攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

広島藩 の検索結果:

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…公家については文書による正式な手続きが必要であり、江戸時代になっても天皇・朝廷の専権事項として残ったことがわかっている。また、幕末の広島藩で、幕府に改名の許可をもらっていたことを示す史料もある。戦国時代の武士にそこまで明確なルールがあったとはちょっと思えないが、一族の本家や主君への許可は取っていたのではないか。それらを無視して改名するのは独立性の高い勢力であるか、あるいは本家や主君へ反逆する強い意志をもって行なったと考えるべきではないだろうか。家康のケースはまさにそれである。

【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家

…穂藩浅野家は、安芸国広島藩主・浅野家の支流にあたる。清和源氏の流れで、末裔の浅野長政が豊臣秀吉の正室・おねの義理の兄弟という関係から大いに躍進、後に豊臣政権の五奉行筆頭となっている。関ヶ原の戦いで東軍について功績をあげた浅野家に与えられた下野国真岡の2万石を、3男の長重が受領して真岡藩を成立させた。その後、父・長政の死により彼の所領である常陸国真壁5万石を受け継ぎ、1622年(元和8年)には常陸国笠間5万3千石余に移封。さらに赤穂藩主・池田輝興が発狂して自分の正室を殺して改易…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…げられるのは、安芸国広島藩の福島正則ではないだろうか。この家の取り潰しは明らかな言いがかりによって行われ、その背景には豊臣家亡き後の江戸幕府・徳川家を絶対的な存在にしようという意図が読み取れる。 福島家は平氏の末裔であるらしいが、歴史の表舞台に出てくるのはやはり正則の代からだ。正則の母は秀吉の伯母にあたるため、豊臣家と福島家は親戚関係にあり、正則は秀吉から羽柴の姓を与えられている。正則は幼少のころから秀吉によく仕え、数々の戦功をあげた。後述する加藤清正と並んで、秀吉子飼いの家…

【殿様の左遷栄転物語】第1章「天下分け目」のその後で 負けた後こそ正念場

…領を与えられている。広島藩士の家督は彼の次男が継承し、また長男は幕府に召しだされて、旗本として家系が残っている。 そして、ごく少数ながら以前と同じ、あるいはそれ以上の所領を得るにいたった大名がいる。現代でいえば、「1度派閥闘争に敗れて僻地に左遷された重役が、そこそこの地位であっても支社長などの形で復帰した」というところだろう。この章では、そうした「関ヶ原復活組」の主要な大名を紹介し、彼らの抱えていたそれぞれの事情と、どうやって復活にこぎつけたのか、その背景に迫っていきたい。い…

初代藩主と藩祖のちがい

…、榎本先生によれば「広島藩は(関ヶ原の戦い前は)毛利輝元、(江戸時代では)福島正則が藩主をつとめましたが、藩祖は浅野長政です。」と、あくまでも藩の成立時ではなく、幕末から見ていくべきだと。たしかにこのルールだと会津藩は保科正之になりますね。 ということは江戸時代の途中で廃藩となった藩には藩祖がいないことになります。また保科正之は高遠藩主や山形藩主もつとめていますが、高遠藩は(鳥居家改易のあと一時期廃藩になるも)幕末は内藤家、山形藩は水野家が最後の藩主なので、正之は藩祖ではあり…

6.譜代大名の懐事情

…げと領地の召し上げ、すなわち取り潰しのことである。どちらも幕府の権威を大名に知らしめるには有効な手段だったため、特に江戸時代初期にはよく行なわれた。「関ヶ原の戦い」で東軍の先鋒まで務めた安芸国広島藩の福島正則が、災害で壊れた居城の広島城の石垣を幕府に無断で修理しただけで改易されたことは、よく知られている。改易までいかなくても、減封されれば財政はすぐに逼迫する。幕府ににらまれないようにすることは、大名にとって死活問題でもあったのだ。 次回「(7)寵臣の出世と末路」につづきます。

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…直轄地とする。同年、広島藩の福島正則が無断で城の石垣を修理したとして領地没収となり、浅野家がこれに代わることとなった。そして、空いた紀伊に徳川頼宣が送られ、ここに御三家のひとつ、紀伊徳川家が誕生する。四国・九州も当初は外様大名に占められていたが、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。 その他、外様大名が改易や転封を受けたり、無嗣断絶に至ったりした場合は、ほとんどが譜代大名に代わられることになり、幕府の支配体制を強化することになった…

大政奉還についての誤解〜教科書でよく見る絵のように慶喜が諸侯に発表したわけじゃない?〜

…知藩士・後藤象二郎、広島藩士・辻将曹、岡山藩士・牧野権六郎、宇和島藩士・都筑荘蔵、とくに慶喜に拝謁して、ただちに奏請せんことを勧説する。 10月14日、大政奉還上表(15日、勅許)。 10月16日、幕府、在京十万石以上の諸藩重臣、旗本を二条城に召し、大政奉還勅許を示達する。 10月17日、幕府、在京十万石以下の諸藩重臣を二条城に召し、各藩主の早々の上京を命じる。 つまり事実としては 12日に「黒書院」で慶喜が松平容保、松平定敬らに大政奉還の意思を伝える 13日に老中・板倉勝静…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…)できたことに伴い、広島藩を分割してあらたに水野勝成が福山城を築きます。これは「一国一城令」後でもあり、異例の新規築城でした。 つまり、 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い 1601年(慶長6年)姫路城の改修工事開始 1614年(慶長19年)大坂冬の陣 1615年(慶長20年)大坂夏の陣 1618年(元和4年)明石城着工 1619年(元和5年)福島正則改易、福山城着工 という時系列で考えることが大事です。この期間の流れをパラパラアニメにしてみました。 とくに1619年(元和5…

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