩主・徳川吉通(とくがわ よしみち)に譲るべきかと考えたことがある。ところが、吉通は家継の死の少し前に病で亡くなり、その子の五郎太も跡を追うように亡くなっている。尾張徳川家はむしろ血筋が絶えるかどうか、という状況に追い込まれてしまったのだ。 結果として8代将軍の後継者候補となったのは、吉通の弟で尾張藩主になった徳川継友(とくがわ つぐとも)、御三家当主として最高齢だった水戸藩主・徳川綱条(とくがわ つなえだ)、家宣の弟で館林藩主の松平清武(まつだいら …

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…わざわざ同じ御三家の尾張藩士を江戸から連れてきて技術指導を頼み、新宮領の鍛冶たちに「一之丹鶴丸」を建造させている。残念ながらこの船自体は失敗作であったのだが、その後二隻目である「二之丹鶴丸」を建造させているから、忠央としてはかなり入れ込んだ計画であったらしい。 さらに幕政にまで さらに忠央は藩政だけでなく、幕政にまで関与する。そもそも、彼は江戸定府の立場を利用して、付家老五家の中でも特に積極的に対幕府工作を行っていた。まず、妹のひとりを大奥に女中として送り込む。彼女に時の将軍…

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

尾張藩徳川家の付家老たち ここからは、各藩に仕えた付家老たちについて、それぞれの個別の事情や背景を紹介していく。尾張藩徳川家の付家老は、大山城主の成瀬隼人正家と、今尾城主の竹腰山城守家の二家である。 まず、成瀬家は藤原氏の流れを汲む一族で、放浪の末に三河に定着し、早い時期から松平(徳川)氏に仕えた。付家老としての初代である成瀬正成(なるせ まさなり)は家康の小姓から出発し、やがて側近として駿府の大御所政治で重要な役割を占めるようになる。家康の九男である名古屋藩主(のちに尾張藩…

【殿様の左遷栄転物語】第4章 付家老の悲哀 関連企業へ出向した役員は?

…だ。 成瀬隼人正家(尾張藩付家老、3万5千石) 竹腰山城守家(尾張藩付家老、3万石) 安藤帯刀家(紀伊藩付家老、3万8千石余) 水野対馬守家(紀伊藩付家老、3万5千石余) 中山備前守家(水戸藩付家老、2万5千石) 本章では彼らを中心にしつつ、他の親藩大名に付けられた家老たちについても併せて紹介したい。 御三家が成立するにあたってはこの五家以外にも多数の家臣がつけられ、中には万石を超える所領と家老職の世襲を有する家もあった。しかし、たとえば安藤・水野両家が「特別にして代々加判之…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…ったのかもしれない。忠勝の後を継いだ正則の子・正利は旗本として3千石を与えられ、彼が後継者なく死んで家が断絶しても、正則のひ孫にあたる福島正勝が1681年(天和元年)に旗本に取り立てられて再興を遂げたのである。 また、これとは別に徳川御三家のひとつ尾張藩では、正則がその活躍の割に不遇の最期を遂げたことを残念に思い、わざわざ子孫を探して付家老の成瀬家に仕えさせた、という。直接に尾張藩士としなかったのは、やはり正則は罪によって改易された大名なので、幕府をはばかったのだ、と伝わる。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

…るべき御三家最上位の尾張藩主・徳川吉通(とくがわ よしみち)およびその子の五郎太はこの少し前に亡くなっており、徳川継友(とくがわ つぐとも=吉通弟)、徳川綱条(とくがわ つなえだ=水戸藩主)、松平清武(まつだいら きよたけ=家宣弟、館林藩主)といった御三家や親藩大名の面々が候補として残され、その中から吉宗が選ばれて将軍となった、というわけだ。ちなみに、吉宗以前に分家から将軍が出た場合、その分家は消滅していたが、紀伊藩はそのまま存続している。 これだけ異例の出世を遂げただけに、…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…なわち、9男の義直(尾張藩)、10男の頼宣(紀伊藩)、11男の頼房(水戸藩)はそれぞれ大大名として立てられ、特別な権威を与えられた。彼らは徳川(松平)一族である親藩大名の中でも特に別格の存在として「御三家」と呼ばれた。御三家はときに幕政へ介入するようなこともあり、また宗家が途絶えた際にはこの中から新たな将軍が選ばれたのである。 この御三家に準じる存在として江戸時代半ばに立てられたのが、8代将軍・徳川吉宗のふたりの子(田安・一橋家)と9代将軍・家重の子(清水家)の「御三卿」であ…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではないと言えますが、先にも述べた通り軍事力を統制することや幕府への反逆を抑えるという目的であったということですね。 まとめ 元和元年(1615年)に出された一国一城令によって城の数は激減し、戦の世が終わりを告げました。この法令によ…

【お城の基礎講座】43.御殿は何で構成されているか?

…屋城本丸御殿。当時の尾張藩の政治の場 まとめ 近世城郭では御殿が多く建てられ、政治を行う場所でもあり城主の住居でもありました。御殿には表と奥がありそれぞれ役割が異なりました。犬山城にも松の丸御殿、西御殿、三光寺御殿の三つの御殿が存在していました。ということで、お城の御殿は何で構成されているのかというお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読むことができます。 【無料】たか…

こーたさんの「史跡犬山城跡指定記念シンポジウム 〜史跡犬山城跡のこれから〜」参加レポート

…経済発展、徳川御三家尾張藩の付家老(つけがろう)という立ち位置で、ステータスもありながらコンパクトに残ったまま明治維新まで続いた、というお話でした。そして「これから観光はもっと知的にスマートになっていく」とおっしゃり、城下町への思い・観光客への期待を述べられました。 ──まさにDMO(Destination Marketing / Management Organization)視点の話で、攻城団がプレゼンテーションしていることのようだと思いました。 麓先生から、犬山城は天守…

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